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家政魔導士の異世界生活~冒険中の家政婦業承ります!~  作者: 文庫 妖
第3章 シルヴェリアの塔

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24 うつりゆく無垢の風景(3)

書籍化記念SSは移動しましたのでそちらからどうぞ。

「……純粋無垢かぁ」

 一角兎を捌くクレメンスの手元を興味深く眺めていたバルトが、塔からの風景を見下ろしている二人にふと視線を移し、そしてぽつりと呟いた。

「ただ絵の題材を見に行きたいってだけじゃないだろうなとは思っていたけど……これはいよいよ決着をつけるつもりなのかなぁ」

「決着……ですか?」

 どういう意味だろうか。視線で問うと、バルトは人のよい笑みを浮かべた顔をへにゃりと崩してほんの少しだけ困ったような表情を作った。

「デニスはロヴネルの血筋ですが、ほんの少しだけ帝国の血も混じってるんですよ。それに叔父――ああ、あいつの親父さんなんですが――の代で貴族の系譜から外れたので、そのことでアンネリエ様のそばに侍るのを良しとしない連中に、まぁ……色々言われてきたもんですから」

「……そうだったんですね」

 旧態依然とした前時代的な――大陸のほとんどの国では廃止されて久しい奴隷制度さえ未だに残されているドルガスト帝国の人間を、蛮族として疎む者は多い。

 トリスヴァル領のように一時期帝国領土だった歴史を持つ地域などでは、混血やその末裔、そして亡命者が多く暮らすためにそれほどでもないようだけれど、血統を重要視する一部の貴族階級ではこれを忌避する傾向が少なからずあるらしい。

「……なるほどな。要するに、純国民でも貴族でもないからアンネリエ殿のお相手には相応しくないと言いたいわけか」

 周囲を警戒しながらもアレクが苦笑した。笑うというには苦みの成分を多く感じさせる笑みだ。

(そういえば、アレクは私生児で居辛くなって家を出たって、兄さんが言ってたっけ)

 いつだったかザックから聞かされた、二人が実家を出ることになった経緯。

 アレクとザックがどういった事情で私生児として生まれたのかは分からないけれど、その立ち居振る舞いや教養の高さからは育ちの良さが感じられた。裕福な家か貴族か――どこか良い家の出を思わせる二人。そんな家で私生児という立場ではさぞ生き辛かったのではないだろうか。

 周辺諸国に比べればストリィディアは随分と自由な気風らしいのだけれども、それでも家格や血筋を重んじる風潮は根強い。

 混じりもの。純粋ではないもの。

 たとえ本人に何の害はなくても、血筋や出身を理由に爪弾きにされることは少なくない。私生児や異邦人が苦労するのは日本でも同じだろうが、物の考え方がかつて暮らしていた世界の近代かそれより前の水準にあるこの世界ではなおさらだろう。

 自分だってそうだ。最近はほとんどなくなったけれど、トリスに来たばかりの頃はそれで随分と苦労したものだった。国内でも特に珍しいとされる東方風の外見が理由だ。

(それにストリィディア人じゃないどころか、この世界の人間ですらないし……)

 どこか浮世離れしていると言われたことは一度や二度ではない。

 ちらりとアレクを見ると、彼と視線が合った。いつもは強い光を宿している紫紺色の瞳が、どこか頼りない。

(アレクもきっと嫌な思いを沢山してきたんだろうな)

 以前寝込んだ時の彼の魘されようを思えば、それは多分日本という温室育ちの自分からは想像もつかないほどのものだろう。

 皆に気付かれないように、そっと彼の手に触れた。その瞳が僅かに見開かれ、すぐに柔らかく細められる。案ずるなとでも言うように。

 温かく大きな手がシオリの背に添えられ、何度か撫でるように往復してから離れていった。

「ロヴネル家の伝統を重んじるならば、あいつほど婿に相応しいのもいないんですけどね。元々当主の婚姻には血筋や家柄なんかは重要視されてないんですよ。一般的な貴族家のやり方で慣れた人達にとっては中々受け入れがたいというのはわかるんですが」

