06 もう一人の歌姫
ルリィ「まさかのイェンスと二人パーティ」
大聖堂で働き生活する人々の食事を賄う厨房。常日頃から清潔に保つことを心掛けているとはいえ、パンくずの一欠けらでもあればどこからともなく湧いて出るその不潔な害虫にはずっと悩まされていたという。
神聖な大聖堂の構内で殺生は構わないのだろうかとも思ったけれど、「……止むを得ない場合は目を瞑ってもらえるのですよ」とイェンスがこっそり教えてくれた。
「そもそも我々の衣食住その全てがほかの何かの命を使わせて頂いているのですから……この辺りの解釈は教派ごとに少しずつ異なるのですがね。大切なのは、この命を生かしてくれる全てのものに日々感謝することなのですよ」
そう言って彼は微笑んだ。
厨房の棚の裏や隙間、食料庫をあらかた駆除し終わった後に侵入経路と床下の巣まで探り当てたルリィは、仕事を終えて地上に顔を出した。しゅるんと伸ばした触手で駆除完了を告げる丸を作ってみせると、顔を見合わせた人々はほっと安堵の息を吐きながら破顔した。
「いやぁ、ありがとう! あいつらには本当に困ってたんだよ」
「床下に巣食ってたとはなぁ。いくら駆除してもすぐに湧いて出るわけだ」
料理人達に口々に誉めそやされる中、盥いっぱいの湯を用意して待っていてくれた厨房長に近寄った。勧められるままに湯に浸かると、彼は自らの手で綺麗に埃を洗い流してくれた。繊細な食材を扱い慣れているからなのかどうか、その手付きや力加減は絶妙で心地よい。ぷるんぷるんと震えて堪能していると、上からイェンスと厨房長の小さな笑い声が降ってきた。
一仕事した後の入浴を楽しむルリィの後ろでは、料理人たちが流し台と壁の接合部にほんの僅か生じた亀裂を覗き込みながら、真剣な面持ちで話し込んでいる。
「こんなところに隙間があったとはなあ……」
「営繕部に頼んでおくか。すぐ対応してもらえるといいが」
「それまで詰め物でもしておこう」
微妙な隙間に布切れを押し込んでいる彼らを見守っていたイェンスが、「しかしこれでしばらくは安心ですね」と呟く。ルリィを洗う手を動かしながら、厨房長は頷いた。
「ああ、本当に。これは定期的にお願いしたいところだよ。月に一度でも来てくれるとありがたいんだけどなあ……」
それに対して勿論だとぷるんと震えてみせると、その動作を見慣れているイェンスが代わりに答えてくれた。
「では私からシオリさんに伝えておきましょう。それでいいですか?」
訊かれてもう一度ぷるんと震えて返事する。
それを見た厨房長は愉快そうに声を立てて笑った。
「本当に賢いんだな。こちらの言うことは全部理解しているんだね」
「ええ。それにとても冷静で思慮深い。子供達と接している彼を見ていると心底そう思いますよ」
誉められて悪い気はせず、もう一度ぷるるんと震える。
ちゃぷちゃぷと洗い流され、なんとなく埃っぽかった身体がつやつやのぴかぴかに戻った。
「さて、綺麗になったことだし、お茶でもどうだい? 生誕祭のときにしか作らない特別なケーキもあるんだ。どうかな」
特別製のケーキ。シオリが作ってくれる焼き菓子や、時々買ってもらうエナンデル商会の使い魔用クッキーも特別に美味しいけれど、ここの「特別」も美味しいのだろうか。
勿論とばかりに力強くぷるぷる身体を揺すると、相好を崩した厨房長は保冷庫から真っ白なケーキを取り出した。真四角な土台に純白のクリームを塗って、その上にはやはりクリームで蔦と小鳥の模様が描かれている。優しい砂糖と乳の香り。これは美味しそうだ。
ぷるんぷるんとうきうきしながら待っているルリィの前に、切り分けられたケーキが置かれた。ふわふわの卵色の生地の隙間にはクリームと新鮮なベリーがたっぷりと挟まっている。
「さあどうぞ。口に合うといいんだが」
いただきます。ぺこりと前屈みになってから、しゅるりと触手を伸ばしてケーキを取り込んでいく。ふわふわで甘くて、時々じゅわっと滲み出るベリーの甘酸っぱさが絶妙に絡んで美味しい。
「……『聖女のケーキ』と言えば、生誕祭当日に高位の方々しか口にできないものでしたが……豊かになったものです。我々のような庶民でもこうして楽しめるようになったのですから」
