52 幕間八 星に祈りを(詩郎:シオリの実兄)
ほの暗い中にも細やかな希望を。
「随分と熱心に眺めているな」
吐息も白く、身を切るような寒さの中でも飽きることなく天上の星を眺めるシオリを、アレクの逞しい腕が抱き締める。背中に感じる温もりが心地よく、シオリはうっとりと目を細めた。
「故郷とは星の見え方が違うから、つい」
「見え方? どう違うんだ?」
訊かれて高い位置に瞬く星を指し示す。
「北極星。故郷ではもっと下の方にあったのに、ここでは随分高いところに見えるんだね」
「北極星……? ああ、神樹星か」
怪訝そうにしていたアレクは指し示す先の星を見て、合点がいったというように頷いた。
「ここでは神樹星っていうんだね」
神樹星。北方神話にある世界の中心に生えるという大樹の名を冠しているのだと彼は言った。
「北の果ての星――か。場所が変われば呼び名も変わるんだな」
「うん……そう」
故郷とは見える位置が異なる星々。それだけ距離があるのだということを思い知らされる。もっとも、離れているのは単純に距離だけではないのだけれども。
位置が違うだけで見える星も星座も同じだ。世界を隔てていながら空に瞬く星は同じ。つまりこの場所は故郷と同じ地球に存在している、ただ世界だけが異なる――並行世界のようなものなのだと、そういうふうに解釈している。
あの世界とほんの少しだけ繋がっていられる星空は、シオリの慰めでもあり、そして置いてきたもの達への祈りを捧げる場所でもある。
――私は元気でいる、だから貴方がたもどうか元気で健やかに、と。
夜空一面に煌めく数多の星を愛しい人と見上げながら、細やかな願いを呟くのだ。
――その、星空で僅かに繋がる異なる世界の、時折白いものが混じる冷たい雨が降りしきる夜。
足元の水溜まりに広がるいくつもの波紋をぼんやりと眺めていた和泉詩郎は、水音混じりの足音が近付くのに気付いて視線を上げた。
「……悪い。待たせたか?」
気遣うような声色で話しかける男に、詩郎は曖昧な笑みを浮かべて見せた。
「いや。今来たばかりだ。気にするな」
「……そうか」
水が浸みてすっかり色が変わったコートの裾にちらりと視線を落とし、それで自分の言葉が嘘だということに彼は気付いただろう。しかし彼――文博は何も言わないでいてくれた。
「じゃあ行くか。今日は飲めるんだろ」
「おう」
雨の中を歩き出した二人は、やがて着いた紺色の暖簾が下がる店の戸口をくぐった。温かい空気とともに何かが焼ける美味そうな香りがふわりと漂った。カウンター越しに初老の店主が目礼を寄越し、柔らかく微笑みながら奥の座敷を指し示した。
「……久しぶりだな、この店も」
何気なく落とした呟きに、文博は一瞬だけ痛ましげに詩郎を見る。
学生時代からの付き合いの彼と、もう幾度となく通った店。およそ四年ぶりに訪ねた詩郎を、その温かい空気が包み込む。
――四年。
七つ違いの妹が失踪してから酒断ちをしていた詩郎は、その長いような短いような、その年月を思って微かに口元を苦笑いの形に刻んだ。
静かに手を差し出した女将に濡れそぼったコートを預け、予約席の札が置かれている座敷に上がる。熱いおしぼりで冷えた手を拭い、一息つく間にお通しとビールが運ばれた。
「……じゃあ、お袋さんに」
「ああ」
先月他界した母に献杯し、そしてジョッキのビールを呷る。
「お袋さん、残念だったな」
「……そうだな。せめて最後に一目会わせてやりたかった」
一年ほど前から体調を崩していた母は、半年前から入退院を繰り返し、そしてついに先月帰らぬ人となった。その人柄に見合う穏やかな最期だったが、それでも内心はどれほど娘に会いたかっただろうかと思う。
――ある日突然失踪した、娘の詩織に。
四年前の初冬。