 バルトはこちらの様子に気付かなかったようだ。寄り添って何か語り合うアンネリエとデニスの背を見つめたまま苦笑いする。

「――それにしても、気付いてたんですね、あの二人のこと」

「そうさねぇ」

 ナディアが妖艶な唇の端を釣り上げて笑った。

「あいつ、世話好きにしてもちょっと度が過ぎてたしねぇ。買い物中だって、伯爵様のお召し物を選ぶのに随分と悩んでたんだよ」

 二着まで絞り込んで悩んでいたという彼は、結局そのどちらも買ったのだ。片方は経費で仕事用に、もう片方の少しだけ装飾の多い方は外出用に、自費で。

 最初は世話好きの母親のようだとも思っていた。けれども『あの方のためなら出来うる限りのことはして差し上げたい』と、そう言いながら甘やかに口元を綻ばせたデニスと、そして自分で描いた彼の肖像画を愛しそうに見つめていたアンネリエのことを思えば、二人が想い合っていることなど明白だった。

「それで気になって伯爵様の方も観察してたら――やっぱりねぇ、ふとした拍子にあいつを見つめてることが多かったからね」

「ナディア……」

「……姐さんってば」

 さすがというべきか、仕事中に依頼人の色恋沙汰を観察していたらしい。シオリはアレクやクレメンスと顔を見合わせて苦笑した。

「まぁ、『ありのままに』を信条とするあの二人は結構分かりやすいですからね。それをよく思わない人間は確かにいますが、それでも明け透けで飾らない彼らを慕って応援している者は結構多いんですよ。だから」

 主人と同僚――幼馴染の二人を見つめるバルトの瞳が優しい光を宿した。

「――うまくいくといいなぁ、あいつら」



 白い雪景色に映える温かな色合いの赤毛。優しい勿忘草色の瞳。この美しい二つの色彩を、どれだけ自分だけのものにしたいと思ったことだろう。

 アンネリエはどこか緊張した面持ちのデニスを見上げ、そしてその瞳をじっと見据えた。

「デニス。貴方はとても優秀な部下よ。秘書官としてだけではなく、ロヴネルの名に群がる鬱陶しい人達から私を護ってくれた。貴方だって色々思うことはあったでしょうに、私の我儘で引き留めてしまって……今まで本当によく働いてくれたわ。でも、それも今日で終わりにするつもり。私もいい歳だし、貴方もずっとこのままというわけにはいかないでしょう」

「……アニー」

 デニスは一瞬目を見開き、それから酷く動揺した。勿忘草色の瞳を揺らめかせながら、相当な無理をしてぎこちない笑みを浮かべる。

「では、いよいよ俺はお役御免ということだな。ようやく……婿を取る気になったのか」

 血の気の引いた彼の、唇の端が震えている。

 アンネリエは微笑んだ。

 本当に、分かりやすい人。今日で終わり、そう告げただけでこうまで動揺してくれるのか。

「ええ、そうよ。婿を取るわ。デニス・ロヴネル、貴方を」

 息を飲み目を丸くしたデニスとの間にあった僅かな距離を詰め、その左胸にそっと手を当てた。冬の装備を重ね着した上からでは鼓動は分からなかったけれども、それでもその息遣いは感じられた。

「私、貴方が好きよ。成人したあの日に言うつもりだったのに、貴方は言う前に遮ってしまったけれど……もう十五年も前からずっと好きだった。私の絵を好きだと言ってくれた貴方が好きだった。ロヴネルの娘としてではなく、ただのアンネリエとして私を見てくれた貴方が好きだった」

 嘘偽りない自分の気持ちを飾らない言葉でそのまま伝えれば、彼は一瞬赤くなり、それから何か言いかけて――その言葉を飲み込むように、くっと喉を鳴らしてから目を閉じる。

「……アニー。お前の気持ちは嬉しいが――俺は、それに答えることはできない」

 絞り出すような、ひどく掠れた声。予想していた言葉だけれども、はっきり言われてしまえばやはり胸に刺さる。

(――でもここからが勝負よ)

