34 未確認魔獣
ナディアが溶かしたはずの雪道はたった二日で再び雪が積もり、道を作った跡さえすっかり消えていた。
「二日で随分積もったね。さすが北欧……」
「ホクオウ?」
「あ……ええと……私の国では大陸北西部の辺りをそうやって呼ぶの」
「ほう? ホクオウ、か」
アレクは興味深いとでもいった様子だ。
冬が長く一年の半分近くは雪に覆われ、そして夏でも夜間には防寒着が必要な日もあるほどに冷涼な気候。白夜や極夜はないものの、日照時間は六時間から十九時間前後と季節によって大幅に異なる。地図で見ても極地方に近い地域だ。元の世界の地図と同じ見方をしていいのかどうかはわからないけれど、向こうの世界でいえば恐らく北欧の辺りに位置するのだろうと勝手に思っている。
来るときと同じようにナディアが火の魔法で雪を溶かして道を作り、一行はナディアを先頭にして歩き始めた。彼女の次にアレクとルリィ、シオリが続き、その後ろに伯爵家の三人、そして殿はクレメンスだ。
主戦力の一人であるアレクの両手が塞がっているから、可能な限り早い段階で魔獣の気配を察知できるようにシオリは探索魔法を周囲に広げた。通常人間が気配を察知できる範囲は熟練の冒険者でも半径およそ三、四十メテルといったところだから、それより広めの七、八十メテルの辺りまで広げておく。
「あまり無理はするなよ」
「うん。すぐ魔力切れにならない範囲でやってるから大丈夫」
この程度なら、休憩の都度魔力回復薬を飲めば十分間に合いそうだ。そう伝えれば、アレクは頷いてくれた。
「アレクこそ無理しないでね。大丈夫?」
彼はフロルを担ぐために筋力増強の魔法を使っているはずだ。筋力を最大限に引き出す便利なものではあるが、度を過ぎた使い方をすれば、筋を痛めたり筋肉疲労が過ぎて数日寝込むはめになったりと反動が大きい魔法でもある。
「ああ。お前と同じで負担にならないぎりぎりの範囲で使っているから大丈夫だ。まぁ、街に戻ったらゆっくり身体を休めることにするさ。お前もちゃんと休むんだぞ」
「……うん。分かってる」
何か念を押されてしまい、シオリは苦笑した。
降りしきる雪の中、その後はしばらく無言で歩いた。白一色の世界は、足元で雪を踏む音以外に聞こえる音は何もない。発した僅かな言葉さえ雪に吸い込まれて消えていくかのように、辺りは静寂に包まれていた。
往路よりも天候は悪く、体力の減りが早い。時折アレクの口に行動食を放り込み、ルリィには温水を作って与えながら、自分も塩味のきいたナッツ類を齧った。
幸い道中は魔獣の襲撃もなく、およそ一時間の後に展望台で最初の小休止を取った。急いで雪を成形していくつか簡易ベンチを作り、フロルとユーリャを寝かせる。ほかの者達もベンチに腰掛けて束の間の休息を取った。
魔法で湯を沸かして生姜湯を作り、皆に振舞う。病人にはベリーシロップのお湯割りを与えた。
「様子はどうだい」
「うーん……ユーリャさんはまだ余裕がありそうだけど、フロルさんは少し辛そうかも」
クレメンスの手を借りてフロルに飲み物を飲ませながら、シオリは眉根を寄せた。出発前には多少の軽口を叩く余裕があった彼は、今はぐったりと目を閉じたまま浅い呼吸を繰り返している。頬に触れてみてもやはり熱い。雪の中を歩いて手が冷えたせいもあって正確なことはよく分からないが、心なしか熱が上がっている気がした。
「身体を起こした状態で運んでいるからな……多少なりとも負担はかかるだろうな」
凝り固まった肩を解しながら、アレクが唸った。
「一回の休憩時間を延ばすか?」
「そうだな。五分余分に取ろう。あとは様子を見て小休止の回数を増やすか」
「……すまなイ。面倒を掛ける」
気怠げに目を開けたフロルは呻くように言った。唇を噛み締めているのは、具合が悪いからというよりはむしろ、歯痒いのかもしれなかった。
「気にするな」
アレクは笑った。
「それよりも、道中気分が悪くなったらすぐに教えてくれよ。背中に嘔吐でもされたらかなわんからな」
冗談めかして言う彼に、フロルも少しは気が楽になったらしい。彼もまた微かに笑った。
「確かにな……それは大惨事ダ」
「ああ。だから遠慮はするな。ほら、あまり喋ると疲れるぞ」
彼は頷き、それから大人しく目を閉じた。
数分後、小休止を終えて手早く出発の準備を整えた。
次に病人を担ぐのはクレメンスとデニスだ。クレメンスがフロルを、軽いユーリャはデニスが担ぐことになった。アレクが二人に筋力増強魔法を掛けると、デニスは小さく感嘆の声を上げた。
「……これは凄いな。全然違う」
「そんなに違うの?」
「子供くらいの重さになった。これなら大荷物でも持てそうだな。後で疲れるのでなければ、何度でも掛けてもらいたいくらいだ」
「そうだな」
アレクは苦笑した。話しながら再び街に向かって歩き始める。
「……誰しも最初はそう思うんだ。この魔法を覚えたての人間が大抵は通る道なんだが……」
