56 幕間十二 失恋男達の慰労会(クレメンス、ザック)
ルリィ「ナディアはお休みー」
ペルゥ「そして悪戯を成功させた者がいる」
「酔い潰れねぇのは久しぶりだな」
グラスの酒を口に含んでゆっくりとその味と香りを楽しんでいたクレメンスは、そう言われて目の前の男に視線を向けた。言葉そのものは揶揄うようなものであったが、それを口にしたザックの目はどこか気遣うような色を湛えていた。
「まぁ……な」
クレメンスは些か苦みを含んだ笑みを浮かべてグラスを揺らす。透明な酒は緩く波打って小さく弾け、ふわりと柔らかで豊かな穀類の香りを放った。
「そういつまでも引き摺ってなどいられないさ」
「へぇ? ……じゃあ、ようやく吹っ切れたってことかい」
「……吹っ切れたというにはまだ早いが……まぁ、そうだな。あと少しといったところか」
己の想いに気付いたときには既に、密かに愛しんでいた女は親友と想いを交わし合っていた。
否、本当は薄々気付いていたのだ。だが、兄のような立ち位置は心地よかった。懸命に生きる女に抱いた慕情を密かに温めながら、この程良い距離感を壊したくはないと見守るだけに留めていたのだが――そうしているうちに、あの事件が起きてしまった。防げなかった。ほんの二、三ヶ月会えずにいるうちに、ほとんど全てが終わっていたのだ。
残されたのは、ひどく傷付いた彼女とそれを護れなかったという悔恨の念、そして一番護ってやらなければならないときに何の助けにもなれなかったという自責の念から封じてしまったこの恋情だった。
(……君はきっと知らないのだろうな。君の傷が心に付いたものだけではないということを――私が知っているということに)
見ないで、と。
ひどく取り乱して発したあの悲痛な叫びは、今でも耳にこびりついて離れない。ニルスと二人であの細い身体を押さえ付けたことも、彼女に口移しで鎮静剤を飲ませたザックと、大人しく彼のするままに身を任せた彼女のことも――全て覚えているというのに、あのときのことを彼女は何一つ覚えてはいない。
――そして、あの瞬間に気付いてしまった。シオリとザックは想い合っている。想い合っていながらただの一度もその気持ちを打ち明けることなく、あの事件を境にして兄妹になるという道を選んでしまった。
彼女に最も近しい立場の彼がその思いを封印するというのなら。
彼と同じように彼女の近くにいながら何もしてやれなかった自分はなおさらのこと、この気持ちを打ち明けるわけにはいかないではないか。
想いを告げることなく終わりを迎えた恋は、時折ちりりと胸を焼く。
だが、それでも。
新しい恋を見つけて想いを交わし合い、アレクと二人寄り添い微笑み合うのを見るごとにこの胸は痛みもするが、それ以上に安堵するようにもなっていた。逆境の中でも懸命に生きてきた二人の――愛した女と大切な親友の傷が癒えつつあるのだ。
あの二人は十分過ぎるほどに苦労した。だから、もういいではないか。そろそろ幸せになるべきなのだ。
これで良かったのだろう、と。最近はそう思うのだ。
「……まぁ、お前ならこれからでも十分にいい女が見つけられるだろうさ。むしろ今までいなかったことの方が可笑しいくらいなんだぜ」
「何度か誘いがあったことは確かだがな」
クレメンスは苦笑しながらグラスを傾ける。
「いい女もいたが……どうもな。その気もないのに付き合うのは相手に失礼というものだろう」
火遊び希望のご婦人も多かったが、本気だっただろう女も中にはいた。だが、その誰もに食指が動くことはなかった。今まで目にした女の中で唯一愛しいと思えたのがシオリだったのだ。
「いい女、か……」
クレメンスが勧めた酒をちびりと啜り、美味そうに目を細めながらザックは言った。
「ナディアはどうだ。あれもいい女だぜ。気心だって知れてる」
「……確かにいい女だがな」
シオリに会わなければ、そしてナディアの素性を知らなければ本当に口説いていたかもしれないクレメンスは苦笑いした。
「お前の亡き親友の婚約者になっていたかもしれない女だろう。私では到底釣り合わんよ」
実際には双方の口約束で終わったその関係。内定するかというときに相手の男は事故死したためにナディアの存在は公になることはなかったのだが。
「あいつにはもうあのときの身分はねえよ。お前と同じ平民だ。それに――さすがにもう心の弔いは済んだって言ってたぜ」
「そうかもしれないがな」
「……お前も……難儀な奴だな」
ザックは苦笑した。
「お気遣い紳士にもほどがあるぜ」
「言ったな」
クレメンスもまた苦笑し、そして少しばかり意地の悪い形に唇の端を上げてみせた。
「そういうお前こそどうなんだ、ザック」
シオリを愛していながら兄という立場に落ち着いてしまった、そしてナディアとも古馴染みであるザック。自分などよりもよほど彼女のことをよく知っているだろう。
「それこそ死んだ親友の女に手ぇ出せるかよ。立場上俺が一番手ぇ出しちゃいけねぇだろうが」
「お前……」
空になったグラスに持ち込んだ酒を注いでやりながら嘆息し、互いに顔を見合わせて苦笑した。
「難儀なのはお互い様だな」
「まったくだ」
それにしても。
「しかしお前、シオリに会う前だって女が途切れたことはほとんどなかっただろう。あれはどうしたんだ」
どの女ともそれなりに仲睦まじかったと思うのだが、いつの間にか自然消滅するように関係は解消されていた。
指摘してやれば、途端にザックは情けない形に眉尻を下げる。
「それがよお……」
ぐびりと酒を呷ってから彼は溜息を吐く。
「……最初はいいんだけどよ。長く付き合ううちに皆おんなじこと言うんだよ。『かっこいいんだけど、恋人というよりはなんだかお父さんかお兄さんみたいでちょっと……』ってよ」
「……お前……」
面倒見の良さが裏目に出たか。
もしや、あのままシオリと良い仲になっていたとしてもやはりいずれはそうなっていたのでは――という考えがちらりと頭の片隅を掠め、慌ててそれを打ち消した。
「……なんというか、その……まぁ、お前にもきっといい女が現れるさ」
「……ありがとよ」
何とも言えない苦笑いを浮かべてもう一口酒を啜ったザックは、グラスの中身に視線を落とした。
「それにしても美味ぇな、こいつは。ちっと癖が強いが悪くねぇ。東方の酒っつったか」
「ああ。なかなかいい味だろう」
クレメンスは頷き、そして東方の肉太の文字で銘柄が書かれた瓶のラベルを彼に示してみせた。
「芋でできた酒らしくてな。『千年の孤独』というんだ」
「っぶほっ!?」
途端に彼は口に含んでいた酒を噴き出し、咽せ返った。
「てめっ……なんて不吉な酒飲ませやがる!」
「だが美味いだろう。アレクにも飲ませようと思ったが失敗した」
「おめぇはよぉ……」
クレメンスは声を立てて笑った。悪戯が成功したような顔で笑う自分に、恨みがましい目でこちらを睨み付けていたザックもやがて笑い出す。
――夜更けまで続いた失恋男同士の酒盛り。
美味い酒とともに過ぎ去った恋を飲み下し、そして想い出へと返すのだ。
ルリィ「信じられるか? この話に黒い虫をぶっこもうとした人がいるんだぜ」
雪男「えぇ……」
ペルゥ「ないわ……」
そしてバレンタインの翌日に失恋話をぶっこんだのも私です_:(´ཀ`」 ∠):
 




