43 十年前の真実(2)
求:文章をコンパクトにする能力
出:魔法石10個+アンネリエ・ロヴネルの絵画一点
「テオドール殿……」
デニスは呆然と家令の名を呼ぶ。
「……本当に、貴方なのか」
先々代の頃から長くロヴネル家に勤める男だった。屋敷の使用人の頂点に立ち、デニスやバルトの手が回らぬ繁忙期には、彼らに代わって事務作業を行うこともあるほどの有能な男だった。そして、見習いとして屋敷に上がったばかりの二人に従者としての心構えと立ち居振る舞いを、一から丁寧に教育してくれた男だった。
――代々の当主ばかりでなく、使用人からの信頼も厚い男。
テオドールの返事はなかった。彼は茶器を持つ老いた手を小刻みに震わせ、零れて卓の上に広がる紅茶をただただ見つめていた。しかしその様子がデニスの問いを肯定していることを如実に表していた。
「テオドール。貴方で間違いないのね」
――十年前、女伯爵からの使者と称してロヴネル支部を訪ねたのは。
アンネリエの問いは穏やかな声によってなされたが、無言の返答は許されない確かな厳しさを孕んでいた。
「左様でございます、アンネリエ様」
僅かな間に平静を取り戻したテオドールは若き女主人の問いを肯定すると、先に片付けてもよろしいでしょうかと穏やかに言った。その様子に諦めや自棄のようなものはなく、ただ潔い覚悟を感じさせた。
アンネリエが頷き、彼は静かに不始末の跡を片付け始める。手早く粗相の始末を終えると、女主人の前に直立の姿勢を取った。じきに齢七十を迎える年頃とは思えないほどに美しい立ち姿だ。
「……なぜそんなことをしたの? 貴方だってデニスを気に入っていたでしょう?」
「――そのとおりでございます」
テオドールは頷いた。全ての教育を終えて「卒業」を言い渡した彼に、出来の良い生徒で教え甲斐があったと誉められた覚えがデニスにもある。恐らく可愛がられていたのだろうという自覚も。
「確かに気は進みませんでした。しかし、さるお方から直々にご依頼があり、私はその方に大変な恩義がございましたゆえに……お断りすることができませんでした」
「恩義?」
「……はい。私は元々大きな画廊を経営する画商の息子でした。しかし祖父から仕事を受け継いだ父に商才はなく、あっという間に経営は傾いて画廊どころか家まで手放さなければならなくなりました。路頭に迷っていた私達を拾ってくださったのはその方なのです。残念ながら身体を壊していた両親はすぐに亡くなりましたが、その方は私を従者として雇い、貴族家でも通用する教育を一から施してくださいました。そして伯爵家に推薦してくださった。今の私があるのはその方のおかげなのです」
「……だから言われるままに伯爵家からの使者と偽って、ロヴネル家とロヴネル支部の接触を断つように仕向けたというのね?」
「はい」
彼は頷いた。
「そしてもし何らかのやり取りがあるようなら、気付かれないように握り潰せとも指示されました。幸いこちらからの連絡はあれ以来ありませんでしたが、先方からの封書は何度かございましたので、抜き取って処分いたしました」
――事実が捻じ曲げて伝えられているということを――実際にはデニスの父イェルハルドになんの瑕疵もないのだということを、知られないように。
屋敷宛の封書類は、最初に家令の元に届けられる。受取人ごとに仕分けるためだ。彼はその立場を利用して、ロヴネル支部からの封書を密かに抜き取っていた。
「やってくれたわね」
後で謝罪の手紙を認めなければと、アンネリエが苦々しく呟く。
「……では、私的な用件で兄を巻き込むような形で死なせてしまって申し訳ないと何度も頭を下げてくださったのも、そのためなのですか。慰謝料と葬儀代だと言っていくらか包んでくださったのも」
ぽつりとイサベルは言った。テオドールは頷く。
「――左様です。イェルハルド様と一緒に亡くなった方のご遺族となれば、何らかの形で接触してくる可能性も考えられましたので」
「……可能な限り不安の芽は摘んでおきたいと?」
「……はい」