 この先に進むために自分はここに来たのだから。

「答えることはできないということは、私を女として見てくれてはいないのね? 少しは想ってくれているものだと自惚れていたのだけれど」

 動揺に揺らめく勿忘草色を見上げると、つい、と視線をそらされた。

「そういうわけじゃない。お前は十分魅力的な女だ。だが――」

 デニスは言いかけて言葉を止めた。何度もその先の言葉を続けようと試み、そのたびに苦しげな吐息を漏らして口を噤んだ。

「ねぇデニス。何度も出て行こうとしたけれど、引き留めればそのたびに思いとどまってくれたのはどうして? 貴方のことだから、秘書官の立場が惜しかったわけではないのでしょう。それならもしかしたらって……どうしても期待してしまうわ。はっきり言ってくれなければ私は貴方を諦められない。私に気持ちがないのなら、はっきり言ってちょうだい」

 そう言って迫ればデニスは薄い唇を戦慄かせる。視線を落として浅い吐息を漏らし、両の手は握ったり開いたりを繰り返しているその様子が、彼の内心の葛藤を如実に表していた。

 ただ一言、愛してなどいないと言うだけで事足りるというのに、そうできないのは――嘘が吐けない人だから。自分と同じようにありのままに生きることを信条とする彼は、いっそ不器用と言えるほどに嘘が吐けない人だから。

 ――本当は自分を愛してくれていることくらい、とうの昔に気付いていた。

『気取らない、飾り立てない自然体のお前は綺麗だ』

 まだ少年だった頃、そう言ってプラチナブロンドを一房手に取り、甘やかに微笑みながらこちらに向けた瞳が熱を帯びていたことに気付いていた。

 想いを告げる前に拒絶したあの日からその後も、焦がれるような瞳で自分を見ていることにも気付いていた。

 そして、時折仕事で使う品に混ぜて贈り物をしてくる彼の――そのどれもが女性らしい優美さがありながらも実用的な、アンネリエの好みに合う物ばかりのその品を身に付けた時の、あの柔らかな視線――。

 あんな視線を向けられて、どうして意識せずにいられるだろう。

 ――あのシルヴェリアの宿で、エナンデル商会で買い足したという二着の外套のうちの、袖口のふわりとした優美な意匠が印象的なオリーブ色の一着に腕を通して見せた時。

(あの時、恥ずかしくなるくらいに熱っぽく私を見ていたこと……貴方自身は気付いていなかったのでしょうね)

 ただ忠誠心があるだけの女主人に向けるにしては、あまりにも熱量の多い視線。

 あんな視線を向けられて、どうして自分には気がないのだと諦めることができるだろうか。

「さぁ、私を諦めさせて。私を女として見てはいない、あるのは忠誠心だけだと――」

「忠誠心だけなものか!」

 畳みかけるように言いかけた言葉に、デニスの叫ぶ声が被さる。

「ただの忠誠心だけで中傷に堪えてまでこんなに長く仕えたりするものか! 俺はお前を愛している。貴族でもない帝国の血混じりの俺を友人だと言ってくれたお前がずっと好きだった。爵位を継いでも変わらないまま俺をそばに置いてくれたお前が好きだった。色眼鏡では見ない、俺を俺として見てくれるお前が子供の頃からずっと好きだった! お前が俺を好いてくれていることにも気付いてたさ! だが!」

 目を丸くして立ち竦むアンネリエを前にして一息に思いの丈を吐き出してから、彼はぐっと拳を握りしめた。

「――だが、どうしても言えなかった。伯爵家の名と財産目当ての男だと思われたくなかった。ロヴネルの名を目当てに父に近付いた帝国の売女の息子だと――死んでまで事あるごとに悪し様に言われる母の名をこれ以上汚されたくなかったし、それに……妻と子を捨てて異人と駆け落ちするような男の息子と一緒になることでお前の名誉を傷付けるばかりか、将来生まれてくる子供にまで嫌な思いをさせることになるかもしれないと思うと――どうしても言えなかった」

