21 塔の魔獣
「おや……連中はここまでは来てなかったみたいだねぇ」
四階の入り口から数メテルほど離れた場所、通路を覆い尽くす銀青色の植物。蔓が絡み合って床や壁面に複雑な文様を描き出していた。生い茂る葉の合間に、ごく淡い薄紅色に色付いた薔薇のような可憐な花が見える。一見すると優美な蔓性の植物だ。
けれどもその実態は、単なる植物と油断して通り過ぎようとする獲物を触手のように伸びる蔓で捕らえて養分にする、なんとも悍ましい植物系の――吸血野茨と呼ばれる魔獣だ。この規模で生い茂っているということは、それなりの期間ここで生育していたということだ。少なくともここ一、二ヶ月は誰も通っていないことの証。
「茨……? こんな場所にも植物が生えるのね」
「植物のように見えますが、あれでも魔獣なんですよ」
そう教えると三人の目が丸くなって、シオリはくすりと笑った。
(きっと私も最初はこんな顔したんだろうな)
ナディアに連れられて初めて森の探索に出た時も、随分と驚かされたものだった。歩く茸に踊る巨大花、獲物を求めて蠢く蔓草……。そのどれもが少し見ただけではその辺りに生える植物とほとんど変わらないだけに、しばらくは街中の植物ですら動き出すのではないかと酷く臆病になったものだ。
「へぇ……どう見ても植物なのに魔獣ですか。うっかり近付いてしまいそうですねぇ」
「実物を見るのは初めてだが、魔獣だとはにわかに信じがたいな。花もまた繊細で美しい」
「それが奴らの手だからな。油断して近付いた獲物を捕らえて養分にするんだ。多分根元を探せば肥料になっている奴がまだいるんじゃないか」
苗床にされた獲物はゆっくりと時間をかけて養分を吸われていく。その養分を吸い尽くすまでに、新たな肥料となる獲物を求めてこうして待ち構えているのだ。
「う……見た目とは裏腹になかなかえげつない」
離れた場所から眺める分には清楚で美しい野茨だ。
生け捕りにして観賞用にと目論んだ貴族がどこぞの国にかつていたらしいが、屋敷内に繁殖して家族や使用人が犠牲になる大事件にまで発展したこともあったらしい。
「人生の終わりが植物の肥料だなんて、御免だわね」
アンネリエの意見に思わず頷いてしまった。
「さて……ここを通るなら焼き払うのが一番だけど、良いかい?」
「少し下がるまで待て。巻き込まれたらかなわん」
ナディアが前方に利き手を掲げると、クレメンスが後続の者達に下がるよう合図した。
「……あんた……あたしをなんだと思ってるんだい。そんな下手うちゃしないよ」
「念のためだ、念のため」
長年一緒に仕事をしてきた仲らしいけれど、過去に痛い目に遭ったことがあるという噂のクレメンスは、時々こうしてナディアが魔法を使う時には妙に慎重になることがある。余程酷い目にあったらしい。
ナディアは不満げに美しい弧を描く眉を上げて見せてから、火の魔法を放った。塔に影響が出ない程度に火力を抑えた炎の壁が、生い茂った吸血野茨を焼いて行く。花や葉が見る間に変色して粉々の灰になり、それでもしぶとく残った蔓を蠢かせてのたうつ様子はなかなか悍ましい光景だ。けれどもそれもしばらくすると床に落ちて小さく痙攣し、やがてぴくりとも動かなくなった。
「……根元で養分になってるのって、人間じゃないですよね?」
粉々の灰と萎びた枯草のようになった蔓が散乱する通路を眺めてバルトが青い顔をする。
「塔での捜索願は出ていないがな……確かめてみるか?」
仮に犠牲になった者がいたとしても、吸血野茨の肥料になった挙句にこの寒さではどのみち無事ではないだろう。魔獣の犠牲となった者は、原因となった魔獣を殺し、躯が残っていればその場で弔うのが何よりの供養だと言われている。
「……黒焦げではあるが、幸い人間ではなさそうだ。魔獣だろうな、これは」