アンネリエは眉間を抑え、細く長い溜息を吐いた。
「嫌な話だけれど……不安の芽を摘んでおきたいなら、口封じをするという手段もあったはずよ。それを懇切丁寧に頭を下げて口止め料を渡しただけだなんて、何か中途半端な気もするわ」
「……そうですね」
イサベルもまた同意する。
「何も知らなかった十年前は、ただ頷くだけで良かった。だけど大変な行き違いがあると知ってしまった以上、今度こそ口封じされるかもしれないと思いました。ですので当時のことをよく知り、そして腕の立つウルリクを護衛として連れてきたのです」
「――あの方は目的のためにそこまで非情になれるほどお心の強い方ではございません。人を殺めるおつもりであれば、いくら恩義があるからとて私も首を縦に振ったりはいたしませんでした」
「殺したようなものよ」
テオドールの言葉をアンネリエは一刀両断に切り捨てた。
「死者の名誉を汚し、その家族の心を殺した。今もなお殺し続けているわ。さあ、教えてちょうだい。その魂の殺人者の名を」
若き女主人の苛烈な断罪にテオドールは顔色を失くした。唇を戦慄かせて視線を落とす。しばらくの沈黙の後にようやく彼は顔を上げると、真っ直ぐに――バルトを見た。
「え? いや……ちょっと」
一斉に視線を向けられてバルトはひどく狼狽えた。まさかという空気が場を支配しかけたが、テオドールは僅かに苦笑して首を振った。
「いいえ、バルト殿ではありませんよ。私に工作を指示したのはバルト殿のお爺様――ヴェイセル・ロヴネル様です」
デニスとアンネリエは息を呑み、バルトは目を見開いて腰を浮かせた。
――ロヴネル男爵家当主、ヴェイセル。バルトと、そしてデニスの祖父でもある男だ。
上品な調度類で纏め、淡い象牙色の壁に歴代の当主や一族の者が描いた絵画を品良く配置して居心地良く整えた男爵家の居間。その場所は今は呼吸するのも躊躇われるほどに暗澹とした空気が満ちていた。
デニスは逸る心をどうにか落ち着かせようと、数ヶ月ぶりに訪れた室内をぐるりと見回す。
卓を挟んで正面に座っているのはバルトだ。彼は腕を組み眉間に深い皺を刻んだ険しい表情で虚空を睨みつけている。隣のアンネリエは背筋を伸ばして美しい所作で芳しい香りを放つ紅茶を啜っているが、時折零す微かな溜息がその複雑な内面を物語っていた。
――伯爵家内部に情報操作の片棒を担いだ者がいたという事実が明るみになったのは、つい昨日のことだ。
あの後アンネリエは男爵家に早馬を出し、強引に翌日の面会の約束を取り付けた。相手の返事を待たず、翌日必ず訪問するというほとんど一方的な命令のような形ではあったが、男爵――祖父はさしたる抵抗も見せずに頷いたらしい。
いずれこの日が訪れるということを覚悟していたのかもしれない。杖を突きながら従者に身体を支えられ、ゆっくり歩いて入室してきたヴェイセルの顔を見て、デニスは察した。
「――爺様! あんた、一体どうして――」
ヴェイセルを見るなりバルトは激昂して詰め寄ろうとしたが、アンネリエに制止されて彼は鋭く溜息を吐くと、荒々しい音を立てて長椅子に座り直す。
ヴェイセルは老いて自由が利かなくなった身体でそれでも美しい一礼を披露すると、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……いつかこうなる日がくると覚悟はしておりましたが――思ったよりも随分と時間が掛かりましたな」
言葉だけ聞けば痛烈な批判のようにも思えるそれはしかし、断罪を受け入れる者の諦念――否、ようやく肩の荷を下ろすことができるのだという安堵の響きがあった。
「……否定しないのね」
アンネリエが問うと、ヴェイセルは穏やかに笑った。
「否定してどうなりましょう。したところで儂の罪が消えるわけではありますまい。逃げも隠れもいたしませぬよ」
「……どうして。どうしてあんなことをした」
バルトが絞り出すように言った。
彼はこの一晩ですっかり憔悴していた。いつもは朗らかな笑みを浮かべているその顔は苦渋に満ち、色は病人のように土気色で優れず、目の下には隈が色濃く浮いていた。
