53 幕間九 側仕えの条件(アンネリエ、デニス、バルト)
ルリィ「G注意報」
紙の上に色鉛筆を軽快に走らせて、脳裏に思い描く姿を描き出していく。トリス大聖堂が奉る慈愛と癒しを司る聖女サンナ・グルンデンを描いた祭壇画のラフ画だ。
――新たに就任した大司教からの依頼。持ち運びができる小型の祭壇画を若い感性で描いて欲しいということだった。
『安置されている有名画家の絵も勿論素晴らしいのだけれどね。今どきの子でも違和感なく受け入れられる祭壇画があっても良いと思うのだよ』
四十を過ぎたばかりだというその若々しい大司教は、人好きのする顔で気さくに笑いながらそう言った。
元々は著名な老齢の画家の名が候補として挙げられていたというが、若者に受け入れられる絵を望むのであれば、やはり若い画家に描かせるべきではという意見が出たという。そこで指名されたのがアンネリエだ。
『伝統を大切にしながらも新しい技術を積極的に取り入れる気鋭の女流画家と評判の貴女なら、きっとこの大聖堂にも相応しい祭壇画を描いてくれるのではないかと思ってね』
――若い感性で、歴史あるトリス大聖堂に相応しい絵を。
急な話ではあったがアンネリエは二つ返事で頷いた。画家としては初めてと言える大仕事なのだ。
(……十五年越しの恋を成就させてから、なんだか運が上向いてきている気がするわ)
そんなふうに思ってくすりと笑いながら、アンネリエは聖女の姿を描き進めていく。
聖女サンナの容姿についての詳しい記録は残されていない。彼女と親しかったというとある修道女が遺した日記に、滑らかな金の髪の、優しげだが芯の強い女性であったという記述があるのみだ。
それゆえに彼女の肖像画の全てが、描いた画家の想像によるものだった。残されている肖像画は描かれた時代の女性観や流行が反映され、当時の世相を読み解く材料となっている。
――きっとこれから描く聖女もまた、時代が下ればいずれはそうして歴史家たちの研究材料になるのだろう。
さらさらと澱みなく手を動かして、自身の心の内にある聖女を描く。
乳にバターを溶かしこんだように柔らかな乳白色の肌、絹のように艶やかに流れる髪、濡れたように輝く瞳、そして芯の強さを感じさせながらもどこか儚さを内包した微笑み。
「……これは……」
そばに控えていたデニスが呟く。
「……シオリに似ていますね」
バルトもまた頷いた。
「――ええ。聖女様の人物像を聞いたらもう、彼女しかイメージできなくなってしまったの」
優しげで、芯の強い女性。
そう聞いた瞬間脳裏に浮かんだのが彼女の姿だった。
「慈愛と癒しの聖女――でしたね。確かにイメージにぴったりです」
密かに慕う者は多いという彼女。いつでも柔らかに微笑み、救いを求める者に手を差し伸べることを厭わず、優しく包み込むように癒してくれる彼女は、それでいてどこか謎めいた一面を持つ存在だ。
元は巡礼者であり、出自は一切不明というサンナ・グルンデン像そのものだ。
「聖女のモデルに最も相応しいと思うのよ。シオリの姿をそのまま描く訳ではないけれど……一応許可を得ておいた方がいいわね」
色鉛筆で色付いていく聖女の肖像に新しく友人となったばかりの女の姿を重ね合わせ、アンネリエは薄っすらと微笑んだ。
――と。
大判のスケッチブックの端をさっと黒い影が過り、瞬間視線を鋭くしたアンネリエは躊躇いもなくそれを素手で薙ぎ払った。
壁際に控えていた従者や侍女がひっと短い悲鳴を上げるのを尻目に、床の上で腹を見せてのたうつその黒い虫をバルトがささっと回収し、柔らかい紙に包んでどこかへ持ち去る。
デニスが手洗い用の水を満たした琺瑯製の洗面器と愛用のロース・トヴォール社の石鹸を差し出し、アンネリエはそれを使って手を清めた。
従者と侍女の幾人かが顔色を悪くして溜息を吐きながら目配せし合うのを見て、アンネリエは小さく含み笑いする。
今回はスケッチブックの色鉛筆画だからさして問題もないのだけれど、これが油絵だったならあの忌々しい虫のせいで台無しになるところだった。油絵具にまみれた虫がキャンバスの上をのたうつなど、到底容認できない。それを防ぐために害虫の一匹や二匹、その場で手早く始末できるようでなければならない。
――壁際に控える者達の中に、なんとかして女主人のお気に入りになろうと目論む者がいるのは把握している。勿論お眼鏡に適えばいくらでも重用するつもりではいるのだけれども、残念ながら彼らには無理のようだ。
まさか、側仕えの条件に「害虫処理」が含まれているとは思いもしなかっただろうが。それを難なくこなせるようでなければ、虫の棲息域に入り込むことも多い野外活動に連れていくこともできないのだから。
この屋敷に優秀な人材は多いが、女主人の代理を務められるだけの知識や技量、そして虫や魔獣にも怯まない胆力を兼ね添えた者はデニスとバルトの二人だけだ。
否。
(それだけの人材が二人もそばにいてくれるだなんて――そのうちの片方が私と一緒になってくれるだなんて)
恵まれている、と。
そう思いながら、ちらりと傍らのデニスを見上げた。
――公の場では部下としての態度を崩さない彼のその視線が仄かに熱を帯び――そして柔らかに細められた。
ルリィ「ザックは確実に無理」
ペルゥ「エドヴァルドも無理」
雪男「私も虫全般無理です」
雪熊「……だから冬しか出てこないのか」
……冬に出る虫系魔獣もいるんですよねぇ……。
いるんですよねぇ……。Gではないです念のため。
G話でうっかり忘れるところでしたが、続刊のお知らせです。
詳しくは活動報告で。