吸血野茨の死骸の根元らしき場所を調べていたクレメンスがそう判断し、アンネリエ達はほっと安堵の息を吐いた。シオリも思わず同じように短く溜息を吐いて、アレクに苦笑いされてしまう。
するりと近付いたルリィがちょいちょいと死骸をつついてから、触手を左右に振って見せた。警戒色にもなっていない。もう安全だという合図のつもりなのだろう。
事切れた吸血野茨の残骸の中を、怖々と首を竦めながら歩くアンネリエ達を前後から護りつつ先に進む。
「……クレメンスさんて、姐さんの魔法に何か嫌な想い出でもあるの? 火魔法使う時だけ随分警戒してるみたいだけど」
「ああ……若い頃にな……」
ひそひそと囁くようにアレクに訊くと、彼は凛々しい顔を微妙な苦笑いの形に歪めた。
「ナディアは昔から魔力が高かったが、あの頃はまだ手加減が下手でな。戦闘中に援護のつもりで放った火炎球の威力が強過ぎて、前衛で戦っていたクレメンスの髪を焼いたことがあったんだ」
アレクが遠い目になる。
「……幸い火傷には至らなかったが、とりあえず焼けた部分をナイフで切り落としたら……こっちも素人なんでな……まるで修行僧のような髪型に……」
「うっ……」
修行僧と言うと、何度か神殿や孤児院で見かけたことがある。
その頭は襟元から上に向かって三分の二ほど刈り上げられ、まるで鬘を上に乗せたように頭頂部に髪を残したような……ツーブロックと言えば聞こえは良いが、いわゆる坊ちゃん刈りと言った方が近い髪型だ。小さな子供なら可愛いかもしれないけれど、大人がやったら正直かなり微妙な髪型だ。
その時はさすがに気の毒になり、手布でバンダナ代わりにして隠してやったそうだ。街に戻ってから問答無用で床屋に連行したというから余程だったのだろう。見られるレベルにまで全体を短く切り直してもらい、髪が伸びるまでは騎士見習いのような短髪で過ごしたそうだ。
「あいつには言うなよ。いまだにああして警戒するくらいショックだったらしいからな」
「うん、言わないよ。いくらなんでも」
あの滴るような美形が、坊ちゃん刈り。
危うく想像しそうになり、シオリは脳裏に一瞬だけ浮かび上がった姿を慌てて打ち消した。多分、クレメンスのためにもそれが良い。
二人してなんとも言えない微妙な表情をしつつ、仲間達の後ろを歩いた。
その後も何匹かの魔獣と遭遇したが、やはりアレク達の敵ではなかったようだ。あの帝国の冒険者と遭遇したことを除けば、ここまでの道程は順調だとも言える。
「やっぱり、下の階層とあんまり差は無いわね。小部屋にも見るべきものはもう無さそうだわ、さすがに」
四階の最初の二部屋を覗いたアンネリエはそう判断し、後は真っすぐ屋上を目指すように言った。
途中の小部屋で昼休憩を挟み、昨日よりは多少時間に余裕があるからと、お手製携帯食を熱湯で戻した温かいオニオンスープと、トマトソースと削ったチーズを乗せて軽く炙ったバゲットを振舞った。
探索中に食べるにしてはちょっとしたご馳走に、バルトはにこにことご機嫌な顔でスープを啜っている。デニスは例によってシオリの調理中べったりとそばに張り付き、携帯食に大変な興味を示して質問攻めにして困らせた挙句にアレクとアンネリエに引き剥がされていた。それを見てナディアとバルトがけらけらと笑い、クレメンスが苦笑を浮かべる。
旅の二日目にして、それぞれのおおよその立ち位置が決まったようだった。
温かい食事で英気を養った後は、再び塔の探索を続けた。
時折出てくる魔獣を始末しつつ、五階に踏み込み、先に進む。四階、五階ともに、下層階とほとんど変わらない造りだった。命の危険が無い程度の試練だったというのはどうやら本当らしい。あまり複雑化して出られないようなことがあっても困るのだろう。