言いながらも孤児院で待っている子供達に遠慮してか、紅茶だけをもらって啜っていたイェンスがぽつりと言った。
「まったくだ。これも陛下や先帝陛下、先々代様のお陰だよ。あの方々が尽力してくださったからこそ、こうして飢えを知らずに暮らしていられるんだ。食事だけじゃない、旅行や観劇、音楽、本……上流階級だけのものだった娯楽を楽しめるほど豊かな国に生を与えてくださったことを神々に感謝しなければね。勿論歴代の国王陛下にも」
陛下という単語が聞こえてルリィは厨房長を見上げた。その陛下の使い魔になったという桃色の同胞は元気だろうか。後で連絡してみよう、そう思いながらしゅわしゅわとケーキを溶解していく。
皿にこびりついたクリームまで綺麗に舐めとってから、ぷるんと食後の挨拶をする。綺麗に食べてくれたね、と厨房長は笑いながら皿を片付けてくれた。
「ご馳走様でした。……さて、ではそろそろお暇しましょうか」
「ああ。じゃあ、害虫駆除の件、頼むよ」
「ええ、伝えますよ」
厨房長や料理人達に見送られて、触手を振って返しながら厨房を後にする。
「さて、このまま戻るつもりでいましたが、シオリさんに伝言を届けなければ。また一緒に行きましょうか」
美しい円柱が規則的に並ぶ回廊を外れ、雪の降り積もった庭園を歩いて迎賓院に向かっていたそのとき。
雪の中を急ぎ足にやってくる聖堂騎士の姿が見えて、ルリィとイェンスは足を止めた。いつも孤児院を警備している騎士の一人だ。困惑したような微妙な表情を浮かべている彼は、イェンスの姿をみとめて足を速める。
「――イェンス司祭! こちらにいらっしゃいましたか」
「どうなさったのです。もしや子供達に何か?」
「いえ……それが」
駈け寄った騎士は一旦言葉を切り、一瞬だけ躊躇うように足元のルリィに視線を向けてから言った。
「トビーが若い女性を連れてきましてね。孤児院の近くで迷っていたから連れてきたというのですが、何か思いつめた様子で……どうしたものかと」
トビーは孤児院で生活している少年だ。年明けにはとうとう成人を迎えるらしく、憧れの冒険者になるべく冒険者登録試験の願書を取りにいった帰りにその女性を「保護」したということだった。その女性はひとまず詰め所で休ませているという。
「思いつめた……ですか。分かりました、すぐ戻りましょう」
そう言うと、聖堂騎士はほっとした様子を見せた。聞き上手のイェンスのもとには、時折こうして悩み事を抱える人が訪れるらしい。きっと今回もそうなのだろう。
「……そういう訳ですので申し訳ありませんが、ルリィ君は一人で戻って頂けますか? 厨房長の依頼は後で直接伺って伝えますから」
イェンスに言われてルリィは一瞬だけ考え、それからぷるんぷるんと身体を左右に揺らして否定した。シオリにはアレクが付いているから安全だし、話し合いの最中に自分がいてもできることはほとんどない。
――それに、なんだか行った方がいいような気もするし。
「……おや。付いてきてくれるんですか? 私は構いませんが……」
言い掛けてから口を噤んだイェンスは、すぐに頷いて微笑んでくれた。
「では用が済んだら一緒にシオリさんのところに戻りましょうか」
ぷるん、と震えて返事すると、彼はもう一度微笑んでから「参りましょう」と言った。
敷地内の林を抜けた先にあるトリス孤児院。孤児院を取り囲む堅牢な塀は、閉じ込めるためのものではなく安全対策のために設置されているという。小さな子供が勝手に出歩いて迷子にならないように――そして、人買いが攫いにくるのを防ぐために設置されたものでもあるらしい。
「四、五十年ほど前まではそういうこともよくあったそうです。悲しいことですね」
そう言ってイェンスは眉尻を下げて苦い笑みを浮かべた。
かつては僧房として使われていたこともあるというこじんまりとした建物をぐるりと囲む塀に沿って、一匹と一人は並んで歩く。その先に見える門の脇に、聖堂騎士の小さな詰め所はあった。
立哨の騎士はこちらに気付くと敬礼して出迎えた。顔見知りの彼はルリィを見下ろして一瞬だけ目を丸くしてから、「今日は一人なんだね」と言って中に案内してくれた。
