33 生きる意味
ルリィ「ウフフフ」
復路の重労働に備えて温かく腹持ちの良い朝食を済ませる。食欲がないユーリャには温かいベリーシロップ水を飲ませ、多少なりとも食べる意思を見せたフロルには具を除いたスープを与えた。
朝食の後は、二人分の荷物をばらして分担する。
「今日中にシルヴェリアの街に戻れるように頑張ろう。街に近付くほど魔獣との遭遇率は低くなるから、多少の危険はあるが日が落ちても街を目指そう。万一到着しなかった場合は、そこから俺が一人で先行して救助を呼ぶことにする。置いていく荷物はそのつもりで選定してくれ」
アレクの指示で、処分する荷物をそれぞれ決めた。
各個人の行動食以外の食糧は、三日間で消費して荷物に余裕のあるシオリの背嚢に纏めて詰めた。入浴道具の一部や洗面用具などの無くてもさほど問題はないもの、買い替えが容易なものについては全てこの場所に置いていくことにする。そうして作った空きに、着替えや毛布、天幕などを分担して詰めていった。
「仕方ない。気付けの酒以外は捨てていくか」
「是非捨てていってくれ。不吉過ぎてかなわん」
「家にまだあるが」
「……帰ったらそれも処分しろ」
アレクとクレメンスの二人にしか分からない内容の会話に首を傾げつつ、それぞれが荷物を纏めた。
それからフロルとユーリャに厚着をさせ、その上から毛布をしっかり巻いて防寒対策を施す。
最後に結界杭を抜いて野営地を完全に解体した。
病人の二人を運ぶ順番は、初めはアレクとルリィ。あとは一時間ごとに交代することで決まった。デニスとバルトは疲労対策のために、冒険者組よりは回数を減らしてある。
「よし、では出発するぞ。脱出口を作ってここから直接外に出てしまおう。あの男は置いていく。すまないが諦めてくれ」
遺髪か遺品の一つでも取ってあればよかったのだけれど、こういう事態になることは想定していなかったのだから仕方がなかった。
フロルは閉じていた瞼を薄っすらと開けると、小さく頷いた。
「……気にするな。置いていくのは身体だけダ。魂だけは、故郷に帰ってくれるだろうからな」
――二人の従弟で、幼い頃は遊び相手でもあったというセルゲイ。土に還ることはできないけれど、身軽になったその魂だけは想い出の場所へ還るだろう。
不愉快な男だったけれど、そんな彼でもこうして悼んでくれる人がいるのだ。人と人の繋がりは、理屈ではかれるものではない。複雑で哀しくて――でも、温かい。
「シオリ、脱出口を頼む。人一人が出入りできる程度の大きさでいい。疲れるとは思うが、小まめに回復してしのいでくれ。魔力回復薬の予備は十分にある。出し惜しみせずに使って、魔力切れでの疲労は溜めないようにするんだ。いいな?」
「うん、わかった」
明かり取りの窓を起点に土魔法を展開して脱出口を作り、そこから下を見下ろした。石畳を押し上げて昇降機のようにすれば降りられるだろう。
「隆起させるね。下まで距離があって魔力消費が大きくなるから、二回に分けて下ろすけどいいかな」
「ああ、お前が楽なやり方でやってくれ」
「了解。――大地隆起!」
塔の真下の石畳を土魔法で押し上げる。さすがに重量があって一回だけでは高さが足りず、もう一度魔法で干渉して四階の高さまで押し上げた。
二メテル四方ほどのその場所に、クレメンスとナディア、そしてアンネリエ達が乗っていく。その間に魔力回復薬を飲んで回復し、五人が乗り終わったところで再度土魔法を展開した。危険が無いようにゆっくりと下ろしていく。
「――逃げずに責任を果たせ……か。耳が痛いな」
下を見下ろしていたアレクがぼそりと呟いた。
「デニス殿は……アンネリエ殿のそばで、逃げずに戦ってきたんだな」
その声色に自責の念のようなものを感じて、シオリは彼を見上げた。下に到着して順に石畳製の昇降機から降りていく五人を眺めているはずのその瞳はしかし、ここではない遥か遠くを見つめているかのように、どこか儚く頼りなげに揺らめている。