その日は雲一つなく晴れ渡った気持ちの良い朝だったと記憶している。ただ――もしかしたらそれは後付けの記憶なのかもしれないが――どういうわけかその日詩郎は、朝から胸騒ぎを感じていたことも覚えていた。
何かが起きる気がする――否、何か良くないことが起きてしまった気がすると、そう感じながら起床し、両親や妻子とともに朝食を取っていた、そのときだった。
電話が鳴り、それを取った妻の顔色が変わった。緊迫した声で受話器の向こうの相手と言葉を交わし、やがて戸惑うようにして振り返った彼女の口から告げられたその事実。
警察からの電話で告げられたのは、離れて暮らしている妹――詩織の、失踪。
職場に連絡を入れて休みを取り、駆け付けた所轄署で聞かされたのは、詩織が異常な状況下で失踪したという事実だった。
――前日の深夜、詩織のアパート付近で原因不明の停電が発生した。およそ一分ほどで電力は回復したが、原因究明のために現場に急行した電力会社の社員が路上に散乱する女物の鞄や小物類、そして片足だけの靴を発見し、ただ事ではないと通報したということだった。
ほぼ同時刻に停電と謎の発光現象があったと通報が相次ぎ、付近を巡回していた警察車両が直ちに駆け付けたが、やはり現場の状況から事件性が高いと判断した。
だが、警察の捜査で分かったことは、あまり多くはなかった。
現場に残された遺留品が全て詩織の持ち物であったこと、詩織がアパートにも戻らず翌日出社しなかったこと、実家や知人宅を訪ねた形跡もなかったことから当初は誘拐が疑われたが、現場にはそれらしい痕跡は何一つなかった。車両による連れ去りや近隣の建物に連れ込まれた形跡は見つからず、かと言ってスマートフォンや財布、通帳を置いて自ら失踪したとも考えにくい。
そもそも詩織がこの場所からどこかに向かったという記録は何も残されてはいなかった。目撃情報はおろか、近隣の防犯カメラにすら、何も。
ただ、この停電の直前にスマートフォンを操作した形跡があったこと、電力会社の社員が現場に到着したのが停電の数分後であったことから、ごく数分のうちに忽然とその場から消えた――それだけが分かったのみだ。
詩織がなぜ、どこに消えたのかも分からないまま、捜査は進展せず一年が過ぎた。せめて何か一つでも手掛かりがあれば――そんな思いでテレビの公開捜査番組に応募したのは二年半ほど前だ。
事前に警察側からは、もしかしたら今以上に精神的な負担が増えるかもしれないと言われていた。番組出演を後悔するかもしれないとも。
全国ネットでの放送で有益な情報が寄せられて解決した事件は確かにあるが、未解決のままのものも多く、それどころか好奇の目に晒され不必要に傷付けられることも多いのだと、親しくなった刑事は言った。無論文博にも――地元警察の現役警官である友人にもだ。
それでも藁にも縋る思いで公開捜査に踏み切った。警察とも相談し、テレビ局との打ち合わせを重ねて迎えた当日。
――不可思議な状況で発生したOL失踪事件の反響は大きかった。
寄せられた情報、複数個所から提供された防犯カメラやドライブレコーダーの映像、そして携帯端末での個人撮影動画は信頼性の高い有益なものが多く、局や警察はそれらの情報を念入りに調べてくれた。
だがその結果導き出された結論から、詩郎は確信してしまった。理屈ではない、それは直感であったが――歳が離れて生まれ、幼い頃から可愛がってきた妹に恐らくもう二度と会えないだろうことを、確信してしまった。
――あの夜、あの地域ではありとあらゆる電化製品が異常動作し、そして突如停電した。その瞬間には謎の発光現象が起きていた。異常動作から発光現象、そして停電に至るまではおよそ一分。
異常現象の範囲内外から撮影された映像や動画は、そのどれもが同じ時刻にこの地域が瞬間的に発光し、直後、停電した様子を記録していた。