それはそうだろう。苦楽を共にしてきた従兄弟がよりにもよって自分の祖父の、それも当の従兄弟の祖父でもある男の陰謀で深く傷付けられたのだ。それも、従兄弟の父――実の息子の名誉を汚すような方法で――。
「……お前のためだ、バルト」
「俺の? どういうことだよ」
言葉の真意が掴めずに動揺するバルトを、ヴェイセルは見据えた。当主としては厳格だが、祖父としては優しかった彼の穏やかな勿忘草色の瞳に静謐な狂気を見たような気がして、デニスは小さく息を呑んだ。
「……デニスの次に重用されているのはお前だ。デニスがいなくなれば――お前が第一補佐官に抜擢されるだけではない。アンネリエ様の伴侶にもなれるはずだ。だから――」
「ふざけるな!」
バルトは激昂した。老いて弱った祖父の胸倉を掴み上げようとして、慌てた周囲に取り押さえられた。
「ふざけるな! 何が俺のためだ! なんでそんなことをする必要がある! 俺はそんなこと望んじゃいない! それは事実を捻じ曲げてまでしなけりゃならないことなのか!」
怒りのままに激しい言葉をぶつけ、そして唇を噛む。
「デニスが……あんたのもう一人の孫が一体どれだけ傷付いたと思ってるんだ……」
絞り出すように言うと、バルトは長椅子に腰を沈め、両手で顔を覆う。
黒幕の正体が実の祖父であったことに、強い衝撃を受けたのだ。
「……甘いのう」
ほほ、と皺の深く刻まれた口元を歪めてヴェイセルは嗤った。
「デニスは確かに儂の孫だ。だがのう……こやつの父は市井に下った身。しかも帝国の血が混じっておる。こやつに比べればバルト、正統な王国貴族の血を引き男爵家の籍を持つお前の方がまだアンネリエ様の伴侶には相応しかろうて」
バルトは絶句して押し黙った。
「……お爺様」
呟くように祖父を呼ぶデニスの声が震えた。
「そんなに俺のことがお嫌いでしたか。そんなに母が気に入りませんでしたか。今まで可愛がってくれたのは、あれは――見せかけのものだったのですか」
幼い頃、満面の笑顔でおいでと手招きされた覚えがある。その腕に駈け寄れば、愛いのうと言いながらその腕に抱き上げられた覚えも。
だが本当は疎まれていたのか。父に不名誉な汚名を着せてまで、アンネリエの元から遠ざけたかったのか。
ヴェイセルは目を細めて孫息子を見る。
「……嫌ってなどおらぬよ。お前も儂の可愛い孫だ。それにお前の母は――ディアナは気立ての良い娘だった。ただひとつの問題は、お前達が忌まわしい帝国の血を引いているということだ。なればこそ、本家にお前の血を混ぜるわけにはゆかぬ。身分差は問わぬという本家の慣わしは理解しておる。しかしそれならば、せめて正当な王国の血を引く者でなければ」
それに婚姻によって伯爵家との繋がりができれば、分家の分家という末端の男爵家の地位も向上する。全ては男爵家のため――。
――古い時代の考え、血統と家の繁栄を重要視する者はまだ多くいることは理解していた。だが、祖父はそうではないと思っていた。実の息子が市井に下り、そして帝国人の末裔の娘を娶ることを許した祖父はそうではないと思っていた。
しかし実際にはそうではなかった。父を許し、母を受け入れ、そして孫の自分を可愛がりながらも、その心の奥底ではどこかで疎んでいたのだ。忌まわしい帝国の末裔と。
その事実に気付かされて、デニスは胸を抑えた。
昨日から続く重い真実の暴露に、彼の心は押し潰されそうにひどく軋んでいる。
「……だから使者が持ち帰った報告を利用して、事実を曲げたと?」
ウルリクの発した「まるで心中のようだった」という言葉を、さもそれが真実であるかのように祖父は語った。中には疑う者もいたかもしれない。だが美談よりは醜聞の方が伝播しやすい。噂話で何度も囁かれるうちに、欺瞞に満ちた話はやがて人々の中で真実になった。
