31 天界の女
じっくりと煮込まれた一角兎のシチューと、串焼きの香りが室内に満ちる。
「うま……ああ、やっぱり兎肉を味わうなら串焼きだよな! 香草の香りがまた独特の獣臭さを引き立てていて堪らない」
「串焼きも確かに美味いが、兎肉と言ったらやはり煮込み料理だろう。独特のコクが野菜にもよく染み込んでいる。煮汁に溶け出した脂もくどくなくていい」
「一角兎の肉ってもっと獣臭いのかと思っていたけれど、思ったよりもずっと食べやすいのね。上品な味わいの中に感じる微かな獣臭さが、なんというか絶妙なバランスだわ。あんまり獣臭いのは苦手だけれど、これはちょっとクセになりそう。獣舎で飼えないかしら……」
「アニー……」
野兎料理として街の料理屋などでも提供されるトリス兎などは臭みが強く、ストリィディア人でも苦手とする者は多いが、この一角兎は臭みがむしろ肉に独特のコクを与えて味わい深いものになっている。どうやらアンネリエ達の御眼鏡にもかなったらしい。
彼女達が一角兎料理に対する意見を戦わせる横で、フロルとユーリャも粥をゆっくりと咀嚼しながら目を細めている。
二人の帝国人にはシオリの気遣いで特別メニューが提供されていた。器の中にはわざわざ別鍋で作った一角兎と根菜のパン粥が入れられている。舌の上で蕩けるほどに具材を柔らかく煮込んだそれは、彼らの体調を慮ってのものらしい。「長いことちゃんとした食事をしていないのなら、急に沢山食べるよりは消化にいい物をゆっくり食べた方がいいかと思って」というのがシオリの意見だ。
その彼女はシチューの肉を噛み締めながら、賑やかな食卓を眺めて微笑んでいる。
「口に合ったみたいで良かった。兎料理ってこの国に来てから覚えたから、正直言うと今でもちょっと自信がないの」
意外な台詞にアレクは目を瞬かせた。兎肉料理はそれほど珍しいものではないからだ。今のように畜産が盛んではなかった時代には、鳥と並ぶ代表的な狩猟肉として位置づけられていた。家畜化された現在でも食卓に上ることは多い。
「お前の国では兎を食べる習慣はないのか?」
訊くと、シオリは首を傾げながら言った。
「うーん……あんまり豊かじゃなかった時代には食べることもあったみたいだけど、今はほとんど聞かないかな。どっちかっていうと愛玩動物だから、食べることに抵抗がある人の方が多いと思うよ」
「……そうか。食文化も色々あるんだな」
言いながらもアレクは彼女の言葉に再び微かな違和感を覚え、シオリの横顔を凝視した。彼女は特に変わった様子もなく、そのまま食事を続けている。
(亡国ではないのか……?)
彼女の故国はもう二度と手の届かない場所にあると言っていた。行ける場所にはないとも。だから亡国なのかとも思っていた。
しかし、先ほどの彼女の言葉はどうだ。過去形ではなかった。その国の人々の暮らしが現在もまだ続いているかのような物言い。それに――。
(――この国に落ちてきた……か)
妙な表現だと思った。そう感じたのは自分だけではないようだった。クレメンスとナディアもまた考え込む様子だった。
どういう意味なのだろうか。まるで天から降ってきたかのようではないか。
訊いてみればいいのかもしれない。だが、そうしたところで彼女を困らせるだけなのではないかとも思うのだ。いつかは教えてくれるのかもしれないが――今はまだそのときではないように思える。
――この国に来るまでの一切を明かすことがなかった彼女だったが、近頃は心からの笑顔が増え、そして時折過去の話を口にするようにもなった。少しずつ心の整理を付けようとしているのかもしれない。
だからこそ、無理にその内面に踏み込むことは避けたかった。強引にこじ開けて彼女の心の負担になるようなことはしたくはない。故郷に関する何かが彼女を苦しめているのだろうと察せられるだけに、なおさら。
――だが……。
「……なぁに? どうしたの?」
じっと見られていることに気付いたシオリが、匙を握る手を止めて首を傾げる。その頬は焚火に照らされて赤く色付いていた。黒に見紛う瞳が焚火の灯りを映してきらきらと輝いている。
「……いや。なんでもない。可愛いなと思って見ていただけだ」
「う、なっ、なにそれ……」
適当に揶揄う言葉で誤魔化してみれば、彼女は頬をますます赤くして狼狽えた。その姿を見て笑いながら、アレクは知りたいという気持ちを強引に押し込んだ。
夜半。
最初の見張りを務めるアレクは、クレメンスと差し向かいで小瓶の酒を煽った。友人が勧める怪しげな銘柄の酒は丁重に辞退して、手持ちの蒸留酒を口に含む。芳しい果実の香りとともに喉を滑り落ちていく感覚を楽しんでいると、床に敷いた毛皮の上に横になっていた人影の一つがもぞりと動いた。
「……ナディア」
普段は結い上げられている髪は、今は眠るために後ろに流して束ねただけになっている。その髪を背に払い除けながらナディアはこちらに歩み寄り、焚火のそばに腰を下ろした。
「やはり眠っていなかったか」
「まぁねぇ。あたしだって気になってたからね」
シオリが眠るまで待っていたらしい。
話したいことがあるのだと、暗に彼女はそう言った。
「――お前達はあいつのことをどこまで知っている?」
単刀直入にアレクは訊ねた。だが二人は苦笑すると首を横に振った。
「正直に言えば、何もわからん」
「あの子が拾われて来てから見てきた事実以外には何も分からないんだよ」
「そうか……」
