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あこがれは水面に消ゆる  作者: 七海和希
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嘘だっ!

 足を引きずりながらも、家にはたどり着けた。

 新品の鍵でドアを開ける。部屋の中の空気がすうっと僕の鼻腔をくぐった。漂っている匂いが、昨日までのとは違うように感じた。

 もし、ママがこの部屋の匂いに飽きたら、匂いを変えるのかな? 引っ越すのかな? 

 何故かそんな疑問を覚えた。思わず自分の腕を鼻先に押し付けて、匂いを嗅いだ。

 ママに飽きられないだろうか? 微かな胸騒ぎを覚えた。


 台所に行き、乾きものの食材が詰め込まれた引き出しを開けて、隅っこにある20センチ四方程の木箱を取り出した。絆創膏、体温計等が入っている救急箱。折り曲げられて、窮屈そうにしまわれていた湿布を手に取る。飽きちゃったパパに殴られた後、よくこうして湿布を貼っていた事を思い出した。

 湿布の保護フィルムをぺりりと剥がし、自分の足首に巻く。ひんやりとした感触が足首を覆った。ごろりと横になる。床もひんやりしていた。




 どれくらい眠っていたのだろう。玄関のドアノブが、ガチャガチャと乱暴に回される音がした。

 やがて、ドンドンとドアが叩かれる。


「畜生! 鍵替えやがったな」


 ドアが蹴り上げられ、ドアノブごとドアを引きはがそうとする音がした。

 僕は、黙ってそんな音を聞き続けた。

 やがて、「くそっ」と吐き捨てられた低い声と共に、団地の外廊下を足早に去っていく靴音が聞こえては、遠くへ消えていった。

 

 僕は脇の下に違和感を覚えた。

 触ると、滲み出た冷たい汗でシャツがぐっしょり濡れ、脇の下にじっとりへばり付いていた。




 ママと新しいパパとは、程なくして帰ってきた。

 新しいパパは、両手に大きな紙袋を提げていた。心なしか、僅かにその手が震え、顔色も青白んでいる。

 ママは、湿布を巻いている僕の足首を目にすると、あら、なんで? という表情を作り、湿布を軽く捲った。


「少し腫れてるわ、どうしたの?」


「お外で捻っちゃったの」


 ママは救急箱から使い古しのよれて黄ばんだ包帯を取り出し、湿布の上からくるくると僕の足首に巻き始めた。

 新しいパパは僕の怪我には無関心で、紙袋の中からお菓子やタバコのカートンを取り出しては、神経質そうにテーブル上に揃えて置いていた。


「今日1日横になっている方がいいわ」


 ママは、僕の体を重たそうに抱き上げると、ママの寝室のベッドに寝かせてくれた。

 抱き上げられた時、ママの首筋の匂いを嗅いだ。少しタバコ臭い。が、まぎれもないママの匂いに心安らいだ。


 お昼ご飯はパンだった。駅前のパチンコ屋の2軒隣にある、こぢんまりとしたパン屋のパン。

 ママは自分の分を半分にちぎり、僕にくれた。

 新しいパパは猿のように背を丸め、黙々とパンを頬張っていく。

 新しいパパはどういう人なのだろう? 

 お仕事は何をしているのだろう? 

 僕はふと興味が湧いた。


「パパは、パンが好きなの?」


「あん?」


 新しいパパは面倒臭そうに僕を一瞥した。

 

「まあな。手っ取り早いし」と、早口で答えた新しいパパは、摘まんでいたパンの最後のかけらを口の中に放り込んだ。


「パパはどんなお仕事してるの?」


 今度は少しだけ間が空いた。

 新しいパパの腕がすっと伸び、僕の背を強めに叩いた。


「……。サラリーマンだよ」


(嘘だ!)


 路上で会ったおばあさんの掌の温もりを思い出しながら、僕は心の中で叫んだ。






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