「……アレク?」
そっとその手に触れると、やんわりと握り返された。
「――ずっと若い頃にな。何もかも投げ出して、逃げたことがあったんだ」
あまり聞いたことがない、彼の過去。
「弟に全ての面倒事を押し付けて、俺だけ逃げ出した。あのときはそれが最善だと思っていたが、逃げずに頑張っていればもしかしたら違う結果もあったんじゃないかと今でも思うことがある。弟は快く送り出してくれたが、きっと……心細かっただろう」
彼は小さく笑った。弱々しく、自嘲気味に。
「……そのときにもう一人、酷く傷付けてしまった人がいるんだ。これ以上はないほど不誠実なことをした。おかげで酷く怒らせてとんでもない暴言をぶつけられたが……あれは堪えたな。今でも夢に見るくらいだ」
先に下りたクレメンスから合図があった。再度土魔法を展開し、脱出口の高さまで石畳を押し上げる。
「……とんでもない暴言?」
――今でも夢に見る。
悪夢に魘される彼の姿が脳裏を過った。
アレクがフロルに肩を貸し、昇降機の上に乗った。肩を貸したことで少し前傾姿勢になった彼の前髪が紫紺の瞳を隠す。長めの前髪に隠れて口元だけしか見えなくなった彼の表情はよく分からなかったけれど、ただその唇が微かな笑みの形を刻んだのが見えて、シオリは小さく息を呑んだ。
それは笑みというには酷く悲しげで苦々しく、そして――その唇の端が震えたようにも見えたからだ。
彼は言った。
「俺との想い出も、それどころか俺自身にさえも何の価値もないと……そう言われたよ」
「――!」
その人物と彼がどのような関係で、何を思ってそんな台詞を投げ付けたのかは分からない。けれどもそれは、怒りに任せて吐き捨てるにはあまりにも毒が強過ぎる言葉だ。
彼との想い出があったということは、きっと長く彼のそばにいた人なのだろう。そして彼が「逃げる」ことで、酷く傷付いた――。
見上げた彼の横顔の向こうに、何故だかほんの一瞬知らない女の気配を感じたような気がして、シオリは思わず顔を背けた。
ユーリャをくるりと巻き込んだルリィが昇降機に乗ったのを確めてから、足元の石畳に集中してゆっくりと下に向かって下ろしていく。
「……辛かった?」
「ああ。弟と同じくらいに信用し、信頼していた人だった。あれが怒りに任せた言葉だったのか、それとも本心だったのかは今となってはもう分からないが……これは逃げた俺に対する罰なのかと随分悩んだな」
――信頼を寄せていた人間からの、存在否定。
(……でも、アレクに価値がないなんて、それじゃあ……まるで何か旨みがあったからアレクのそばにいたみたいじゃない)
要らない、と。かつて自分も言われたことがあるからこそ、その痛みと辛さは分かる。
――誰のためでもなかった。誰かの欲を満たすために生きてきたのでは決してない。全力で生き抜いてきたのは、ただただ自分が生きたかったからだった。
きっと自分に限らず多くの人は、そうなのではないだろうか。ほかの誰のためでもなく、自分のために生きる。自分のために生きてこそ、その生に意味がある。その上で誰かの助けになるのなら、それは喜ばしいことなのだとも思うけれど。
「どんな理由があったかは分からないけれど、存在を否定するようなことだけは絶対人に言ってはいけないことだと思うよ。その人のためにある命じゃないんだもの。価値があるとかないとかそういうのじゃなくて……私はアレクがアレクだから、好――」
その場の勢いに任せてつい自分の想いを告げそうになり、それからアレクに支えられているフロルとふと目が合い、続いて足元でルリィに包まれているユーリャにまで目を丸くして見られていることに気付いてシオリは口を噤んだ。
「す……なんだ?」
「う、ううん、なんでもない」
慌てて誤魔化すと、アレクは少し残念そうな顔をした。
「何か良い言葉を聞かせてもらえそうな気がしたが――」
