32 生きる覚悟
「うーん……やっぱり冬の遠征は肩が凝るなぁ」
朝、交代の時刻に目を覚ましたシオリは伸びをしてから肩を揉む。重い荷物を背負い、寒さで無意識に首を竦めているせいか、肩凝りが酷い。
「帰ったらマッサージお願いしてみようかなぁ」
「ああ、あいつのマッサージはお勧めだよ。あたしもまたお願いしようかねぇ」
起き出してきたナディアもまた、肩や首筋を擦りながら言った。
同僚の魔導士――否、先日何を思ったか突然武闘家に転職した男が按摩師の資格を持っているらしく、腕は良かったとナディアが絶賛していて興味はあったのだ。
肩から首筋にかけてを手で揉み解しながら起き上がり、もう一度伸びをしてから毛布を畳んで身支度を整える。
床でお馴染みの伸縮運動をしていたルリィが、しゅるんと触手を伸ばして挨拶した。
「おはようルリィ」
声を掛けると、ルリィはぷるんと震えてから饅頭型を模った。いつも朝晩の伸縮運動を欠かさないルリィだったが、スライムでも身体が凝ったりするのだろうか。凝る筋があるのかどうかも疑問だけれど、ルリィのことだからきっと何か意味があってそうしているのだろう。多分。
「朝ご飯は……一角兎の肉団子スープでいいかな。あとはパンケーキにベリージャムをのせて食べよう」
小骨が多く食べ辛い部位を、魔法で骨ごと丁寧に砕いて肉団子を作る。これと根菜を煮込んだスープは身体が温まって腹持ちも良い。
フロルとユーリャには、今日もパン粥がいいだろう。肉団子スープを取り分けて、食べやすいように柔らかく煮込めばいい。昨日の食後の様子では胃の調子にそれほど問題はないようだから、もう少し歯応えを残してもいいかもしれない。
ことこととスープを煮込んでいくと、出汁の良い香りが室内に満ちていく。器に少量取って味見した。
「んん……美味しい」
微かな獣臭さを感じるけれど、その独特な風味が味に深みを与えている。
「トリス兎の肉は駄目だったけど、一角兎は美味しい……アンネリエ様じゃないけど、ちょっと癖になりそう」
スープの出来栄えに満足して目を細めた。
「……さて、どうしようかな」
スープを作り終え、パンケーキの生地を作って焼くだけにしておけば、あとは皆の起床時間までは暇ができる。ナディアと一緒に見張りをしつつ、携帯用魔獣図鑑に今回の旅で増やした知識を書き込みをするか、それとも手帳を纏めるか。
そんなことを考えながら、念のために探索魔法を展開する。塔に棲む魔獣の気配をいくつか感じる以外には、昨日と変わりはない。異常はなさそうだ。
ふと寝床の方に視線を向けると、寝返りしたアレクの肩から毛布がずり落ちてしまっていた。あれでは寒いだろう。近寄って毛布を掛け直してやると、無意識なのか彼の手がゆらりと空をさまよい、それからシオリの手に触れた。そのままそっと握り込まれる。
眠っていても誰の気配かわかるのだろうか。嬉しいのだけれども今この場所ではなんとなく気恥ずかしくなって、アレクの手を撫でてからそっと外した。
胸がじんわりと温かくなるのを感じながら静かに立ち上がり、何の気なしに焚火の向こう側で横になって眠るフロルとユーリャに視線を向けた。
(……あれ?)
二人の寝顔が苦しげなものに見えて、シオリは眉を顰めた。気のせいだろうか。
歩み寄り、毛布に包まって眠る彼らを覗き込む。青白い肌は汗ばみ、その頬だけが不自然に赤い。寝息が酷く苦しそうだ。
「まさか……」
二人の額に恐る恐る触れた。
「どうかしたのかい?」
こちらに気付いて声を掛けるナディアを見た。
「姐さん……」
ただごとではないと察したのか、彼女が駆け寄ってきた。同じように覗き込み、ナディアは慌てて二人の頬に触れた。
「これは……厄介なことになったね」
ナディアの柳眉が顰められる。
「……熱が出てる」
無茶な長旅で弱った身体で冷水に浸かったせいなのか、それとも気が緩んだのか。酷く発熱していた。
「どうしよう、姐さん」
「早く医者に診せないと――良くないよ、これは」
このまま放置すれば悪化する可能性もある。もし肺炎にでもなったりすれば、体力が落ちている二人には致命的だ。
異変に気付いたのか、アレクとクレメンスが起き出してきた。二人の容態を確めた彼らは、ナディアと同じように顔を険しくした。
「まずいな。自力で歩けるならばともかく、依頼人を護衛しながら病人を二人も抱えていくのはさすがに難しいぞ」
抱えていくとしたら、それはアレクとクレメンスが担うことになる。ナディアや自分では体格的にも体力的にもまず無理だ。依頼人であるデニスやバルトに任せるわけにもいかない。
しかしそうなると、前衛職が二人とも両手を塞いでしまうことになる。それでは咄嗟の対応ができない。ナディアの魔法で時間稼ぎするにしても、自力歩行できない病人二人をその都度補助職のシオリや戦う技能がない依頼人に預けて戦うのはあまり現実的ではなかった。