デニスもそうだった。祖父に聞かされた父の死の「真相」に、何かの間違いではないかと始めは疑った。両親の睦まじさを知っていたからだ。しかし、男爵家の使用人が物陰で噂し、葬儀の参列者がひそひそと囁くのを耳にして、ああこれは真実なのだと信じ込んでしまった。
「――母を男爵家に留め置いたのも、外部との接触を絶つためですか」
「そうだ」
「では噂好きの使用人達の目に触れないよう離れに置いて、わざわざ信頼できる者をそばに付けて静養させたのは何のためですか。ご自分の罪悪感を消すためですか」
「こちらの都合に巻き込んだのだ、そのくらいしてやる義務はある」
「共同墓地ではなく、部外者は入れないロヴネル家の墓地に父を埋葬したのもそのためですか。父の同僚が参列できないように」
「あれは元々ロヴネル家の人間だ。一族の墓地に埋葬するのは当然だろう」
「失意の俺を男爵家に置いてくれたのも、俺がロヴネルの地でこれ以上生き恥を晒さないよう遠方での職を紹介してくれると言ったのもそのためですか」
「……可愛い孫であることに変わりはないのでな。養子にしてやることはできぬが、有能なお前ならどこでも上手くやっていけるだろうて」
デニスは言い知れぬ不快感に低く呻いた。人をどん底に叩き落しておきながら、義務だの愛だのと言って中途半端に取り入ろうとするその態度がひどく不愉快だった。
「――もういい、爺様」
バルトの嫌悪に満ちた声がその場に響く。
「結局あんたは悪者になりたくなかっただけだ。お家のためだと言ってあれだけのことをしておきながら――家族に否定されたくなかったんだ」
バルトは祖父の弱さを看破した。
裏で実子の死を不名誉な形に偽っておきながら、祖父は家族の前では嘆き悲しむ振りをしていた。実子の「不始末」への怒りを見せたこともあった。そしてその妻子の前では気遣いの人を演じていた。
――父には知己の貴族家に婿入りする話もあったと聞くが、それを固辞して最愛の母を選んだ。父は身分違いの結婚を認め、貴族の風習に疎い母のために市井に下ることを許した祖父に感謝していた。母もまた、帝国の血を引く自分によくしてくれる祖父を寛大な人だと尊敬していた。デニスもやはり、可愛がってくれる祖父を慕っていた。
彼は息子一家からの敬愛を失いたくはなかったのだろう。内心では複雑な思いを抱きながらも。
思えば祖父は家族思いの人だったが、貴族としては凡庸であった。決して無能ではないが、思い切った采配もできなければ太い人脈を築くこともできない。現状維持させるだけが精一杯の当主。芸術家として特筆すべき経歴もなく、所詮は分家の分家と揶揄されることもあったらしい。そのことで先代当主――曽祖父を随分と落胆させたようだ。
だが彼はただ一人の人間として見れば家族思いの善良な男だ。遅くにできた二人の息子とその孫息子達をことのほかに可愛がった。彼らもまた愛情を注ぎ大切に育ててくれた彼を敬愛していた。
――そんな中で起きたイェルハルドの転落死亡事故。
貴族としての評価を渇望していたヴェイセルは、ウルリクが無意識に口にした言葉を利用した。浅ましくも実の息子の事故を心中事件と偽り、女伯爵のそばに侍る平民の外孫を排除して、代わりに貴族である内孫を宛がおうとした。そうすることで男爵家の地位を底上げしようと画策したのだ。
しかし凡庸であるがゆえにそれ以上の思い切った策を弄することもできず、しかも嫁と孫息子の敬愛を失いたくもないという身勝手な思いが、計略を中途半端なままで実行させた。
だが――穴だらけのこの計略は様々な偶然が重なり、およそ十年の間明るみに出ることなくここまできてしまった。
デニスは胸の痛みを押し殺して祖父を見つめた。
元より高齢だった祖父はこの十年でさらに老いた。皺の多かった頬はさらに萎み、加齢で黄ばんだ目は落ち窪んで光がない。まっすぐ伸びていたはずの背も前かがみに湾曲している。
いつ己の罪が暴露されるかわからない状態で過ごした十年は、確実に祖父の寿命を削った。――最早、長くはあるまい。
「……さあ、儂の罪は明らかになったぞ。それでお前達はどうする。この事実を知ってなお今の地位に居座るか」
