35 雪の幻獣
その長く太い腕で雪を掻き分けながら現れた身の丈三メテルほどの純白の魔獣は、こちらの姿を見とめるとぴたりと動きを止めた。その黒目がちな小さな瞳で観察するようにじっと見つめる。
「雪男……って、幻獣よね? 伝承とかただの噂話ではないの?」
アンネリエの声が震えているように聞こえるのは気のせいではない。
隣のナディアの顔もまたやや血の気が引いている。
――幻獣。目撃証言や噂話などで存在が主張されてはいるものの、実在は確認されていない生物と定義されている魔獣の総称である。元の世界で言うところのUMAだ。
一角獣やフェンリル、大海蛇などがこれに当たる。
大海蛇などは、二十五年ほど前に大型客船を座礁させて、この国の王太子を含む乗員乗客全員が死亡するという悲惨な海難事故を引き起こした原因ではないかと噂されたこともあったらしいが、これは質の悪い不謹慎なゴシップとして片付けられたようだ。実際の調査でもそのような事実はなく、ただ季節外れの大嵐に遭遇した結果の事故に過ぎないと結論付けられていたはずだ。
時折噂には上るけれど未だその姿は確認されていない、存在の不確かなモノ――。
「何かの見間違いだと思いたいが――クレメンス、お前あれに見覚えはあるか」
強張った顔でアレクがクレメンスに訊いた。けれども彼も首を振るばかりだ。
「いや、残念ながら……しかし伝聞を信じるなら、姿形から見て――」
アレクは唸った。
「……まさか、実在したとはな」
純白で人型の、巨大な猿のような魔獣――。
その魔獣は不気味なほど静かに目の前の人間達を睥睨していた。
人のようでもあり獣のようでもある顔は無表情。雪狼にしろ雪熊にしろ、そこには怒りや殺意などの何らかの感情が浮かべられていたというのに、この魔獣の漆黒の瞳はガラス玉のようにただただ虚ろ。何を考えているのかが読み取れない。
どんな魔獣にも抱いたことのない得体の知れない恐怖感――否、嫌悪感といった方が近いかもしれない――を抱いてシオリは身震いした。二足歩行の中途半端に人に近い容姿が胸にじわりと不快感を生じさせる。
「何か……気持ち悪いな」
後ろからデニスの掠れた声が聞こえ、アンネリエとバルトが吐息のような声を漏らして同意する。皆感じることは同じのようだ。
「……攻撃してこないけど……実は大人しい魔獣だったりしないよね?」
幻獣である雪男に詳細な情報は全くと言っていいほどない。あるのは外見の目撃証言のみだ。戦闘力は未知数だけれど、その異様な存在感と圧迫感が決して弱い魔獣などではないことを証明していた。できることなら戦いたくはない。
「……だといいがな。このまま見逃してくれるならありがたいが」
シオリの問いに返すアレクはしかし、発した自分の言葉を自身で信じていないようだった。このままでは終わらない予感。
――と。
雪男の類人猿のように前面に飛び出した口元が、歪な弧を描いた。
――笑ったのだ。
ぞっと身の毛がよだつ。
ゆらりとひどく緩慢な動きで雪男が身体を揺らした。
「……来るぞ!」
アレクが叫ぶのと雪男が動くのは同時だった。
「早い!」
その大きくバランスの悪い体格からは想像もつかないほどに素早く間合いを詰めた雪男は、振り上げた両腕をアレクとクレメンスの頭上に振り下ろす。瞬時に飛び退った二人がいた場所に打ち付けられた拳が雪道に穴を開け、凄まじい勢いで雪を巻き上げた。視界が白く染まり、雪男の姿がかき消される。
「回り込んだぞ! 気を付けろ!」
緊迫した声が飛んだ。
「後ろだ!」
雪の幻獣だけに雪の中でも動きは阻害されることはないらしい。恐ろしい素早さで背後に回り込んだ雪男の姿が見えた瞬間、火炎弾がその顔面に直撃した。無詠唱で放たれたナディアの魔法だ。
雪男が引火した頭部の毛に気を取られているうちに、その背後にクレメンスが素早く回り込んだ。増強魔法が持続している筋力を生かして高く跳躍すると、振り下ろした双剣をその純白の身体に突き立てる。