 母と自分が味わった苦い思いを己の妻や子にもさせるなど、到底我慢できることではなかった、と。

「こんな俺でもそばに置いてくれるお前に嘘は吐きたくなかった。だから、お前の気持ちを聞かなければ俺も答える必要がなくなるだろうと……卑怯にもそう思ったんだ」

 だからあの十六歳を祝った夜会の日に先手を打って遮ったのだと、彼はそう言って俯き、そしてひどく歪な笑みを浮かべた。

「俺はお前を愛している。だからお前の気持ちは嬉しい」

「……デニス」

「だが言っただろう。父の代から貴族ではなくなったし、薄まろうがなんだろうがドルガスト帝国の血が混じっているのは逃れようのない事実だ。おまけに俺には、一人の女への愛さえ貫き通せなかったあの男の汚れた血が流れている。たとえ俺がロヴネルの婚姻の条件を満たしていたとしても――純粋で真っすぐなお前に相応しくないんだよ」

 真情の、吐露。

 父親が起こした駆け落ち事件を理由にデニスを激しく糾弾し排除しようとした人々の心無い言葉によって、心に蓋をしてしまった彼。それまで血筋をほとんど気にかけなかったのに、ことさらに身分や血統を気にするようになった彼。

 それを見ていながら自分はあまりにも若く未熟過ぎて、どうすることも出来なかった。けれども、もう自分は非力な娘ではない。打たれて簡単に挫けるようなか弱い娘ではないのだ。

「……純粋ってなによ」

 アンネリエは笑った。

「ただ純粋で真っすぐなだけの私なんて、とうの昔に居なくなったわ」

 はっとして顔を上げたデニスに、アンネリエは微笑みかける。

「貴族社会で生きるためにはそれだけじゃやっていけないもの。不本意だけど、どうしたって姑息な手段を使わざるを得ないときだって何度もあったわ。それは貴方だってそばにいたのだから知っているでしょう」

 立ち尽くしたままのデニスは小さく頷いた。

「そもそも純粋さを保ったままでいられるものって、この世にどれだけあると思う? 私はそんなもの、無いと思うわ」

 純粋無垢とされているもの、それは確かに存在する。けれどもそれは刹那的なものだ。周囲に合わせて必ず色付き変化していくものだ。

 たとえば生まれたての赤子は何も知らない無垢な存在だけれど、成長の過程でそれは必ず失われていく。躾や教育を施されて様々なことを覚え、様々な思考をするようになる。無垢なものから周囲の環境に合わせてその内面が色付いていく。無垢ではなくなるけれども、それは生きていくために必要な、成長と呼ばれるもの。

 この目の前に広がる純白の雪景色にしたってそうだ。降り積もったばかりの今は穢れのない白だけれど、やがて冬が終わって解け出せば、泥と混じり合った土の色になる。汚いと思う者もいるだろう。だけどそれは次の季節を迎えるために必要な過程だ。解けて大地を潤す水となり、そして緑が芽吹き色とりどりの花が咲いて、景色が色付いて行く。

 自然界に存在する全てのものは、純粋無垢であり続けることなどできない。それは人であれ、動物であれ、植物であれ、この景色そのものであっても同じことだ。

 万物はうつろいゆくもの。人もまた年月を経て変わりゆく。それこそが、あるべき自然な姿――アンネリエの愛する、ありのままの姿だ。

「ねぇ、どうしてロヴネル家は婚姻に血筋を重要視しないと思う?」

「……領地運営及び芸術活動の充実と発展、存続が最重要だからだろう」

「ええ、その通りよ。その二つを健全に遂行し、そしてより良いものにするためには広い視野と柔軟な発想が必要だわ。身分だとか家柄や血筋にこだわって似たような世界しか知らない者ばかり寄せ集めていたのでは、始めは良くてもいずれは澱んで凝り固まってしまう。それはもう健全だとは言えないわね。時代に合わせて変化することもまた、大事なことだと思うの」

 だからこそ血筋を重要視しなかったのだ。それゆえに、ロヴネル家の数百年に渡る歴史の中で、幾度か庶民や移民が当主の伴侶として迎えられている。そう、既にロヴネルの嫡流そのものが庶民や移民の血混じりなのだ。

「純粋な血統の維持だとか純血主義なんて、少なくともロヴネルにとっては無意味だわ。だって、そもそもロヴネル家の初代がこの国の生まれではないのだもの。流れ者だったそうよ」