異常現象の中心地点にいたと思われる詩織。
映像のところどころに映り込んでいた彼女は、この日の午後十一時五十八分三十六秒――忽然と、消えた。手荷物と、片方の靴を残して、跡形もなく。
所轄署の刑事は微妙に言葉を濁していたが、番組を見ていた文博がそれとなく教えてくれた。
物証は鑑識や科捜研、そして科警研で念入りに分析されるが、稀にどうしても説明が付けられない――言い換えれば、非現実的な解釈なら説明がつく現場というものがあるらしい。
そして、詩織の失踪事件が恐らくこれに当たるのだろう、と。
ネット上ではしばらくこの話題で持ち切りだった。掲示板やツイッターでは番組映像の転載や考察が相次いだ。
そのほとんどが面白半分のものだ。
――ラノベ展開。異世界召喚。異世界トリップ。
残された者達がどれだけ真剣になろうとも、無関係の者達にとって事件はただの娯楽に過ぎないのだと、そして認めたくはないがかつては自分もそうであったと――そのことに気付かされ、そして可愛い妹の身に起きた恐ろしい事柄に――詩郎は深く打ちのめされた。
それ以来、オンラインには接続できないでいる。
「……しかしまぁ、お前から誘ってくれたってことは……少しは元気になったのか?」
ぽつぽつと近況報告や雑談をしながら酒を酌み交わしていた文博が、唐揚げをつまみつつ訊いた。
「まぁ……そうかもしれないな」
詩郎もまた生姜焼き――詩織の得意料理だった――をつつきながら薄く微笑む。
「夢をな。見たんだ」
「夢?」
今までは不吉な夢ばかりだった。詩織が恐ろしい目に遭わされる夢。辛い思いをしている夢。そして――命を落とす夢。
だが、母が他界し、四十九日を済ませてしばらくしたある日の夜。
いつもとは様子が異なる夢を見た。
「……なんかな。幸せそうに笑ってるんだよ」
「へぇ?」
「ラノベだなんだって言われてふざけるなって思ってたが……どこか別の世界で、彼氏ができて幸せそうにしてる夢だった」
「へぇ……それはまた……」
文博が、柔らかく――ほんの少し痛みを含んだ表情で微笑んだ。
「……しかし相手の男がこれがまた腹が立つほどいい男でな。イケメンで背が高くて高給取りで滅法強くてその上いいとこのお坊ちゃんときた」
おどけた調子で言うと、ぶ、と文博は口に含んでいたビールを噴き出した。
「本当にラノベ展開だろ、それ……だがまぁ、良かったじゃないか。もしかしたらお袋さんが彼女の様子を見せてくれたのかもしれないぞ」
「……そうだな」
詩郎は笑った。
「そうかもしれないなぁ……」
そうだと、いい。
あの日、彼女に何があってどうなったのかは誰にも分からない。そして、諦めたわけではないが、それでも恐らくもう二度と会えないだろうという予感もあった。
だが、もう二度と帰ってはこれないというのなら、せめて――詩織にはその場所で幸せでいてほしかった。どこかで無事生きていて、居心地のいい場所で大切な人と、優しく温かい日々を過ごしてほしかった。
それが、兄としてのたった一つの願いだ。
――会計を済ませて店を出る。
冷たい雨は止んでいた。
雲の切れ目から、瞬く星が見える。
「お……北極星がくっきりと見えるな」
雨で浄化されて冴え渡る夜空。少年の頃に詩織と流れ星を探して眺めた空を見上げた。
――まさにそのとき、世界を隔てた遠い場所で、妹が最愛の人と同じ星を眺めているということを知る由もなく――詩郎は祈りを込めて、ただただその美しい星空を見つめていた。
内容が内容なので欄外劇場は今回はおやすみで。
「証」となるものが存在しないのに、それに対して区切りを付けなければならないというのはきっと辛いものだと思います
今回の話は内容的に公開するかどうか悩んだのですが、出すことにしました。書きながらも色々と考えさせられた話です。