そうして五階の最深部、屋上へと続く階段まであと僅かというところで、今までとは多少様子の異なる魔獣の姿を目にして一行は足を止めた。
「お……一角兎か」
「……の、変異種のようだな」
一角兎と言えば小麦色の毛皮に純白の角が特徴だが、目の前に現れたのは全身が雪のように真っ白の個体だった。その目だけがルビーのように赤く輝いている。体長は一メテルほど。通常種より多少大きい程度だろうか。
その巨大な兎は赤い瞳を細めると身を屈め、鋭い牙を剥き出しにして肉食獣のような唸り声を上げた。
「変異種というと、やっぱり強いの?」
やや緊張気味なアンネリエだったが、ナディアが落ち着かせるように微笑んで見せた。
「強くて素早い上に、かなり血の気の多い奴だけどね。大丈夫、よっぽど油断しない限りは危険は無いよ」
巨体に見合わない素早い動きで攻撃を躱し、鋭い角や牙で襲い掛かって来る変異種の一角兎は、A級でも迅速な動きが苦手な冒険者ならそれなりに手こずるかもしれない。
でもこちらには素早さと正確な攻撃が自慢の双剣使いや、瞬時に高威力の魔法を放てる上級魔導士、それに、立派な体躯を生かした重量がありながらも素早い攻撃が得意な魔法剣士がいるのだから、何の心配もない。
「私がやろう。護りは頼む」
クレメンスが双剣を引き抜きながら前に出る。
「ああ、任せた」
彼の意図を察して邪魔にならないように皆で後退した。
多分クレメンスは、毛皮と肉の確保を考えているのだろう。素早く繊細な攻撃ができる彼なら、内臓を潰さずに止めを刺してくれるはずだ。
「バルト殿。良かったな、若い個体だから肉の熟成は短時間で済むぞ。今仕留めて捌けば明日の夜には食べられる」
アレクの台詞にバルトが喜色を浮かべた。
「えっ本当ですか!? いやぁ嬉しいなぁ。兎肉の熟成って何日もかかるものだと思ってましたよ」
「普通の獣肉と違って魔獣肉はそれほど熟成に時間は要らない種類のものが多いんだ。魔素を強く帯びているせいではないかとも言われているが、詳しいことはまだよく分からんらしい。雪狼のように、熟成に一ヶ月以上かかるような例外もあるしな」
「へぇ~」
バルトの一角兎を見る目付きが、魔獣を見るものから食材を見るものに変わった。
「……なんだかバルトだけ旅の目的が違う気がするわ……」
「同感です」
呆れるアンネリエに、手帳に何か書き記しながらデニスが肩を竦めた。
三人の様子を見て笑いつつ、明日の夕飯の献立を考える。手持ちの材料でできて、なおかつ全員が楽しめる兎料理と言えば、やはり煮込み料理だろう。
「じゃあ、明日の夕飯は一角兎のシチューかトマト煮込みにしますか」
「うわぁ、豪勢だなぁ。楽しみですね!」
「焼き物も美味しいんだよねぇ」
「ああ、わかります。兎肉の独特の香りがそのまま楽しめるのがまた良いんですよね」
「そうだね、香草焼きにするとまたこれがいいんだよ」
「姐さん……」
肉好き同士で会話が盛り上がってしまっているのは放っておくことにして、一角兎と対峙するクレメンスに視線を戻す。
いつものように、戦いの中でそれぞれの役割を果たしながら動いている時は、仲間の戦いぶりをじっくり見ている暇はほとんど無い。だから、これは一対一の戦いを観察できる貴重な機会だ。
クレメンスは双剣を構えて腰を低く落とし、一角兎が仕掛けてくる前兆を即座に見抜いて一気に間合いを詰める。
振り上げた双剣が頭上の鋭く長い角の根元を薙いだ。この魔獣の得意とする突き攻撃は、万が一にも当たれば肉を貫通し、掠っただけでも肉を抉り取っていく怖ろしいものだ。毛皮と肉を質の良い状態で得るためには、攻撃の有効範囲が広いあの角を先に落とした方が良いと判断したのだろう。
