さよなら、飽きちゃったパパ
パンを食べ終わると、ママが和室に僕の布団を敷き始めた。
「午後はこっちで寝てちょうだい。ママ達は寝室で荷物の片づけをするから」
ママの顔が少し赤らんでいる。
「うん」と頷き、僕は痛む右足ではなく左足から椅子を降りて、敷かれた布団の中に潜り込んだ。
枕に頭を乗せてからママを見る。ママは歯を磨いており、僕と目が合うと、「ちょっと待っててね」と、口をゆすぎに台所へ向かった。
新しいパパは相変わらず僕への興味を示さずに、ソファに寝転んで週刊誌をせわしなく捲っていた。
「お待たせ」
僕の布団脇にママが寝そべり、胸の辺りを布団の上からぽんぽんと優しく小突いてくれる。その規則的なリズムと少し肉付いたママの艶体から醸成される甘い香りが心地良く、寸刻の間もなく僕は眠りに落ちていた。
僕は夢を見ていた。新しいパパが、ママに平手打ちをしている。
(ママ……)
僕は呻き声をあげた。
新しいパパが、蛇のような縦長の瞳孔でママをねめつけて、腕を高く振り上げた。
パンッ
弛緩した肉片同士がぶつかり合う弾音が響めいた。
「止めて。もう止めて!」
僕は絶叫しながら布団から跳ね起き、目を覚ました。
窓いっぱいに広がる安物のレースカーテンが、傾き始めた陽の刺光を薄っすら遮っており、どこか物寂しかった。ママが恋しくなった。閉じられていた和室の襖を引き、居間を覗く。居間は暗く、テーブル上には齧りかけのリンゴが影をなす事なく転がっていた。ソファ下には、表紙のよじれた週刊誌が無造作に投げ置かれていた。
(もうお仕事に行っちゃったのかな?)
僕は玄関の方に目を向けた。短い廊下の途中に設けられた中扉が閉まっていた。すりガラスが格子状に嵌め込まれているそのレトロな中扉に近づき、静かに開けた。
すると、ママの寝室からくぐもった声が聞こえてきた。何を言っているのか分からない。ママの他に新しいパパの声も聞こえるが、こちらも興奮した犬のような声とも息ともつかず、余計に分からなかった。
寝室のドア前へと足を運んだ。何かがぶつかり合う鈍く弾んだ音がリズミカルに聞こえてくる。その音をかき消すように耳に入るママの喘ぎ声。新しいパパの激しい息遣い。僕は頭から血の気が引いた。夢に現れた映像が脳裏をよぎる。
(ママを助けなきゃ!)
僕はドアノブに手をかけ、勢いよくママの寝室のドアを開けた。
「ママ!」
裸の新しいパパがママに覆いかぶさり、ギョッとした顔で僕を振り向く光景が目に跳び込んできた。
何故裸なのかという疑問は生じなかった。ただ、ママがベッド上で、新しいパパに押し倒されている。このままじゃ、また、ママが殴られてしまう。
僕は拳を力強く握り、体ごと新しいパパに突っ込んだ。
が、新しいパパをどかすどころか、逆に、僕の体はあっけなく床に吹き飛ばされた。
体当たりの衝撃で足首を強く捻ったが、痛みを感じる余裕はなかった。
「痛えなっ! てめえ何すんだ!」
新しいパパが、野生味溢れる獰猛な目つきで僕に向けて怒鳴った。
僕はベッド下でその目を見返しながら、「ママを助けにきた」と、声に力を込めて口にした。
「は?」
新しいパパからは、気の抜けただらしない声が返ってきた。
それを見ていたママは、毛布を自身の豊かな胸の辺りにまで引っ張り上げて上半身を起こすと、片腕で僕を抱き寄せた。
「ありがとう。わたしの小さなボディーガードくん」
ママは横を向くと、新しいパパに素早く片目をつぶっていた。
「あ、ああ……」
新しいパパは、尚も煮え切らない表情を浮かべながら立ち上がり、脱ぎ捨てていた紺色のトランクスを荒々しく拾い上げて穿いた。そして、僕の顔に敵意ある一瞥をくれ、いつの間に飾られていたのか、三面鏡ドレッサー上に置いてある大口を開けた鷲鼻の男の仮面を摘かみ取り、力いっぱい部屋脇のゴミ箱に向けて投げつけた。
僕の右足首は、昼よりも更に赤く腫れあがっていた。
「あらあ、これじゃあ幼稚園は当分無理そうね」と、ママが新しい湿布を貼り直す。
暫く幼稚園に行けない事に、僕は、正直、胸を撫で下した。今日はあまりにも辛い1日だった。中でも、けいた君の顔を思い描き、踏みつけようとした罪悪感。
人生で初めて味わうこの罪悪感に僕の心は鋭敏に反応し、精神的な疲弊を感じていた。暫くは外の環境に接触することなく自らの殻の中に閉じこもっていたかった。
ようやく緊張の糸がほどけると、急に寒気を覚え始めた。
自分の体を支えるのが億劫に感じ、ママに体重を預ける。
「どうしたの? 甘えん……」
僕の手を握ったママは、はっとしたように僕の額に手をやった。
「熱い……」
ママは僕を抱き上げ、急いで和室の布団に寝かせた。その足で台所へ向かう。再び救急箱が開けられる音がした。