それに、アレクとクレメンスの荷物を皆で分担して持つことも考えなくてはならない。そのためにはいくつかの荷物を捨てていかなければならないだろう。
いずれにせよ旅の危険度は高くなる。
「……誰かが先行して騎士隊を呼んでくるか?」
「一番現実的かもしれんが、そうなると……」
皆の視線がアレクに集中した。道中で雪熊や雪海月に遭遇する可能性を考えれば、強力な物理攻撃ができてなおかつ魔法にも長けていなければならない。とするならば、必然的に先行するのは魔法剣士のアレクということになる。A級とは言え物理攻撃専門のクレメンスや魔法攻撃のみのナディアでは、やや不安が残るからだ。
だからと言ってアレク一人で十分かと言えば、それも難しいところだ。何しろ丸一日雪の中をたった一人で行くのだ。ランクにかかわらず、雪の季節に難易度の高い魔獣が出る地帯を一人で歩くことは、よほどのことがない限りはするべきではない。
「でも……仮にアレクが行ったとしても……」
シオリが落とした呟きに、三人は深い溜息を吐く。
――どんなに急いでも騎士隊を連れて戻るまでに往復で二日、そして再び街を目指すのにもう一日。恐らくこの二人の体力は持たない。
どの手段を取ったとしても危険が伴う。誰かの、命を失う危険だ。
「でも、アレクを行かせるのが一番現実的だろうねぇ」
ナディアの言う通り、現状はアレクを一人先に行かせるのが一番危険が少ない。幸い食料は足りている。依頼人と仲間の命全てを危険に晒すよりは、この場でもっとも強い彼が先行し、残りはこの場で待つのが一番現実的だ。
その結果、助けが間に合わずに二人の命が尽きたとしても――その死の責任は全て、彼ら自身が負うべきものだ。
依頼人は最優先。そして冒険者は自己責任。
特にフロル達は無謀な旅路になることを承知で、不十分な装備のまま危険地帯に踏み込んだのだから。どのみちシオリ達がここに来ていなければ、昨日の時点で尽きていた命だ。
(でも……)
シオリは唇を噛み締めた。
彼らを助けたいと思ったのは自分もアレクも同じだった。
けれども、今こんな状況になって――結局アレクが一番危険な仕事を担うことになってしまった。それどころか、無事に着いて騎士隊の助けを呼んで来たとしても、無駄骨になる可能性もあるのだ。
彼と同じだけの責任を負いたいと思っていたのに、ランクも力量も彼の方が上なのだから、どうしたって彼が負う比重が多くなるに決まっているのに。
それは分かっていたことなのに。
(いざこうして突き付けられると、歯痒いなあ……)
アレクはしばらく思案し、それからシオリに視線を向けた。頷くしか、ない。自分が着いて行ったところで彼の足を引っ張るだけだ。それに、この場所を依頼人や病人のために二日間温かく快適に保たなければならない。
「ともかく、アンネリエ殿にも相談しよう」
起床時間までには間があったが、早めに決断して彼女の承諾を得なければならない。依頼人を二日間不自由なこの場所で待たせることになるのだから。
起き出してきたアンネリエは、フロル達の様子を見るとすぐに頷いた。
「分かったわ。助けられる命なら助けるべきよ。すぐに出発してもらって構わないわ。でも、一人で大丈夫なの? もう一人くらい連れていった方が良いのではなくて?」
「そうしたいのは山々だが、何があるか分からんからな。戦力はこちらに残していく。俺としても簡単に死ぬつもりはないが、万一丸二日経っても戻らなかった場合は、悪いがそちらで決断してくれ」
――万一戻らなかったら。
ぎゅっと胸が締め付けられるような感覚に、シオリは小さく喘いだ。
二人での初めての仕事で別行動を余儀なくされ、それどころか――万一のことを考えなければならないなんて。
――置いていかないで。一緒に連れていって。
そう言って彼に縋り付きたくなる自分を叱咤し、どうにか溢れる気持ちを抑え付けていると、苦しげに吐息を漏らすフロルが身動ぎした。
「……置いていけ」
掠れた声で、そう呟くように言う。
「フロルさん……」
「……お前達にはもう二度も助けられた。これ以上……恩人に迷惑はかけられなイ」
言ってから、苦しい息の下で、それでも彼は笑った。自嘲気味に。
「仕えるべき主は死んだ。帝国も……反乱軍に制圧されるのは時間の問題だろう。何をどうしたって、もう帝国は助からなイ。どのみち滅びるのなら、この塔を墓標に、俺達も、ここでいっそ潔く――」
「……ふざけるな」
低く鋭い声がフロルの言葉を遮った。
「デニス……」
アンネリエの声が、恋人の名を呼ばう。