 嫡子が代々受け継いできた、ロヴネル家に関する記録。残されていたそれは古く、正確にどこの生まれであるかは記されていなかった。ただ、建国から間もない頃に海を越えた土地から流れてきた旅の歌い手だったとだけ。

 ――ロヴネル家の祖は元々詩人であったと伝えられている。自由気ままに諸国を旅し、その土地の美しさやそこで生きる人々の姿を、己が見て感じたままに詩にして歌い、そして伝えていく吟遊詩人。

「――初代は異人だった? 宮廷詩人だったとは聞いていたが……」

 ロヴネル家の起源の真実を初めて知ったデニスは目を丸くした。

「ええ、記録ではそうなっているわ」

 歌を耳にした王に気に入られて宮廷詩人として迎えられ、やがて小さいながらも気候の良い美しい土地を与えられてこの国に根を下ろした初代は、領地を愛し、そこに暮らす領民を愛した。領民の暮らしをより良いものにするために、国内外の新しい技術や手法を取り入れることを厭わなかった。

 晩年は、伝統を重んじつつも新しいものを取り入れて発展した領地を眺めながら、詩を作って過ごす日々であったという。うつろいゆく領地の景色を眺めて楽しんでいた、彼。

 元は複数の土着民族の族長一族であった王侯貴族によって治められていた建国当初のこの国では、余所者だった初代はさぞ暮らしにくかっただろう。それでも美しい土地を愛し、領民に混じって働き、そして長く過ごすうちに受け入れられるようになったに違いない。だからこそロヴネル家は長く栄え、歴史の古い名門として今この国に在るのだ。

「初代は余所者だった。でも、この国の民と同じようにこの国を愛していたのだわ。貴方もそうでしょう、デニス」

 たとえ余所者の血が流れている、無垢ではない混じりものなのだとしても、その精神はこの国とロヴネルに在る。

「……ああそうだ。俺は生まれ育ったこの国を愛している。この気持ちは理屈でもなんでもないんだ。誰が何と言おうと――俺はこの国で生まれて育ったこの国の民だから」

 だからこそ、帝国の血混じりであることに傷付けられた。傷付けられて、何度も挫けそうになりながらもアンネリエのそばを離れなかったのは愛情からだけではなかったと、その複雑な思いをデニスは吐き出した。

「惚れた女が護る家と治める土地をつまらない連中の好きにさせたくはなかった。生まれ育った美しい自由闊達な気風のロヴネルの街を、ただ貴族主義に凝り固まり、利権に群がって貪ろうとするような無粋な輩に踏みにじられたくなかったんだ」

「デニス……」

 アンネリエは溢れる想いを抑えきれずに微笑んだ。

 ああ、やはりこの人は理想の人だったのだ、と。

「その気持ちこそロヴネル家に必要なものだわ。当主(わたし)を好いてくれるだけではなく、ロヴネルの家も、その領地も全て愛してくれる貴方だから――」

 彼に寄り添い、そっと額をその胸に押し付ける。

「一緒になりたいの。貴方と一緒にロヴネルの家と領地を護りたいのよ、デニス」

「……アニー」

 デニスの両手が躊躇いがちにアンネリエの背にまわされ、抱き寄せる寸前で空をさまよい、止まる。

「……だが俺と一緒になれば、お前も批判は免れないぞ。今だって無いわけじゃないだろう」

 若手の女流画家としてもてはやされる一方で、陰では揶揄する声があることは知っていた。見目は良いが身分の低い男を侍らせている、初恋を拗らせた年増女、と。

 あながち間違いでもないのだけれどと思いながら、アンネリエは笑った。

「勿論私だって人間だもの、嫌な言葉を浴びせられて傷付くこともあるわ。でも、貴方と一緒になったことを後悔することは絶対にない。私を口さがない人達から護ってとも言わない。私のために耐えてとも言わない。困難は一緒に戦うの。それが夫婦というものでしょう。理想論かもしれないけれど、でも――私はこれから先の人生を、貴方とともに戦いながら生きていきたい」