血縁者の謀略で主人の周辺を騒がせた。主人を謀った者の血縁が、それでもなお主人のそばに侍るのかと問うヴェイセルの目にはしかし、自棄になった者の狂気はなかった。ただ穏やかに、二人の孫の意思を問うている。
バルトは俯けていた顔を上げてアンネリエを見た。
「俺は、第二補佐官の座を後任に譲ります。引き継いだその後は実家で蟄居でもなんでもいたします」
知らなかったこととはいえ、自分とその実家のために行われた謀略だということを知ってしまった以上、このままでいるわけにはいかないと彼は言った。
――蟄居でも足りないというのであれば、自決する覚悟があるとさえも。
誰もが息を呑んだ。いつもは朗らかに笑んでいる彼の瞳に揺るぎない意志を見て取り、本気なのだということを察したからだ。
「俺は……」
従兄弟の、そして幼馴染であり共に女主人を支えてきた同僚の目を見据え、それから敬愛する女主人――愛しい恋人に視線を向けた。彼女の眼差しが、真っ直ぐにデニスを貫く。
「俺はアンネリエ様を生涯支えると決めた。その覚悟は今でも変わりません」
何があろうとも彼女と添い遂げてみせる、と。
実の祖父の裏切りは激しくデニスを打ちのめした。しかし、これを乗り越えてしまえばきっとどんな試練にも立ち向かえる。そんな気がした。
「……青いのう」
迷いなく言い切ったデニスにヴェイセルは笑った。揶揄するのではない、穏やかな笑みだ。
「二人とも、ほんに青い。だが――潔く、そして強いのう」
そう言うと彼は窓の外に視線を流した。しかし庭園の景色を眺めているのではない、ここではないどこか遠くを見るような瞳。
「――こんな儂でも、な。かつて燃え上がるような恋をした。小麦色の肌に輝く白い歯の綺麗な、笑顔の愛らしい娘であったよ」
土地を渡り歩き歌や踊りを披露して生計を立てる、流浪の民の娘。
「家のために諦めざるを得なかったが、もし儂がもっと遅くに生まれていれば――いや、この時代がもっと早くに訪れていたならば、あるいは儂も――」
――「彼女」と共に生きる道があったかもしれぬだろうて。
そう落とされた呟きに宿るのは哀愁と羨望の響き。
遥か遠い日に置き去りにした、ある一つの恋物語の結末にデニスとバルトは息を呑んだ。
「お爺様、貴方は――」
デニスは祖父の心の奥底に眠る複雑な愛憎に気付き、彼に憐れみの視線を向けた。
「……貴方は嫉妬していたんだな。俺と、父に」
女のために何の躊躇いもなく身分を捨てた息子の潔さに嫉妬した。孫息子でさえも、身分も血筋も越えて愛する女に手を伸ばそうとしている。
あっさりと己を超えてしまった二人を肉親として愛しながらも、彼は激しく嫉妬していたのだ。
「……バルトや家のためというのは間違いではないんだろう。だが貴方はそれを口実にして――父と俺を、ご自分の下に引きずり降ろそうとしたんだな」
己のなけなしの矜持を保つために、あまりにも愚かな手段に出てしまった――。
ヴェイセルは答えない。だが否定もしなかった。即ちそれは肯定の意だ。
「浅ましいわ。恋人よりも家を選んだのは貴方なのでしょう。息子や孫を妬むくらいなら本気で意志を貫けば良かったのよ。恋人を選ばなかったのも、家も恋人も両方とも取るだけの気概を示せなかったのも、それは時代のせいじゃない、貴方自身の弱さのせいだわ」
それまで黙って成り行きを見守っていたアンネリエが切って捨てた。
「貴方の若い頃よりももっと自由が利かなかった時代に、それでも自分の意志を貫いた人はいたわ。曾祖母は貴族とは何の繋がりもない正真正銘の平民と添い遂げた。それに、リースベットだって流浪の画家を婿入りさせたわ。百五十年も前の、あの古い時代によ」
ヴェイセルは目を伏せた。
「……そうですな。反論の余地もない」
彼は観念してアンネリエに真っすぐ向き直った。
「仰る通り全ては儂の弱さと愚かさが招いたこと。どのような罰も受けましょう。しかし孫達には何の責任もない。どうか二人には寛大な処置をお願いいたします」
ヴェイセルは首を垂れ、バルトもまたそれに倣う。