焚火の光を透かして苛烈な緋に染まった赤毛を揺らしながら、デニスはつかつかと前に進み出ると、フロルの胸元に手を伸ばした。が、その手が彼の服を掴む前に、ぐっと握り込まれる。胸倉を掴み上げようとして――病人相手と思いとどまったのかもしれない。
代わりにその場に膝をつき、ぎろりとフロルを睨めつけた。
「ふざけるなよ」
勿忘草色の瞳が、燃えるような赤毛に縁取られて激しく揺らめく。
「貴族としての務めも果たさず利益だけを享受しておいて――挙句に異国で他人を巻き込み死の危険に晒しておいて、何が心中だ。何が墓標だ。何が潔くだ。逃げるのか。何の責任も果たさずに死んで自分達だけ楽になるつもりか。昨日土下座してまで食糧を乞うたのは何のためだ。生きたかったんだろう。異国人に無様に土下座してでも生き延びたかったんだろう。そこまでの気概があったのなら、今ここで諦めるな!」
フロルが息を呑み、目を見開く。
「生き延びてみせろ。生き延びて責任を果たせ。今まで甘んじて享受してきたものを、死ぬ気で頑張って返してみせろ! それがお前が帝国貴族としてできる最後の務めだ」
そこまで一息に言ってからデニスは息を吐き、そしてもう一度フロルを見据えた。
「……死んで逃げるなんて卑怯だ。死んで果たせる責任なんて、何一つないんだ」
最後に落とした言葉は、どこか自分に言い聞かせるようでもあった。
――痛いほどの沈黙の後、フロルは小さく頷いた。
それを見て、デニスもまた頷く。
「アレク殿一人で先行しても、どうしたって時間がかかる。こいつらが持たない可能性の方が高い。男四人で交代しながら担げばどうにかならないか?」
「そうね。確かにデニスの言う通りだわ。行って戻ってきて、また運んで帰るとなると最低でも三日はかかるわよね。天候によっては救助隊もすぐには出してもらえないかもしれないでしょう。その間に力尽きる可能性が高い人間のために、あの道を一人で行って万一アレク殿に何かあっても、それはそれで問題だと思うわ」
アレクが仲間に目配せする。依頼人の手を煩わすことになるけれど、手を借りられるのならありがたい。
シオリは明かり取りの窓から外に視線をやった。降りしきる雪の中、雪を纏った針葉樹の森が見える。
(魔法で木を削って――ソリでも作れればいいんだけれど)
ソリに二人を載せて運べば、アレク達の体力消費を抑えられるだろう。
けれども、木工の知識もない自分がいきなりやって上手くできるとは思えない。形はそれなりにできたとしても、雪上を上手く滑るかどうか、そもそもあの木がソリに向いた材質なのかどうかも分からない。
土魔法での野営設備の成形だって、試行錯誤を重ね、何度も練習してようやく満足のいく状態に仕上げられるようになったのだから。
時間に余裕がない状況で、実験的なことをする暇はないだろう。
ふと、足元を見る。見下ろされていることに気付いたのか、ルリィがぷるんと震えた。それからもう一度、ぷるんぷるんと何か言いたげに震えて見せる。
――頼れ、と。
そう言われたような気がした。
「ルリィ……」
膝をついてルリィと向き合う。
「お願いしても……いい?」
ルリィは力強くぷるんと震えた。
「二人を運ぶの、手伝ってくれる?」
勿論と言わんばかりにルリィはぷるぷると身体を揺らした。
「ありがとう、ルリィ」
伸ばされた触手がシオリの手に触れた。撫でるように何度か往復してからしゅるりと離れていく。気にするなとでも言っているかのようだ。
「ルリィ、お前……」
「運んでくれるのか」
アレク達は一瞬顔を見合わせてから、すぐに頷いた。
「よし、じゃあ五人で交代しながら担いでいこう。筋力増強の魔法を使えば大分違うはずだ。デニス殿とバルト殿は魔法慣れしていないからもしかしたら反動で後日酷く疲れるかもしれないが……どうする」
「構わない。使ってくれ。戻ったらゆっくり休ませてもらうことにするさ」
「そうですねぇ。我らが女主人はお優しい方ですから、きっと気前よく一週間くらいは休暇をくださいますよ」
「貴方達ねぇ……」
アンネリエは笑った。
「いいわ。元々は私の我儘に突き合わせてここまで来たんだもの。奮発して特別ボーナスも出すわよ」
「やった、さすがアニー! よし、それじゃあいっちょ頑張りますかね!」
意気軒高たる様子でバルトが声を上げた。
「そうと決まれば、すぐにでも食事を済ませて出発しよう。シオリ、支度を頼む」
アレクの大きな手がシオリの肩を叩いた。ルリィもまた力強くぷるるんと震える。
シオリは目を細めて笑うと、それに応えて頷いた。
「――了解!」
ルリィ「……他の男に身体を揉ませて大丈夫なんだろうか」
下水道の爺さん「それくらいなら自分が揉んでやると言いかねんのう……あの男」
あ、按摩の資格を持ってる武闘家のおにいさんは、トリス支部通信とルリィの日記にちらっと出てきた人です。覚えておられますかね?|д゜)