野太い咆哮が空気を震わす。激しく身を捩って身体を傷付けた敵を振り落とそうとするが、それより先に得物を抜いたクレメンスは飛び退って間合いを取った。双剣にちらりと視線を走らせた彼は、忌々しそうに眉を顰めた。
「なんて奴だ! 皮下脂肪が厚くて急所に届かん! 双剣が脂塗れだ!」
彼が体勢を整える間に、雪男がゆらりとこちらを向いた。既に頭部の火は消えている。燃えやすいのは体毛の先端部分だけらしい。根元から数センチメテルほどは綺麗なまま残されている。針――というよりはキリの先のような太さの体毛が露わになり、なるほどこの剛毛では簡単には燃え尽きないなと妙に納得してしまった。
「燃えやすいけど、消えやすくもあるってわけだね! 面倒ったらありゃしないよ」
ナディアが悪態を吐きながらも指先に魔力を集中させた。
「こちらへ! 危険です」
雪男の注意がナディアに向いた隙に、アンネリエ達を退避させた。恐怖のせいか多少ぎこちない動きながらも、三人は慌てて指示された位置まで走ってくる。
その後ろを護るように、ルリィはしゅるりと移動した。ルリィもまた人間二人を抱えているせいか、どことなく動きが鈍い。
「どうせだったら燃えるところは全部燃やしてやるよ!」
言うなり、ナディアの指先から巨大な火球が放たれる。
じゅ、という音と共に激しい水蒸気と焦げた臭いが辺りに満ちた。
鼓膜を震わすような重低音の咆哮に、足元が震えた。けれども恐怖に竦んでいる場合ではない。戦場で動けなくなれば、それはそのまま死に繋がるのだから。
雪男は炎に包まれたまま顔面を掻き毟った。呼吸が苦しいのかもしれない。いつかの雪狼のように窒息でもしてくれればと思ったけれど、そう上手くはいかないようだ。すぐに火力が弱まり、ちりちりと炭化した毛先が風に吹かれて飛んでいく。
しかし、火が消えるか否かというその瞬間に、次はアレクが間合いを詰めた。炎を纏わせた魔法剣が赤く輝く。全体重をかけて渾身の力で魔法剣を突き立てた。
再び上がる咆哮。
だが。
「チッ!」
舌打ちして力任せに剣を引き抜くと、雪男の振り回した腕が当たる前にアレクは飛び退って間合いを取る。
「どうだ?」
「駄目だな。皮下脂肪の下は弾力のある肉だ。刃先が通らん。押し返された」
「あんたの魔法剣でも突き通せなかったのかい。とんでもないねぇ」
打つ手なしのように思える状況下でも、三人は冷静さを失わない。戦いながら攻略法を模索しているのだ。
雪男がこちらに向き直り、素早い動きで一歩踏み出した瞬間。
「氷結!」
鋭く発せられた呪文と同時に無数の氷の柱が雪男の足元に出現し、見る間にその身体を覆い尽くしていく。が、ガラスが割れるような音とともに氷が弾け飛ぶ。
「さすがに雪の幻獣なだけのことはあるね! 氷魔法は効かないってわけかい!」
それどころか魔法耐性そのものが相当に高いようだ。
「一時的な足止めも無理か」
「……逃げるってわけにはいかないですよねぇ」
震える声で言うのはバルトだ。
「逃がしてくれるようにはとても思えないわ。雪の中であの素早さよ? すぐに追いつかれて終わりよ……って、きゃあああっ!」
「うわああっ!」
「ぐっ……!」
突如雪男の周辺の魔素が揺らぎ、瞬間凍てつくような風が吹き付けてアンネリエ達が悲鳴を上げた。最前線に立っていたアレクとクレメンスが呻く。剥き出しになっていた頬が氷雪交じりの強風で切り裂かれて出血していた。
アレクとナディアが火炎弾を放って魔獣の顔面に命中させると、強風が止んだ。
「凍てつく吐息か! やってくれる」
流れた血を手で拭いながら、忌々しそうにアレクが吐き捨てた。
どのような理屈か分からないが、高位魔獣の中には稀に火炎や氷雪を吐き出す種類のものもいるのだ。厄介なことに、この雪の幻獣もその類のものなのだろう。
「あんな危険なもの野放しにしちゃおけないねぇ。まかり間違って街まで来たら大事だよ」
いくら魔獣といえど、ただ森の奥深くでひっそりと暮らしてくれるならそのままそっとしておくだけでいい。けれどもこれほど不気味で危険な魔獣を放置しておくわけにはいかなかった。それも街にほど近い領域。積雪の中でもあれほどの速度で移動する魔獣なら、あっという間に街に到達してしまうだろう。街を護る外壁の外側には、小規模な農村もあるのだ。
