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家政魔導士の異世界生活~冒険中の家政婦業承ります!~  作者: 文庫 妖
第3章 シルヴェリアの塔

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26 緊急事態

 塔の屋上で催された小さいながらも賑やかな祝宴は、料理が尽きるとともにお開きになった。恋の成就と宴の余韻で未だ興奮冷めやらぬといった様子の三人は、今夜は簡単には眠れそうにないと苦笑いした。

「うーん……それじゃあ、心が落ち着くような音楽を流してみましょうか」

「落ち着く音楽?」

「ええ。ヒーリング音楽っていうんですけど。眠れないときとか、頭を休めたいときに聞いたりするんです」

 日本にいた頃、どうしても眠れないときに聞いていたヒーリング音楽。絶対的な効果があるようなものでもないけれど、試してみるのもいいかもしれない。

「へぇ……そんなのがあるの。面白そうね。でも、どうするの? シオリさんが歌うの?」

「いえ、それはさすがにちょっと……」

 ぴくりと反応して何か期待に満ちた目で振り返ったアレクを視界の端に捕らえつつ、シオリは苦笑した。

「幻影魔法の応用で流します。天幕の入り口まで失礼してもいいですか? 皆さんが横になったら中に魔法を展開します」

 孤児院の慰問で物語を聞かせるときに使っている幻影魔法『活弁映画』で再現できそうだ。あまり長時間でなければ魔力切れの心配はないだろう。

 アンネリエ達は顔を見合わせると頷いた。この際体験できることはなんでも体験して楽しんでしまいましょうと言って彼女は笑った。ブーツを脱いで楽な恰好になり、魔法灯を消してそれぞれが寝台で毛布に包まるのを待ってから、シオリは軽く目を閉じて意識を集中した。

 好んで聞いていたヒーリング音楽のCDをイメージする。

 宇宙をイメージしたデザインのジャケット。アレクの瞳のように澄んだ紫紺色の空に散りばめられた綺羅星。中に収められていた音楽は、この宇宙がテーマになっていた。

(あのCDお気に入りだったのに……置いてきちゃったな)

 貯金も、お気に入りの服も、アクセサリーも、本も、CDも、想い出のアルバムも、家族や友人でさえも――何もかもすべてをあの世界に置いてきてしまった。もう二度とこの手に戻ることはない、あの世界で過ごした二十七年の人生で手に入れた宝物――。

(――いけない、集中しないと)

 閉じた瞼の下から一筋の雫が零れ落ち、慌てて幻影魔法に意識を戻す。

(そうだ、せっかくだから映像も付けよう)

 体内に巡る魔力を練り上げ、天幕内に幻影魔法を展開した。天井にプラネタリウムのような星空を投影し、シンセサイザーで奏でるゆったりとした音楽を流す。

「うわぁああ……」

「綺麗……」

 溜息交じりの歓声が上がった。それからあとは声もなく「箱庭の星空」を眺めている。ふわりふわりと揺蕩うような音で奏でられる柔らかで幻想的な音楽に身を委ねているうちに、眠気に誘われたようだ。まずバルトが寝息を立て始め、次にデニスが、そしてこの不思議な空間を創作の題材にしようとでも思ったのか、最後まで頑張って目を開いていたアンネリエが――す、と静かに目を閉じた。やがて聞こえる微かな寝息。

 どうやら幻影魔法によるヒーリング音楽は成功したようだ。

 そして三人が完全に寝入るのを確めてから、そっと幻影を解除した。

 ――幼馴染の三人組。このうちの二人はいずれ結婚して家族になり、そしてもう一人は一緒になった二人をこれから先もずっと見守っていくのだろう。そうして新しく始まる生活の中で、彼らは大切なもの、得難い宝物を増やしていくのだろう。

(――私にもまた大切なものができるかな)

 あの世界に置いてきてしまったものはもう二度と手にすることはできないけれど、もし許されるのなら、また大切なものを増やしていきたい。楽しい想い出を増やしていきたい。

 ――アレクと、そして仲間達と一緒に。

「……おやすみなさい」

 頬に残る雫を手の甲で拭ってから、シオリは静かに垂れ幕を下ろす。

 ――音の全てが雪に吸い込まれていく静寂の中、こうして夜は更けていった。




 翌朝は生憎の空模様だった。重苦しく垂れこめる曇天からは大きな綿のような雪が絶え間なく降り続け、結界周りにはすでに十数センチメテルの雪が積もっていた。空調魔法で溶かしきれない雪が、結界内を少しずつ濡らしていく。

「この天気……外を歩くのはさすがに大変そうね」

 濡れないように即席で作った屋根付きの食卓について空を眺めていたアンネリエが言った。自分達だけなら強行したかもしれない天候だが、さすがに彼女達を連れて歩くには無理があるかもしれない。

「どうする。ここでもう一泊するか? とりあえず展望台まで戻るという手もあるが」

「うーん、そうねぇ……もう一度塔の中を見ておきたいし……下まで降りてから考えるわ」

 アレクの問いに、デニス達と少しの間話し合ってから彼女は答えた。まだ食料は十分に余裕がある。もう一晩滞在しても問題はない。

 熱々のオニオングラタンスープと、バルトのリクエストで作った棒付きパンで朝食を終えると、野営地を解体して手早く荷物を纏めた。捌いた一角兎の肉を受け取り、丁寧に保存袋に包んで背嚢にしまい込む。出発の準備を整え、装備に問題がないかを互いに確かめ合った。