 それは偽りのない本心だ。

 迷いのないアンネリエの言葉にデニスは目を見開き、それから天を仰いで目を閉じて――そして口元を苦笑いの形に緩めた。

「――降参だ」

 寸前で止められていた腕が、今度は遠慮なくアンネリエの腰にまわされた。ぐっと引き寄せられる。

 背後で歓声があがった。あの声はバルトとナディアだ。

「俺のためにこんな危険な場所まで来る覚悟をしてくれた上にここまで熱心に口説かれて、これで求婚を受けなければいくらなんでも男が廃るな」

「……じゃあ、受けてくれるのね?」

「ああ、勿論だ。これから先の人生をお前と共に生きると誓う」

 迷いのない言葉。

 十五年越しの恋の成就に胸が満たされていく。美しい赤色と勿忘草色が、心のキャンパスを塗りつぶしていく。

 彼を見上げて爪先立ち、そして――迷うことなく唇を重ねた。薄くて少しだけ温度の低い唇の、でもその吐息は温かくて。

 柔らかに溶け合う唇の感触を楽しむうちに、腰に回された片腕が離れて首の後ろに添えられ、舌先が口内に差し入れられた。貪るような口付けと交わる吐息に夢中になったけれども、それでも人前だったのだと互いに思い出して、名残惜しく思いながらもそっと離れる。

 絡み合う視線はやがて、どちらからともなく目の前に広がる雪景色に向けられた。

「――この景色、また見に来たいな。今度は雪解けの頃に」

 無垢な白が解けて、春を迎える土の色に染まる頃に、もう一度。

「ええ、そうね。私も見たいわ。でも」

 悪戯っぽく笑って見せる。

「泥道の中を護衛してもらうのは、いくらなんでも迷惑じゃないかしら」

「それもそうだな」

 二人して顔を見合わせて笑い、それから再び雪景色を見つめた。

「……親父のこと」

「え?」

 雪景色から視線を外さないまま、デニスがぽつりと言った。

「親父のことに、少し向き合ってみようと思う」

「おじ様の?」

 家庭を捨て、異国の女と駆け落ちした挙句に死を選んだという、デニスの父親の。

 何度か会ったことがある彼の父親は気取らなくて豪胆で、さっぱりとした気質の男だった。仕事にも家庭にも真摯に向き合う、気持ちの良い男だったと記憶している。それだけに、あの心中事件が与えた衝撃は相当なものだった。

 あの事件以来、少年ゆえの潔癖さと父親に対する嫌悪感から、父親に関する話全てに耳を塞いできた彼。一時期は冒険者組合(ギルド)にも冒険者にすらも近付きたがらなかったその彼が、あの事件に向き合おうとしている。

「理解も納得も出来ないかもしれないが、それでもなぜあんなことをしたのかだけでも知っておきたいんだ」

 当事者は全て故人だから分からないことの方が多いかもしれないけれど、冒険者組合のロヴネル支部に何か記録が残されているかもしれない。

「……そうね。それがいいわ」

 きっとそれも、デニスが前を向いて生きるために必要なことだろうから。

 もう一度見つめ合い、そして軽く触れ合うだけの口付けを交わしてから、背後を振り返った。

 もう一人の幼馴染が駆け寄ってくる。そして冒険者達もまたそれに続いた。その顔のどれもが優しい笑みを浮かべていて――アンネリエもまた、恋人と視線を交わして微笑み合った。




 ――この数年後。

 女流画家アンネリエ・ロヴネルは、連作「うつりゆく無垢の風景」を発表した。シルヴェリアの塔から臨む四季の風景を瑞々しく鮮やかに描いたその作品には、完全なる無垢は存在せず、時の流れの中で無垢ではないが尊いものへとうつろいゆく、それがありのままの美しい世界なのだという想いが込められていたという。

 貴族の純血主義に対するアンチテーゼではないかとも言われて物議をかもしたものの、物事の本質、真の美しいものを描いたこの作品は高く評価された。

 国を代表する画家のひとりとして後世まで名を残した彼女の、代表作のひとつである。

ルリィ「レリゴ~」

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