倒せる可能性があるのなら、討伐しなければならない。それが冒険者の義務だ。
雪男が再び口元を歪めた。まるで非力で矮小な人間を嘲るかのように。
と。小さな複数の気配を察知してシオリはその方角に視線を向けた。覚えがある魔力反応。それはこの雪の中でも真っ直ぐにこちらを目指してくる。
「――こんなときに!」
出現率を考えれば遭遇して当たり前とも言えるけれど、つい悪態が口をついて出る。
アレク達が反応する前に両手に意識を集中しながら、彼らに警告の声を発した。
「雪海月が来ます! ごめんねアレク、やっぱりちょっと無理するよ!」
「ああ、仕方がない。だがほどほどにな! こっちは任せろ! お前とナディアは護りと援護を頼む!」
「わかったよ!」
「了解!」
雪男がアレクとクレメンスに向かって拳を振り上げた瞬間、木々の中から雪海月の群れが姿を現した。往路で遭遇した群れよりは小規模。とはいえ、数が多いことに変わりはない。
群れが周囲を取り囲むと同時に、シオリは最大範囲――戦場となる範囲をすっぽりと覆うように空調魔法を解き放った。雪海月が圧倒的に熱に弱いのは先日の戦いで確認済みだ。人間にとって心地よく感じる程度の温風ですら干乾びて死んでしまう。アレク達に雪男との戦いに集中してもらうためにも、雪海月に対する結界の役割を果たすこの魔法は有効だった。
範囲内にいた雪海月は次々に落下し、じわじわと水分を蒸発させて干乾びていった。落下して足元に積み上がっていく小さな魔獣の数に比例するように、魔力が身体から抜け落ちていく。広範囲に魔法を展開したせいで魔力の減りが早い。しかし魔力切れで体力と精神力まで削ってしまえば残りの行程に差し支える上、結界が解かれてしまう。
空調魔法を維持したまま、シオリはポーチから取り出した魔力回復薬を呷った。
そうしている間にも、力尽きた雪海月が頭上から降ってくる。炭化したものが混じっているのは、ナディアが頭上に向けて放った渦巻く火炎で焼かれたせいだ。
空調魔法と相俟って、周辺の気温が上昇する。
「おっ……」
「む……なんだ?」
雪男の猛攻を躱しながらも攻撃を仕掛けて、身体よりは刃が通りそうな腕から潰そうとしていたアレク達が小さな声を上げた。薄気味悪い幻獣の動きが目に見えて悪くなっていた。
二人がこれを見逃すはずもなく同時に間合いを詰め、幻獣の右肩に強烈な一撃を食らわせた。
響き渡る絶叫。雪に鮮血が飛び散った。皮一枚で繋がっている右腕がぶらぶらと揺れている。
「これだけ攻撃を食らわせて、ようやく右腕一本か」
「恐るべき硬さだな」
「しかし……」
雪男は邪魔だとばかりに右肩を振り回し、繋がっていた皮ごと右腕を千切り捨てた。
それを見て顔を顰めながらも、二人は思案するように雪男を観察する。
やはりこの幻獣の動きが鈍くなっている。幾度にも渡る猛攻撃によって蓄積したダメージと、千切れた右腕からの出血のせいもあるだろうが、それよりはむしろ――。
「……魔力耐性はあっても、高い温度そのものには弱いのかな。雪海月みたいに死ぬほどじゃないにしても……」
「かもしれんな。単なる与太話だと思っていたが、考えてみれば目撃証言は――」
「……全部冬だったな。知る限りでは」
温かい季節には活動できない冬限定の魔獣と同じように、この幻獣もまた寒い季節でなければ行動できないかもしれない。「雪男」たる所以か。
「あたしの魔法で燃やし続けてみるかい?」
「いや、それよりは……」
ナディアの提案に一瞬考えたアレクは、ちらりとシオリに視線を向けてにやりと笑った。
「風呂釜で茹でてみるか」
ルリィ「あーちーちー」
雪男「無許可で街道で歌ってはいけませんよ」
ペルゥ「つ 陛下直筆の許可証」
幻獣にフェンリルとかユニコーンではなく、雪男をチョイスしたのは私の趣味です。
よりUMA感がいや増しますな……(*´Д`)=3