「なんでもないってば!」
フロルとユーリャが微かな笑い声を立てた。
「……身体が熱いのはどうも熱のせいばかりでもなさそうダな」
「……そうね。なんだかますます熱が上がった気がすルわ」
高熱に喘ぎながらも二人はどこか楽しげにくすくすと笑う。そんな彼らをじっとりと睨み付けた。
「元気そうですね! 人を揶揄う元気があるなら置いていきますよ!」
「悪かっタ。連れていってくれ。俺は生きると決めたんだ」
酷い熱で苦しいだろうに、それでもフロルは言った。
「俺は領民が身を削って収めた税で育てられた。この身体は彼らの血税でできている。この命は俺の物であると同時に、彼らの物でもあるんダ。だから、こんなところで無駄死にするわけにはいかない」
下から吹き上げた雪混じりの風が毛布の端を捲り上げ、彼の砂色の前髪を巻き上げる。毛布を引き上げて包み直すと、彼は小さく目礼してから前を見据えた。
「……ストリィディアは良い国だな。ドルガストとはそれほど環境は変わらないはずなのに、国は豊かだ。長い年月を掛けて荒地を開墾し、土地や作物を改良して豊かなものにしタ。きっと王が……上に立つ者が、優れているのだろうな」
王やそれに連なる者が愚かだったばかりに、帝国は衰退の一途を辿った。
貧困に喘ぐ民と痩せた土地から目を背け、それを改善するどころか豊かな隣国の土地を奪うことで不足分を補おうとした。そのために強引な徴兵を行い、それで農奴が減ってますます税収が減り、衰退が加速化した――。
「……このままではいけないと改善に乗り出した領主は多かったが、遅きに失した。状況が悪過ぎて一領主が努力しただけではどうにもならないところまで来ていたが、中央政府への陳情は全て無視された。だから各家で腕の立つ者を集めて資金確保のために過去の遺物を漁って……」
もっとも、その遺物を手に帰還したのはごく一握りだ。ラフマニン家のようにほとんどが既に誰かに持ち去られた後で回収できず、国に戻る資金も底をつき、そうこうしているうちに内乱が起きて王国内に留まるしかなくなった。
そう言って、フロルは悲しげに目を伏せた。
「この国は王侯貴族の在り方が健全だ。為政者が自らの立場と為すべきことを理解している。この国に来て各地を旅して回るうちに、そのことがよく分かっタ。民は貴族のために在るのではなイ。貴族が民のために在るんだ。俺達は民に生かされていた。その見返りに、民にもっと気を配らねばならなかったのに、なぜ――なぜ、もっと早く気付かなかったんだろうな。セルゲイの奴だってもうとっくに現実に気付いてただろうに、あいつは帝国貴族のくだらない馬鹿げたプライドを捨てきれずに、あんな――民の命どころか、自分の命まで粗末にして――」
「……もう止せ。あまり激すると身体に障る」
アレクの静かな声が柔らかく彼を諫めた。
「帝国は終わるかもしれないが、お前はまだ生きている。生きて、そのことに気付けたんだ。身体を治したら――難民キャンプに行くといい。そこで民と共に暮らしながら、これから先をどう生きるか決めるんだ」
――その道は決して楽なものではないだろうけれど。
「……ああ、そのつもりだ。もっとも、貴族として安穏と生きてきた俺達が受け入れてもらえるかどうかは分からなイが」
「それはお前達次第だな。キャンプには領民を護りながら一緒に逃げて来た領主の一族もいるらしい。彼らのように民に寄り添おうという気持ちがあるならいずれは……と願っているよ」
「……ああ。ありがとう」
昇降機が下に着く。
アレクは筋力増強の魔法を唱えると、先に下りていたクレメンスの手を借りてフロルを背負った。
「よし、出発するぞ」
彼の言葉に皆が頷く。ルリィがぷるんと――包み込んだユーリャを気遣ってか、いつもより小さく震えた。
ルリィ「す……す……すばらしい仲間だと……思っt」
ペルゥ「それ何の台詞」