細めのブラックスーツに着替えた新しいパパが、ママに声をかける。
「ん、どうしたんだ?」
ママは水銀の体温計を振りながら、「熱が高そうなのよ」と、僕の布団脇に座り、ひんやりとした体温計を脇の下に挟み込んだ。
「ちょっとこのままじっとしてて」
水銀が上昇していく様子を見つめるママ。
新しいパパはぼんやり立ったまま、そんな光景を傍観していた。
「やだ。40度超えてる」
「そりゃ高いな」
新しいパパは、ようやく僕に興味を持って近づいてきた。反対に、ママはスリッパを響かせて浴室へと向かう。
「あっちいなあ」
何気なく僕の額に触れた新しいパパは、思わず手を引っ込めた。
ママは水を入れた洗面器と手拭いを持って戻ってきた。新しいパパに、「ねえ、そこの救急箱に入ってるバファリン取って」と声を掛けながら、洗面器に手拭いを浸す。
「これか?」
長細いバファリンの箱が横たわる僕に向けて投げられ、枕脇の畳上に軽い音を立てて落ちた。
「飲み水も」
ママは浸した手拭いを絞ると、僕の額の上に畳んで置いた。
新しいパパは、「はいはい」と面倒臭そうに呟き、のそのそと背を屈め、キッチンボードの中に収納されているコップに手を伸ばした。
「幼稚園にはママから連絡しておくわ。暫くお休みよ」
ママがバファリンの箱から薬剤を取り出した。
少し遅れて、新しいパパがコップになみなみと注がれた水を持って来た。
熱で頭がぼやけてくる中、僕には口にするかどうか迷っている言葉があった。
(ママは今夜お仕事休んでくれるの?)
今夜独りにされるのは心細かった。
今夜はママがそばにいて欲しかった。
思い切って訊こうと思い、僕は口を開いた。
すると、
「お夕食におかゆを作っておくから、食べてから寝てね」と、ママが立ち上がりながら、穏やかな口調で僕に言い含めた。
「……」
僕は、僅かに開いていた口をゆっくり閉じた。そして、枕上の頭を小さく動かして頷いた。
せめてママの手を握りたくて、布団の中からもぞもぞと自分の手を出す。
しかし、ママはそれさえも気付かずに、「あ、もうこんな時間」と居間の時計を見ては、いそいそと寝室に行ってしまった。
既に僕への興味を失った新しいパパは、テーブルで週刊誌を気ぜわしく捲っている。
パラパラ……パラパラ……
捲られる紙の音が、心地よく耳に響く。
パラパラ……パラパラ……
僕の意識があっという間に遠のいていった。
僕の寝息に気付いた新しいパパが、「もうこいつ眠っちまったよ」と独りごちるのが、意識の遥か彼方で聞こえた気がした。
結局、熱と右足首の腫れが引くまで3日かかった。
幼稚園を水、木、金曜と休んだため、登園は来週からとなった。
土曜日の朝。だいぶ歩けるようになり、久しぶりに家の中を徘徊してみた。
ママの寝室に入ると、ママのつけるフローラル系の香水の匂いを感じた。が、同時に、どこか野生的な匂いもした。
観音扉が開かれたままのクローゼットには、ママの色とりどりのレディーススーツやコートと共に、男物のスーツも吊るされていた。飽きちゃったパパが着るスーツよりもかなり細身で、ブラック系の色で統一されている。近づくと、まだ嗅ぎ慣れていない匂いのためか、僕は思わず鼻をそむけた。
居間に戻る途中、思いがけず浴室に目がいった。
そう言えば、発熱して以来風呂に入っていない。自分独りでできるか不安だが、服を脱いで浴室に入った。
覚束ない手つきでシャワーヘッドを片手に持ち、赤色の蛇口を捻る。勢いよく飛び出る水が段々とお湯に変わってくるのが、立ち上がる湯気から分かった。触ってみるとかなり熱い。僕はママがやっていた動作を思い出しながら、青色の蛇口をちょっぴり捻ってみた。暫くそのままにして、再び手で触ると、程良い温度だった。僕はそのお湯を胸にかけ始める。お湯はボタボタと浴室の床を穿つように落ち、さながら、太鼓がみすぼらしい音を立てているようだった。次にシャワーヘッドを頭上に持ち上げ、頭からお湯を浴びた。前髪を額に貼りつかせながら流れ落ちるお湯が、鼻根で二股に分かれる。そのお湯は、それぞれ口角を掠めながら、やがて顎先で合流し、一直線に床へと落ちていった。
気持ちが良かった。蓄積された心の疲労や悲しみが、洗い流されていくようだった。
僕はシャワーを止めるため、お湯を体から離し、青色、そして赤色の順で蛇口を捻った。
赤色の蛇口を捻る際、キュッと高い音が鳴り、現実に戻った気がした。
僕のバスタオルの隣には、グレーの大柄なタオルがかかっていた。なるべくそれに触れないよう自分のを手に取り、髪をゴシゴシと拭き始める。頭部から水滴が落ちてこなくなったところで、首、胸、腹、背中、ちんちん、おしり、足の順番で、タオルを各部位にあてるように拭いた。背中が一番難しかった。
(自分独りでシャワーを浴びられた!)
