49 幕間五 祝いの一皿(デニス、料理長)
ちょっと家族でインフルってましたヽ(゜∀。)ノ
予防接種効かなかった。
ある日の午後。
久しぶりに半日の休暇を得たデニスは、愛用の手帳と醤油の小瓶、そしていくつかの食材――買い出しに出る時間がないからと、注文してわざわざ届けさせた食材だ――を手に厨房へと向かった。
「おやじさん。また少し場所を借りますよ」
昼食の片付けを終え、夕食の支度に掛かるまでの余暇を迎えた厨房。その片隅で帳面を眺めながら何やら考え込んでいる五十絡みの男に声を掛けると、彼は気難しく顰めていた顔を一転、相好を崩してにやりと笑って見せた。
料理長。ロヴネル家の厨房を取り仕切る、この場の主だ。
「おう、ここに来るのは久しぶりだなデニス坊……っと、もう気安く呼べねぇな。旦那様か」
「やめてくださいよ。まだ婚約を決めたばかりです」
「……まだ、ねぇ」
照れ隠しに鼻の頭を掻きながら言うデニスに、男――アロルドは揶揄するよう笑った。
「こっちにしてみりゃあ、やっとかよって言いてぇところだがな。まったくやきもきさせやがって」
「……その節はご心配をおかけしまして」
じっとりとした視線を向けられて、デニスとしては苦笑するしかない。気を揉ませたという自覚があるからだ。
何もなければ恐らくは十年も前に決められていただろう婚約。それを先日発表したときには意外なほどに多くの人から祝福の言葉を掛けられて、随分と驚かされたものだった。それこそ自分を疎んでいるものとばかり思っていた者にさえ「お前ほど気骨のある男はそうはいない。あれほど糾弾されても挫けなかった胆力の持ち主だからな、悔しいがアンネリエ様をお支えできるのはお前だけだ。こうなったら何が何でも幸せになれ」と些か乱暴に肩を叩かれながら祝福されたのだ。
――今まで気付かなかっただけで、きっと多くの人々に見守られていたのだろう。もしかしたら投げ付けられてきた厳しい言葉の中には、叱咤激励も含まれていたかもしれないと、今ならそう思える。
心配かけた分、それに報いなければと思うのだ。アンネリエにも、皆にも。
「……それで? また野外活動の予定でもあんのかい」
厨房の一角を使うよう指し示しながら、アロルドが訊いた。
野外活動中の食事はデニスの担当だ。料理という大層なものではなく缶詰や瓶詰を鍋で温める程度のものなのだが、そうするとアンネリエが「野営っぽくていいわ」と言って喜ぶのだ。慣れない料理ではあったが、その喜ぶ顔見たさに引き受けたというのもある。
慎重派のデニスは例え缶詰でも、なるべくこうして事前に厨房で試作と試食をするよう心掛けているが、この日の目的は別にあった。
「さすがにこういう状況なので当分野外活動はありませんよ。少し試したいことがありまして」
言いながら、小瓶を作業台の上に置いた。
「なんでぃ、こりゃあ」
「醤油という東方の調味料です。先日親しくなった冒険者に分けてもらいましてね。これを使った簡単な料理もいくつか教えてもらったんです」
得意というわけでもないが、屋敷に上がる前は母の料理を手伝っていたこともあって、多少はできないこともないのだ。適当に切って煮るか焼くくらいのものなのだが、シオリはその程度の腕前でもできそうなレシピを教えてくれた。
「ほー……東方ねぇ。噂にゃ聞いてたがお前さん、本当に変わったな」
何の巡り合わせか東方人の女と出会い、様々な出来事を経て解消した移民嫌い。十年もの間打ち消すことができなかったわだかまりが解けたデニスに、憂うものはもう何もないのだ。
感慨深く己を見つめるアロルドの視線を面映ゆく感じながら、デニスは手帳に控えたレシピをどれから試すか思案した。
アロルドは小瓶の中身に料理人として興味を惹かれたらしい。デニスの許可を得て小瓶の蓋を開け、その香りを嗅ぐなり盛大に顔を顰める。自分もやった覚えのあるデニスは、己もこんな顔をしていたのだろうかと苦笑いする。それだけの臭いなのだ。豆が腐ったような、饐えたような臭い。
「ひでぇ臭いだな」
「生のままではそうですがね。しかし加熱するとなかなかですよ」
特にバターと合わせたソースが絶品だった。
シオリに教わったレシピ通りに茸の水煮缶を開けて水を切り、加熱した鍋に茸を入れ、バターと醤油を落として炒めていく。シオリと比べれば覚束ない手付きではあるが、男の手料理と思えば十分と思うことにした。これから先慣れていけばいい。
食材と調味料の水気が飛び、辺りに香ばしい香りが立ち込めた。バターと醤油が焦げる香り。
「お、確かに……こいつは悪くねぇな」
生の醤油には顔を顰めていたアロルドも、この香りには食欲をそそられたようだった。適当なところで火を止め、深皿にあけた。小皿に取り分けて味見をする。焦がし醤油の香ばしさが鼻を抜け、続いて茸の旨味が口内に広がる。初めてにしては上出来だ。