詰め所の奥に設けられた休憩所には、青みがかった銀髪を緩く後ろで束ねた若い女性が一人、腰を下ろして紅茶の入った茶器を見下ろしていた。
彼女を連れてきたというトビーの姿はない。既に孤児院に帰されているようだ。
こちらに気付いた彼女は顔を上げて小さく会釈する。それからイェンスの足元にいるスライムに気付いて、はっと息を呑み微かに身を引いた。
「大丈夫ですよ。彼は私の知人の使い魔なのです。温厚で人懐っこいのですが、とても冷静なところもありましてね。子供達の悩み事を聞いてくれたりもするのですよ」
確かに「ルリィちゃん、きいてくれる?」と相談してくる子供もいるし、アレクやザックも自分相手に独り言を言ったりもする。彼らの場合は悩みなのか愚痴なのか猥談なのかよく分からないことも多いのだけれども。
「……スライムが? 凄い」
触手を伸ばして挨拶すると、彼女は目を丸くしてからくすりと笑い、少しだけ顔色の悪かった頬に朱が入る。
「可愛い……ね、触ってもいい?」
いいよ、とばかりにぷるんと震えると、彼女は恐る恐る伸ばした手を瑠璃色の身体に触れた。ぷにぷに、ぷよぷよ。何度かつついて感触が気に入ったのか、次第に手付きが大胆になってくる。触りやすいように卓の上に上ると、とうとう彼女はルリィの身体に顔を埋めてしまった。
「あぁ……癒されるぅ……」
その様子にイェンスと聖堂騎士は噴き出してしまい、彼女ははっと顔を上げて真っ赤になりながらごめんなさい、と呟いた。
「いいのですよ。落ち着いたのなら何よりです」
言いながらイェンスは椅子を引いて、彼女に向き合うように座った。気を使った聖堂騎士は、敬礼してから静かに詰め所を出ていった。
「……さて。私はイェンスと申します。この孤児院の院長を務めております。この近くで迷っていたと伺ったのですが、どちらかにご用事でも?」
本題に入ると彼女は居住まいを正して座り直した。ただ、その片手だけはルリィの身体に触れたままだ。不安なのかもしれない。触手を伸ばして彼女の手をぺたぺたと触ると、少し驚いた表情を作ってから、すぐに小さく笑ってくれた。
「私は……ヒルデといいます」
彼女は言い掛けてほんの少し躊躇う素振りを見せてから、名前だけを名乗る。なんとなく最近聞いたことがあるような気がする名前だけれど、どこでだっただろうか。ぷるんと震えると、イェンスも微かに首を傾げた。
「友人に会いに来たんですけど、泊る予定だった宿を変えたらしくて……それで迷ってしまって」
「宿を? 行き先は聞いたのですか?」
「はい。あの、大聖堂に。予定が変わったとかで当日キャンセルしたみたいなんです。だからここまで来てみたんですけど会わせてもらえなくて。聖堂騎士様に追い返されてしまいました。知り合いだから会いたいって言って入り込もうとする人が多くて困ってるみたいで……本当に知り合いなんですけど信じてもらえなくて、せめて彼女に会わせてもらえれば証明できるんですけど」
目を丸くしたイェンスは、ちらりとこちらを見た。それに対してぷるんと震えてみせる。
「ヒルデさん……と仰いましたね。もしかして、お友達というのはフェリシアさんですか?」
訊けばヒルデは頷いた。
「はい。どうしても伝えたいことがあって来たんです。でも騎士様が『皆おんなじこと言うんだよね』って取り合ってくれなくて」
――ヒルデ。フェリシアの知り合い。
イェンスが何とも言えない微妙な表情になった。少し困っているのかもしれない。しばらくの沈黙の後にイェンスは言った。
「……ヒルデさん。貴女の正式なお名前は、ヒルデガルドさんでよろしいですか? 王都でご活躍の歌手の」
「まぁ! ご存じなんですか!」
ヒルデ――ヒルデガルドはしょんぼりしていた顔をぱっと輝かせた。
「確かに王都では少し名前は売れていますけど、どちらかと言うとフェリスの方が有名ですもん。わぁ……なんだか嬉しいなぁ……こんな遠いところでもご存じの方がいらっしゃるなんて」