嬉しくて、僕はママに報告したくなった。
――ママ、独りでシャワー浴びたよ!
――あら、そう。じゃあ、今度からは、独りでお風呂に入ってもらおうかな。
(嫌だ! まだ、ママと一緒にお風呂に入りたい!)
僕は報告しない事にした。
せっかくなので、新しいパンツとシャツを箪笥の引き出しから出した。
ズボンは下から2段目、トレーナーなどの上着は一番下の段だ。
カーテンを開けると、澄んだ空に2本の筋状の雲が大地に突き刺さるように縦に浮いていた。
ガチャ
玄関のドアノブが動いた。
(ママだ!)
反射的に、僕は玄関を見た。
チャカチャカと、何か細く硬い棒で鍵穴をほじくる音。それと連動するように、ドアノブが右へ左へと小刻みに動く。
「くそっ、うまくいかねえなあ」
(!)
背筋にひやっとしたものを感じた。
飽きちゃったパパの声。鍵穴に何かを執拗に差し込み、ドアノブを回すことを試みているようだ。
もしもこのドアが開いたら?
新しいパパの細身のスーツやバスタオルを見られたら?
居間から5メートル程度の距離にある玄関先での音が、ドアを間に挟んでいるにも係わらず、耳元で立てられている音のように感じた。
僕はその場にしゃがみ込み、手で耳を塞ぎ、目をつむった。
「っだあぁぁぁぁっ!」
ドンッ
鬱積された癇癪を、そのまま体現する声と蹴り音が聞こえてきた。
「おいっ!」
(!?)
「いるんだろ? パパだよ」
僕は蹲った状態で瞼を開いた。
だが、玄関先に目を向ける事はできなかった。膝先がガタガタと震えだす。
「パパだよ。頼むよ、開けてくれよ。帰るところがないんだよ」
飽きちゃったパパの哀愁を帯びた野太い声が、スチール製のドアを隔てて聞こえてくる。心臓までもがその鼓動を意図して慎んでいると思えるくらい、僕は身じろぎ一つできなかった。
尚も、声が掛けられる。
「なあ。もう殴ったりしねえから、開けてくれよ」
強引にドアノブを回す音が再び聞こえた。
顔が強張る。高まる恐怖心。声を出せば解放されるのか?
だが、そうすると、更なる恐怖が僕を待ち構えている気がした。
「オイ、いい加減にしろよ!」
再びドンッと、ドアが蹴り上げられる。
(……)
僕は決心した。声を出さない――そして、絶対に、ドアを開けない。
ドアを蹴る音が、激しさを増してきた。ドアが歪む程に何度も蹴り上げられる。
「オイ、コラァ!」
「くそっ!」
「いい加減にしろよ、この野郎!」
投げつけられる言葉も辛辣さを増してきた。
哀愁を帯びていたはずの声は、研いだナタのような、重い凶暴さを前面に曝け出していた。
「ぶっ殺すぞ、早く開けろ!」
僕は黙って耐え続けた。
震える膝を抑えるため、体育座りの姿勢で、膝を両腕でがっちりと抱き止めた。
聞こえてくる言葉数が段々と少なくなってきた。代わりに、はぁはぁと激しい息遣いが漏れてくる。
そして――ドアへの衝撃音が止んだ。
乱れた呼吸音のみが聞こえてくる。暫く小康状態が続いた。
「……。馬鹿野郎。血の繋がった親子の縁なんざ、こっちから願い下げだよ」
ドアに唾が吐きかけられる音がした。
やがて、玄関先からゆっくりと遠ざかっていく重い足音。その残響音は幾ばくかの寂寥感を残しつつも、いつしか消え入るように聞こえなくなった。
僕は脇の下に手をやった。今度は湿っていなかった。乗り越えた。そんな達成感が、丹田の奥深くからむくむくと湧き上がってきた。
「さよなら」
気付くと、僕は小さく呟いていた。