「あんたはどうなんだい。ちょっとは何か聞いてないのかい?」
逆に訊かれたが、アレクとしても苦笑するしかなかった。
「暁の事件で何があったかということくらいだな。あとは――ああ、七つ違いの実の兄がいて、これが大変な心配性だと」
「へぇ……面白いねぇ。どっかで聞いたような人物像じゃないか」
「まったくだ」
三人で声を潜めて笑い合い、それからふと真顔に戻る。
しばらくの沈黙が落ちた。
「――落ちてきたのがこの国で良かった――と言っていたな、あいつは」
なんとも意味深長な言葉だ。
「そのことなんだが」
飲み切った小瓶の蓋を閉めて懐に戻しながらクレメンスが言った。
「ザックが妙なことを言っていた」
「妙なこと?」
「ああ。彼女を保護したときの状況がな」
トリス近隣の森で魔獣討伐を終えて戻ろうとした矢先、ふと空間が揺らぐような奇妙な感覚に襲われたのだという。その直後、それまでなかったはずの気配を近くに感じ、その場所に足を向けたところ――茂みの中に倒れているシオリを見つけたということだった。
旅人らしからぬ衣装に手荷物の一つも満たず、履いている靴は片方だけ。そんな女が森の中に突然現れた。
「当然怪しく思って周辺を調べてみたが――人の出入りした形跡は何一つ見当たらなかったそうだ」
「……何一つ?」
「ああそうだ。倒れていたなら当然その場所に至るまでの痕跡が残されているはずだ。にもかかわらず人間や馬の足跡、馬車の車輪痕に至るまで――半径十数メテルの範囲に、その場所に侵入したと思しき痕跡は何一つなかったそうだ」
まるで、空から突然降ってきたかのようにそこにいたとザックは語ったという。
「……そんな馬鹿な話があるものかいとも思ったけれどねぇ、仮にも――第二王子付きの武官だったあいつが調べたんだよ。間違いはないんだろうね」
市井に下らなければ、いずれは諜報活動を担う騎士団情報部を纏める立場に就いていただろう男が調べたのだ。そこらの酒酔いの戯言とは訳が違う。
アレクは唸った。
「そこへもって――『落ちてきた』、か」
空から降ってきたかのようだというザックの証言を裏付けるような、シオリの言葉。
「それにねぇ……連れてこられたあの子自体にも気になることがいくつかあってね」
ナディアがちらりと毛布に包まって眠るシオリに目を向けた。ルリィがそのそばに広がって眠っているのが見える。
「着てた服がね、見たこともない素材でできてたのさ」
「見たこともない? お前でも知らない素材だったのか?」
ナディアは繊維産業が盛んな旧リトアーニャ王国の出身だ。紡績工場や織物工場をいくつも経営していた家で育ち、その分野の知識に精通している彼女にも分からない素材で作られていたという。
「ぱっと見はシルクのようなんだけどね、光沢とか手触りがどうも違ったんだよねぇ……後で聞いたら人工繊維だとかなんとか言ってたけど、あの子も専門家じゃないから詳しくは分からないみたいでね」
その後、彼女の手で大切に保管されていたそれらの衣類は暁の事件の最中に人手に渡り、紛失してしまったということだった。
「おまけにあの子の手もねぇ、今でこそ手荒れで痛々しいもんだけれど、初めて見たときは白くてふっくらしてた上に爪まで綺麗に手入れされててね。貴族のお嬢様とは言わないまでも、市井育ちの女の手とは思えないくらいに状態が良かったんだよ」
それに加えてシルクに見紛う生地で作られた、女家庭教師のような清楚な衣装を身に纏っていた。それゆえに、遥か遠い異国の貴族夫人の侍女かお話相手を務めていたのではないかとも思われていた。
しかしこれもシオリ自身に否定された。故国では市井で事務仕事に携わる職業婦人であったという。しかも身に着けていた衣装は故国では一般的な仕事着であったというから驚きだ。
どちらにせよ、ただひとつ分かったことは、高度に文明の発達した国から来たのだろうということだ。
問題があるとすれば、それがどこにあるのか――彼女自身が説明できないことだった。地図上のどこにも存在せず、そして二度と手の届かないところにあるという――そう、それではまるで――。
「……本当に、天界から来たみたいじゃないか」
誰からともなしに、シオリに視線を向けた。その彼女が微かな吐息とともに寝返りを打つ。艶やかな黒髪に縁どられた寝顔がこちらを向いた。
――穏やかな、寝顔。
「――お前が訊いてみたらどうだ。案外教えてくれるかもしれんぞ」
言いながらもクレメンスの口元には苦い笑みが浮かんでいる。
「なら逆に訊くが――お前なら訊けるか?」
どこから来た、何者なのか、と。そう問えるのか。
彼も、ナディアも、苦みの濃い笑みを浮かべたまま静かに首を振った。
「……訊けないな。言いたくないのなら、言えない事情があるのだろう」
「無理に聞き出して、これ以上辛い思いはさせたくないからねぇ……」
二人とも、己と思うことは同じなのだ。
今彼女が見せている、この穏やかな顔を悲しげなものに歪めたくはない。
そっと立ち上がると、眠る彼女のそばに歩み寄る。その場に膝をつき、そしてその柔らかで温かい頬に触れた。
強く優しくしなやかで、それでいてどこか儚げで謎めいた、愛しい女。
ただただ、これから先も彼女が穏やかでいられることを――願わずにはいられないのだ。
ルリィ「案の定じれったい展開に! そして出番が!!」
一角兎「美味しく焼けましたー」
ペルゥ「自虐的!」