興味津々のアロルドにも勧めると、まず香りを確かめてから恐る恐る口にした。何度か咀嚼した後に、その目が見開かれる。
「さっきの虫を潰したみてぇな臭いのやつと同じものとは思えねぇな。美味ぇ」
どうやらお気に召したらしい。二度三度と口に運んで味を確かめた彼は、納得したように頷いた。
「シンプルなようでいて深みのある味わいだ。こいつぁ、お嬢好みだな」
「そうですね。実際に出されたのは醤油と酒を合わせたソースの肉料理でしたが、お気に召したようでした。絶賛されてましたよ」
「醤油と酒のソース……」
「ええ。発酵食品同士は相性が良いので、掛け合わせるだけで簡単にソースができるんだそうですよ。彼女は東方の酒を使っていたようですが、ワインでも代用できると……」
言いながら熱したフライパンで肉の薄切りをこんがりと焼いて皿に取り出してから、計量した醤油とワインを投入して軽く煮詰め、仕上げにバターを落とす。とろりと溶けたバターが全体に馴染み、艶が出たところでソースは完成だ。
「ん……少し焦がしたか」
やはりシオリのように手早く程良い加減にはできなかったが、肉に絡めて試食すると、肉の旨味と共に醤油の香ばしさとワインの芳醇な香り、そしてバターの豊かな風味が絶妙に絡み合った深い味わいが口内に広がった。
「……凄いな。俺のような素人でもこんな味が出せるとは」
好みで醤油とワインの比率を変えたり、少量の砂糖や大蒜、生姜を加えても良いらしい。ワインの代わりに果実酢を使えば甘みの強い爽やかなソースになり、鴨肉やラム肉のような風味の強い肉によく合うとも言っていた。これは何度か試して是非とも好みのソースに仕上げたいものだ。
「素人っつってもお前さんは手際がいいからな。慣れねぇと焦がして台無しだぜ……っと、こいつは……」
試食用に手渡された肉を注意深く味わいながら咀嚼して飲み下したアロルドは、しばらくの間考え込んだ。
「……なぁ、デニス坊。物は相談なんだが」
「なんです?」
「その醤油、俺にも分けちゃくれねぇか。勿論ただとは言わねぇ。いくらかは出す」
「……分けて差し上げたいのは山々ですが、貴重なんですよこれ」
トリスの輸入食品店に問い合わせるか、王都の東方人に直接掛け合うかでもしなければ手に入れることはできないという。それも小分け販売はしておらず、シオリは店の言い値で樽買いしたらしい。
これにはさすがのアロルドも目を剥いた。
「樽!? 樽か……そりゃあ確かにちょっと試しに買うような代物じゃねぇな。気軽にくれとも言えねぇ」
しばらく悩む様子を見せた彼は、それでも未練がましく小瓶を眺めた。
「実はな、年初めの晩餐会のメニュー、ちっとばかり悩んでんだよ。お嬢は今まで通りの伝統的なもんで構わねぇと言ってくれちゃあいるが、せっかくだから新しいメニューを出してぇじゃねぇか」
毎年一月の末の週末は、一族が一堂に会しての食事会の日なのだ。アロルドにしてみれば、婚約祝いを兼ねた新作メニューを披露したいのだろう。
「肉料理には決めてるんだが、どうにもソースだけがイマイチでな。だがこの醤油を使えば……」
「……なるほど」
自分としても、この味は気に入っているのだ。シオリに頼めば快く分けてくれるだろうが、何度も頼むのは気が引ける。だが、もし継続して入手できるのならそれに越したことはない。アロルドにしてもソースに使うのであれば、ある程度の分量は定期的に購入するはずだ。
「とりあえず今回は知人に頼んでみます。その上で継続購入が可能かどうか取扱店に問い合わせてみましょう。定期購入するのであれば、小分け販売も検討してくれるかもしれません」
そうすればシオリもわざわざ言い値で樽買いせず、使いやすい量を適正価格で手に入れられるようになるだろう。
「……悪いな。よろしく頼むわ」
「ええ。であれば早速連絡します」
残った料理をアロルドに押し付け、手早くその場を片付けると、デニスは足早に厨房を後にした。
その背中を見送りながら、アロルドは目を細めた。
「本当にまぁ……いい顔するようになったな」
硬く鋭い表情ばかりが目立っていたデニスの、あの生き生きとした表情はどうだ。あんな顔を見たのは一体いつぶりだっただろう。
過去を払拭した彼に、もう憂うるものは何もない。
――新しい一皿は、ただ女主人の婚約を祝うためのものばかりではない。己が信念と愛する者のために生きることを決めたあの男への祝いの一皿でもあるのだ。
二人の道行に、幸あれ、と。
そんな想いを込めて、その一皿を贈りたい。
手元に残された肉料理をもう一口放り込むと、アロルドは新しいソースに想いを馳せた。
ルリィ「こうして始まる醤油の共同購入」
雪男「照り焼きいいですよねぇ……」
ペルゥ「もぐもぐ」
雪熊「何食べてんの」
ペルゥ「城内ハントの成果」
意外に応援してくれていた人が多かった人の話でした。