「……分かったわ」
アンネリエは頷いた。
「ヴェイセル・ロヴネル。貴方には早急に事実を公表することを命じます。ただし、ロヴネル支部やかかわった冒険者、そして二人の孫を犠牲にしない形で公表すること。これは最重要条件よ。その上で爵位を次代に譲りなさい」
「……御意」
「それからバルト・ロヴネル」
「……は」
「蟄居も自決も許さないわ。貴方には、生涯私に忠誠を誓い補佐官としての職務を全うすること、そして幸せな結婚をすることを命じます」
「は……へぁ!?」
返答しかけて言い渡された内容の意外さに驚き、バルトは頓狂な声を上げた。
深刻味を帯びていた室内の空気が一気に弛緩し、微妙な空気が漂う。
「……バルトお前な」
「いや、だって……あんまりびっくりしたんで」
残留どころか結婚まで命じられるとは思わなかったと、そう言って情けない表情を作ったバルトに、アンネリエは穏やかに笑いかけた。
「補佐官は続けてくれたとしても、貴方のことだから責任を感じて結婚はしないって言いだしそうな気がして。だから先手を打たせてもらったわ」
「うわぁ……やられた」
へにゃりと表情を崩して彼は笑い、それから居住まいを正して深々と首を垂れた。
「御意のままに、我が主」
満足げに頷いたアンネリエは最後にデニスに視線を向けた。
「……デニス」
「はい」
「さっきの、何があっても私と一緒にいてくれるという言葉……とても嬉しかったわ。ありがとう、デニス。夫として――生涯を私と共に歩んでちょうだい。置いていったら許さないわよ」
脅迫交じりになった改めての求婚に、デニスは綻ぶように笑った。
まだ胸の痛みは消えない。しかし、もう負けるつもりはないのだ。敵などどこにもいない。いるとすればきっとそれは己の弱さだ。だからそれに打ち勝てばいい。勝ち続ければいい。
「仰せのままに。我が――愛しき主」
――一週間後、イェルハルド・ロヴネルの死について重大な事実誤認があったとして、それを謝罪する文書が関係各所に送付された。
ヴェイセル・ロヴネル男爵の名で公表されたその文書の内容は、多くの憶測を呼んだ。息子と孫息子の名誉を傷付けるような誤認を肉親である男爵が本当にするのだろうかという疑問から、彼の弱みを握った何者かによる陰謀説も囁かれたが真相は明らかにはならなかった。
ただ、イェルハルドの名誉は回復され、爵位を嫡男に譲った男爵はその後間もなく鬼籍に入ったということと、そして伯爵家の家令が高齢を理由に辞職したという後日談がひっそりと伝えられたのみである。
「……結局、なんだかんだ言って謝ってくれなかったな、爺様は」
祖父の墓前に花を供えたバルトがぽつりと言った。その顔には複雑な色が浮かんでいる。
アンネリエの裁きを大人しく受け入れてその後の始末をしたヴェイセルだったが、最期までただの一度もイェルハルドや二人の孫息子に謝罪することはなかった。なけなしの矜持がそうすることを許さなかったのかもしれない。
――愚かな祖父の、愚かな最後の抵抗。
「……そうだな」
未だに心の傷は膿んだようにじくじくと痛む。しかし自分にはこれから先の人生がある。愛しい人との温かい未来があるのだ。時間を掛けてゆっくりと、傷は癒えていくだろう。
「だが俺は幸せになる。アニーと添い遂げて幸せで満ち足りた人生を送ってやるんだ。それが俺の、あの人に対する意趣返しだ」
バルトは瞠目し、それから声を立てて笑った。
「いいな、それ」
目を細め墓標に刻まれたその名を見る。
「――あの爺、きっとあの世で地団太踏んで悔しがるぜ」
しばらく黙って過去になったその名を見つめていた二人はやがて、そっとその場を後にした。
雪が降り、真新しい墓標を静かに無垢の色に塗りつぶしていく。
――まるで、その罪を覆い隠すかのように、白く。
ルリィ「バルト……」
ペルゥ「バルト……」
雪男「色んな意味で巻き込まれ体質なんですねぇ……」
私には理解できませんが、世の中には実の子や孫に嫉妬する人がいるらしいです。本当に理解できませんけれど。