にこにこと無邪気に微笑んでいるヒルデガルドを前に、いよいよイェンスは困ったような顔になった。聖職者らしく、それは目の前の「相談者」を不安にさせないようなほんの僅かな表情の変化だったのだけれども、その纏う気配が困惑したようなものになる。
何か聞いていた話とは違うなぁ、とルリィは思った。
ヒルデガルドと言えば、フェリシアと対立しているのではなかったか。それどころかトップの座を狙って悪質な嫌がらせをしているという――。
にもかかわらず、ヒルデガルドはフェリシアを友人だと言って親しげな愛称で呼んだ。目の前で屈託ない笑みを浮かべている彼女に、陰謀を企むような陰湿な印象はどこにもない。
ルリィは思った。多分この人はいい人だ。魔獣としての勘が告げている。同胞を傷付けるような悪い人ではない、と。
イェンスが彼女にどういう印象を抱いたのかは分からない。けれども今この場でその話の矛盾点を問い質すようなことはしなかった。
「実は少しトラブルが起きましてね。それで面会を制限しているのです」
「……トラブル、ですか?」
ふわふわと小花でも飛び散りそうな気配を纏っていたヒルデガルドの表情が、すっと曇った。
「ええ。旅の途中で楽団の方々が急病に罹りましてね。感染症の疑いがあるのでこちらの施療院で治療しているのです。フェリシアさんを含めた女性の方々は皆幸い感染せずお元気ですが、念のため大聖堂の宿泊施設に滞在して頂いているのですよ」
イェンスの言葉に彼女は目を見開いてゆっくりと腰を浮かせ、みるみるうちに蒼褪めた。しかしそれも束の間、すとん、と気が抜けたように腰を落とす。
「……じゃあ……手紙は本当だったんだ……。どうしよう、こんなことならもっと早く来れば良かった」
「手紙?」
まるで感染を予見していたようにも聞こえる言葉。イェンスは微かに表情を険しくして訊き返した。それでも怯えさせないように柔らかい態度は崩さないのは、常日頃から子供達と接している彼らしい気遣いだ。
「そのお手紙というのは? 本当だったというのはどういうことでしょうか」
「フェリスが出発したちょうどその日にあの子から手紙が届いたんです。なんだか狙われてるみたい、音楽会で何かありそうだから怖いって。実際あの子の周りで最近変なことばかり起きてるから私、いても立ってもいられなくなって……」
「……そのお手紙は、今お持ちですか?」
「はい。本当は何があるか分からないから読んだらすぐに燃やしてって書いてあったんですけど、それどころじゃなくってそのまま持ってきてしまって……ええと、これです。イェンス様は女の子が信用しても大丈夫そうな方みたいだから……どうぞご覧になって」
小さな旅行鞄の中から、何度も読み返したのかすっかり皺になってしまった封筒を取り出す。宛て名だけが記された上品な白い封筒。中の可憐な花の透かし模様が入った便箋には、ごく短い文章が記されている。
ぷるるんと震えながら覗き込むと、「女性の筆跡ですね」と呟きながらイェンスはその内容に視線を走らせた。読み終わってから、微かな吐息を漏らす。
「ヒルデさん、これは私が預かっても?」
「……あ、はい、どうぞ。あの、それで……」
不安げに視線を彷徨わせる彼女にイェンスは微笑んだ。
「会わせてさしあげられるかどうかはお約束できませんが、少し相談してみますよ。今日の宿は?」
「いえ、急に決めて来たものですから、まだ」
「トリスには何度か?」
「いいえ、初めてです」
「そうでしたか。生誕祭前後のトリスはとても混雑していますので、今から宿を取るのは難しいでしょう。お部屋を用意させますから、今夜はこちらにお泊りなさい」
ヒルデガルドは目を瞬かせた。
「え、いいんですか?」
「空いているお部屋は尼僧房か聖堂騎士団の宿舎になると思いますし、事情が事情なので護衛の騎士を付けてもらいますから多少は不便かもしれませんが、それでもよろしければ」
彼女はぱっと顔を綻ばせて、お願いしますと頷いた。
ルリィ「聖職探偵」
ペルゥ「害虫駆除のパーティなのかと……」
氷柱付き雪男「……犯人を丸裸にしてはいけませんよ」
書籍2巻ピンナップの「唐揚げ」についてですが、「唐揚げ好き」と入力するところを間違えて唐揚げにしてしまっただけです……ごめんリヌス。唐揚げって。