クレメンスも意味ありげに含み笑いしている。どうやらまた何か失敗談でもあるらしい。
「身体に負担が掛かる魔法だから使うのはここぞという時だけにしろとは教えられていたんだが、なにしろ初心者で加減が分からなくてな。このくらいなら大丈夫だろうと使っているうちに限度を超えてしまって……」
「それでお前、体力があっという間に尽きて突然倒れて、丸一日目を覚まさなかったな。今となっては笑い話だが、あのときは本気で焦ったぞ。遠征先で主戦力が片方倒れたんだからな」
「それは……悪かったよ」
クレメンスが語った暴露話に、アレクがますます苦笑いを深める。
筋力増強魔法は、あくまで筋力を上げているだけに過ぎない。決して体力が上がるわけではないから、度を過ぎると過労状態になってしまうのだ。
ちらりとアレクを見上げると、彼は恥ずかしそうに目を逸らしてしまった。その仕草が少し可愛く思えてくすりと笑う。
「なるほどな……魔法もただ便利なだけじゃないんだな」
「制約があるからこそ、魔導士さん達は研究を重ねているのね」
「そうさねぇ。魔力の大きさに甘えて研究を怠る奴は多いけどね、上位ランクに上がってこれるのは試行錯誤して自分なりの使い方を地道に研究してきたのだけなんだよ」
言いながらナディアがちらりと振り返り、そしてぱちりと魅力的なウィンクを飛ばして寄越した。
冒険者になると決めたとき、魔導士としてシオリの指導教官を買って出てくれたのはナディアだった。独り立ちできるまでずっと見守ってくれたその彼女が自分の努力を認めてくれている。
それに気付いてシオリは小さく微笑んだ。
――もう立ち止まらないと決めたのだ。そうでなければ、こうして認めてくれる人達にも、そして――今まで頑張ってきた自分に対しても失礼になる。
と。
探索魔法の網の端に何か気配を感じた気がして、シオリはその方角に視線を走らせた。もう一度集中してみる。
間違いない。
(――何かいる)
網の縁で出たり入ったりを繰り返していた大きな気配はやがて、ゆっくりと移動を開始した。ジグザグに動いているのはきっと木々などの障害物を避けて歩いているからだろう。その向かう先は――。
「……アレク。何か来る。多分大型」
「……雪熊か?」
「そこまでは分からない……けど、ジグザグに歩きながらゆっくりこっちに向かってる」
「確かか?」
「うん。距離は六十メテルくらい」
彼はシオリが見る方向に一瞬ちらりと視線を向けたが、すぐに頷いた。
「止まってくれ。魔獣が接近している。恐らく大型だ。ゆっくりこちらを目指してるようだ」
一行に緊張が走った。
「また雪熊なの?」
不安げにするアンネリエをバルトが庇う。ユーリャを背負っているデニスも緊張を隠せないようだ。
「まだ分からん。だが、念のため戦闘態勢に入っておこう」
何もなければそれに越したことはないけれど、万一出遅れれば命にかかわる。冬に出没する大型魔獣はとにかく危険なものばかりなのだ。
ルリィがクレメンスとデニスをつつき、それからフロルとユーリャを指し示した。そしてぷるんと震えて見せる。
「ん、なんだ?」
彼らは戸惑いながらもシオリを見た。
「……多分二人を護ってくれるんだと思います。ルリィに預けてください」
「なるほど。分かった、頼む」
クレメンスとデニスは一瞬驚いたようだったが、すぐに表情を引き締めると、アレク達の手を借りてその場に広がったルリィの上にフロルとユーリャを下ろした。
二人を乗せたルリィは薄く伸びると、くるりと二人を巻き込んだ。息苦しくないように、空気穴まであける念の入りようだ。
と、次の瞬間ルリィが赤く染まった。警戒色だ。
「……間違いない、こちらに来ます! 距離およそ四十メテル! 速度が上がった!」
即座にアレクとクレメンスが得物を抜き払った。ナディアと二人でアンネリエ達を後ろ手に庇いながら、未だ姿の見えぬ魔獣がいる方角を見据える。
降りしきる雪の中で視界は悪く、迫りくるものの正体はまだ分からない。が、やがて雪を踏み締めるような音が聞こえ始め――そしてそれはのそりと姿を現した。
初めは重装備した大柄な人間かとも思えた。けれどもそれが近付くにつれて、その異形の姿が明らかになる。
真っ白な毛むくじゃらの身体。不釣り合いに長く太い腕。顔面を覆い隠す長い体毛の隙間から、真っ黒な地肌と感情の見えない奇妙に円らな瞳が覗いた。
「なに、あれ――」
雪熊とは違う。二足歩行の奇妙な魔獣――。
こんな魔獣は図鑑に載っていただろうか。一通り覚えたつもりではあったけれど、この魔獣に見覚えはなかった。
けれどもアレク達は違ったようだ。しばらくその魔獣を凝視し、それから僅かに表情を強張らせるのが分かった。
「――まさか……」
アレクが低く唸る。
「雪男……か?」
ルリィ「チューバッk……」
雪男「人違いです」
ロマンですよねぇ未確認生物……。
遭いたくはありませんけど。