流れるような動きで魔獣の死角に入り、即座に斬り付けては離れて間合いを取る。よく手入れされて磨き上げられた鋭い双剣が正確に同じ場所を斬り付ける。四度目の攻撃で根元から折れた瞬間、感嘆の声が漏れた。
「凄い……綺麗な動き。剣舞みたい……」
優雅な舞いにも見えるその戦い方は、クレメンスの滴るような美貌と相俟って、まるで猛々しくも美しいとされる戦神のようだった。
「……そうだな。あいつの美貌もそうだが、あの戦いぶりを見て惚れる女も多いらしいぞ」
「やっぱりそうなんだね。でも、あんなに素敵なのにお付き合いしてる人は見たことないけど、凄くストイックな人なのかな?」
何故かどことなく不安げな顔で言うアレクにそう返すと、彼は今度は不味い物でも食べたような複雑な表情になった。
「お前……」
「?」
「……あいつ……本当にこれっぽっちも気付かれてなかったんだな……」
「え? 何?」
「……なんでもない……」
適当にはぐらかされて首を傾げるが、アレクは呟いた言葉の意味を説明する気はないらしかった。続きの言葉は無いまま、彼はクレメンスに視線を戻す。
「……そろそろ終わるぞ」
角さえ落としてしまえば、クレメンスにとって障害が無くなったも同然。主な攻撃手段を失って僅かに動揺する素振りを見せた一角兎に迫り、わざと攻撃を外して見せた。
クレメンスの思惑通り、隙ができたような形になった彼に一撃を食らわせようと、後ろ足で立ち上がって前足を振り上げた一角兎の胸元ががら空きになる。急所が剥き出しになった。
クレメンスは微かに笑うと、その隙を逃さず体勢を瞬時に整えて間合いを詰めた。右腕の剣が急所に埋まる。瞬間、一角兎の身体が大きく痙攣した。それでも一矢を報いようとしたのか、前足がぴくりと動いた。それを見逃さず、今度は左腕の剣を急所に突き立てる。
殺意に満ちていた赤い瞳の光が失われ、その身体は後ろ向きに倒れていった。
アンネリエ達が歓声を上げ、中でなるべく大声を出すなと忠告されていたのを思い出したのか、慌ててその口を押さえている。
クレメンスは躯から引き抜いた双剣の血糊を払って鞘に戻すと、僅かに乱れた前髪をかき上げながら、ふ、と短い息を吐いた。
「凄いわ……今の戦い、全部描き出せるかしら」
興奮し過ぎて顔を紅潮させているアンネリエをデニスが宥める。
バルトは許可を得てから恐る恐る一角兎の躯に近付いた。
「はぁ……見事なもんですねぇ。でもこれ、どうやって運ぶんです? 結構な大きさですけど」
「そうだな……できればアンネリエ殿が屋上から見られる景色とやらを見ている間に捌いてしまえればと思うが……差し支えなければ屋上の隅を借りて、そこで捌きたいな」
「そうですねぇ……じゃあ、何人かで一緒に運びますか?」
雪熊に比べれば遥かに軽いとは言え、それなりの重さはありそうだ。すぐ向こうに屋上への階段が見えているけれど、二、三人がかりで運ぶにしても幅が狭く、多少は難儀しそうだ。
そんな風に思っていると、ちょいちょいとルリィが足元をつついた。
「ん、なあに?」
ルリィはぷるんと震えてから、一角兎に近寄っていく。
「……もしかして運んでくれるの?」
訊くと、頷くようにして再びぷるんと震えた。それからしゅるりと一角兎の下に潜り込んで、その躯を持ち上げる。ついでに、落とさないようにくるんと体内に巻き込む気の使いようだ。
「おお、やりますねぇルリィ君……じゃあ、頼んでも良いかな?」
バルトの言葉に、ルリィは任せろと言わんばかりに触手を左右に振って見せた。
「じゃあ、行きましょうか。ああ、楽しみだわ」
アンネリエが期待に顔を輝かせる。
この旅の目的地、シルヴェリアの塔の屋上。
一行は屋上へと続く狭い階段を、クレメンスを先頭に順番に上って行った。
ルリィ「クレメンスが残念なのか格好良いのかよく分からん回」