「……昨日の帝国人だが」

 支度が終わるのを待ってアレクが確認のために切り出すと、アンネリエは苦笑して見せた。

「ええ……まだいるのよね?」

「残念ながら……と言えばいいのかどうかわからんが、まぁ、いるな」

 皆でなんとも言えない表情になった。あの帝国人達の気配に動きはない。時折中をうろついているようではあったけれど、上層階や下層階に移動する様子は見られなかった。もう退くことも進むこともできなくなったのだろうか。

 脳裏にあのすっかり草臥れてやつれた彼らの姿が過ぎった。

「どのみち、もう一度様子を見てみないことには何もわからないわね。歩けるようなら連れていってもいいし、万一もう動けないようなら……」

 彼女はそこで言葉を切った。

 胸の奥になにかじわりと嫌なものが滲み出たような気がして、シオリは無意識に胸元を抑えた。

 ――動けないなら、置いていく。

 迷宮で力尽きて、置いて――。

 光さえ届かないあの暗い場所と冷たい床の感触を思い出して足元が震えた。あれだけ頑張ってきたのに最後はこんな場所で死ぬのかと、薄れる意識の中でそんなふうに思ったあの日の記憶――。

 と、アレクの手が肩に置かれた。そしてクレメンスとナディアの気遣うような視線。足元をルリィがそっと叩く。皆心配してくれているのだ。

 何度か大きく深呼吸する。

「……大丈夫」

 囁くと、彼の眉尻が少しだけ下がった。本当かとでも言いたげだ。

「大丈夫。だって、アレクがいるもの」

 この人がいれば大丈夫。それにルリィも、クレメンスもナディアもいる。心強い仲間達だ。だからきっと、大丈夫。

 じっと見下ろす紫紺の瞳が、僅かに細められる。彼は頷いてくれた。

「……置いてはいくけれど、その代わり応急処置をして、あと少しだけ食料を分けてあげましょう。そして街に着いたら騎士隊に通報するわ。冒険者は自己責任とはいっても、一応は遭難者になるのだし」

 あとは騎士隊がいいように取り計らってくれるだろう。もっとも救助したあとは鉄格子付きの医療施設に押し込まれることにはなるだろうが。何しろ、展望台の損壊――公共物破損罪に加えて場合によっては傷害未遂だ。従っているだけらしい二人はどういう扱いになるか分からないが、少なくとも魔導士の男は何らかの罰が与えられるだろう。

「……よし。では出発しようか」

 アレクの号令で昨日と同じ隊列を組み、階下へと続く階段を降りていく。

 塔の内部は昨日と変わるところは特になく、時折襲ってくる魔獣を片付けながら出口を目指した。

 回収できる素材の中でも特にアンネリエの興味を惹いたものは、資料として持ち帰ることにしたようだ。いくつかを大切そうに保存袋に詰めていた。あまりに気味悪いものは保管に困るからとデニスが断固として持ち帰りを許可せず、アンネリエは渋々ながらもスケッチだけで済ますことにしたようだった。

氷蛙(イス・グロダ)の毒腺欲しかったわ……あんなグロテスクなものはそうそう手に入らないわよ」

「どこに保管するんだそんなもの」

「厨房の保冷庫を借りるわよ。ナマモノだし」

「冗談でもやめろ」

 屋敷に戻るまでは砕けた口調でいることにしたらしいデニスとアンネリエの、恋人同士でするものとは到底思えない言い争いに皆で苦笑する。

 そうして時折他愛のない雑談をしながら先に進み、螺旋階段を伝って三階に下りたまさにそのときだった。

「……あ」

 魔素の揺らぎを察知してシオリは声を上げた。続いて衝撃音。アレクやナディアと目配せし合う。足元のルリィがぷるんと震えた。

「魔法……」

「使ったな」

 帝国人に動きがあった。魔法を使用した気配。戦闘が始まったのだろうか――否。この階層は全体に強力な魔獣除けの結界が設置されているはずだ。基本的に魔獣の出没はない。だとすれば、その結界の効力が及ばない強敵が入り込んだか。

「……だが、それならその魔獣の気配がしてもいいはずだ」

 アレクの指摘どおり、強力な魔獣の気配は感じられない。

 不穏な空気に、アンネリエ達は顔を見合わせて不安げにしている。

「なんです? 何が起きてるんです?」

「まだわからん」

 バルトの問いにアレクが簡潔に答えた。

 と、今度は何か激しく言い争う声が聞こえた。続いて再び衝撃音。大広間から伸びる長い回廊の方からだ。

「俺が様子を見てくる。皆はここで待機していてくれ」

 アレクがそう言ったそのとき。


 ドォン!


 激しい衝撃音が鳴り響いて塔が揺れる。男の絶叫と女の甲高い悲鳴が聞こえた。それと同時にザァ、という激しい水音。何か生臭い、そう思った瞬間、回廊から大量の水が溢れ出した。

「なんだっ!?」

「きゃあああっ!」

 見る間に迫りくる水流。咄嗟に土魔法を展開して石材を成形した防御壁を作り、ナディアが氷魔法で凍結を試みたが、防ぎきれなかった水流の一部が一行を襲った。

「シオリっ!!」

 アレクに抱え込まれ――そして視界が、瑠璃色に染まった。

ルリィ「ごぼぼぼぶべばばば」

大蜘蛛「スライムは溺れないんでは」

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