右足に冬の冷たさ
ここに居続けると、たけし君のお母さんに再度会ってしまう気がしたので、僕は園舎内のトイレに行くことにした。
事実、尿意を覚えていた。
園児用の登園口で靴を脱ぎ、靴下のまま廊下の一番端っこにあるトイレへと向かう。途中には職員室があった。引き戸が完全に閉まっていないため、近づくにつれて先生達の声が漏れ聞こえてくる。
きょうこ先生の声だった。
「さっきさあ、歌の最中に突然泣きだしちゃってね」
胸にチクりとした痛みを感じた。僕の事を話している。
「やっぱさあ、あんな親に育てられちゃあ、情緒不安定になるよ」
別の先生の声。多分、さゆり先生だ。
僕は地蔵のようにその場で固まった。頬が強張っていくのが自分でも分かった。
『情緒不安定』の意味は分からない。が、『あんな親』という表現は、僕の心に鈍痛の響きを伴って届いてきた。
(ママのこと?)
踏みしめて立つ足に震えを感じる程に、僕は思い乱れそうだった。
(とにかく、ここから去ろう)
僕はよろめくように、一歩前へと足を踏み出した。その時、
ミシリ
突如として大きい音が床からあがった。
(ご臨終スポット!)
職員室の空気が揺れ動く気配を感じた。体中の汗腺から汗が噴き出る感覚に陥る。
職員室の引き戸が内側から滑るようにスーッと開かれると、きょうこ先生が顔を出した。僕と目が合う。「あっ」という狼狽の声を抑えるように、先生は口に手を当てた。
僕は、咄嗟に、何も聞こえなかったかのように短パンの股間部分を手で押さえ、「おしっこ。おしっこ」と連呼しながら、そんな先生の脇をミシミシと床音を踏み鳴らして走った。
トイレではおしっこがよく出た。
体内に溜まった感情を吐き出すように、少し黄色がかった液体が男児用の陶製小便器を勢いよく穿つ。
僕はおしっこをしながら、先生が言及した『あんな親』の意味するところを考えていた。
(ママは『あんな親』じゃない。飽きちゃったパパだ。『あんな親』は、飽きちゃったパパなんだよ)
事実、飽きちゃったパパは『あんな親』と表現できる程に、僕をよく殴り、つねった。
先日、顔に痣が残ってしまい、とうとう近所の人から児童相談所に通報が入ったらしく、職員が面会に訪れた。
――ぼうや、そのお顔の痣はどうしたの?
――お友達に叩かれたの。
――ぼうや、その腕の青たんはどうしたの?
――転んだ時にお砂場の縁にぶつけたの。
――ぼうや、太腿が内出血してるじゃない。どうしたの?
――ぶらんこで遊んでる時にぶつけたの。
こんな想定問答を、僕と飽きちゃったパパは何度も繰り返していた。
それがため、実際の面会で、僕は質問に難なく答えられた。練習の成果を発揮できるため、むしろ僕はウキウキと質問に答えたぐらいだった。
だが、そのウキウキがまずかった。
児童相談所の職員が帰ると、僕は飽きちゃったパパから、「もっとさりげなさを装ってしゃべれ」と頬をつねられた。それでも飽き足らないのか、今度は、「誰が児童相談所にチクりやがったんだ」と暴れ始めた。
修理したばかりの玄関脇の壁には、蹴りによる穴が再びぽっかりと空いた。
4歳の誕生日に作成した手形粘土がフリスビーのように居間の上空を飛び、窓にあたって粉々に割れ落ちた。
喚きながら、手当たり次第に壁を蹴りまくる飽きちゃったパパ。その姿をソファの後ろから縮こまって盗み見ながら、僕は、ママが帰宅しないことを願った。今、ママがこの場に出くわすと、ママまで蹴られそうな気がしたからだ。ママには余計な心配をかけさせたくなかった。
やがて、飽きちゃったパパは暴れてすっきりしたのか、薄っぺらい長財布を手にして、ネオン輝く夜の町へと消えていった。
今夜はもう帰ってこないだろう。いや、今夜どころか、もう二度とこの家には帰れないのだ。
暫くの間、僕はトイレでちんちんを出したまま、つい先日の事を思い返していた。飽きちゃったパパにもう会えない事を寂しく感じる一方で、『あんな親』に会わなくて済む安堵感が僕の心の中にはじわりと広がりつつあった。
と、ふいに、右のふくらはぎから足首にかけてほの温かさを感じた。
うん?
足下に視線を送る。
真っ黄色の液体が微かな湯気を立てて、僕のふくらはぎに降り注がれていた。それが下へ下へと伝い、僕の靴下を濡らしている。
(おしっこだ!)
僕が驚いて振り向くと、たけし君がちんちんを出して僕の背後に立っていた。
僕のより太いちんちんをぶるっと振るわせて、ズボンの中にしまう。僕と目が合うと、たけし君は、「きったねえ~」と言い放ち、トイレから悠々と出ていこうとした。
廊下では、たけし君のお母さんが口角を歪め憎らし気に僕を睥睨していた。その隣では、園長先生が唖然とした表情で立ちすくんでおり、僕と目が合うと、重たい空気を察知したのか気まずい表情になり、やがて、上ずった声で「ああ。そうだ。あれを頼まれていたんだ。では、お母さん、私はこれで」と、たけし君のお母さんに対して深く腰を屈め、いそいそと去っていった。
たけし君のお母さんは、トイレから出てきたたけし君の頭をひと撫でした。そして、何事も無かったように、たけし君の手を引いて廊下を歩きだした。
おしっこをかけられた足下に冬の空気の冷たさを痛感した。
僕は濡れた右足の靴下を脱ぐと、大便器の中に放り込んだ。躊躇なく『大』のレバーを引く。ザーっと勢いよく流れる水が、僕のお気に入りだった新幹線のプリント柄靴下を一瞬で飲み込んだ。
職員室へ続く廊下を歩いていると、再びきょうこ先生に出くわした。先生は一瞬たじろいだ表情を見せたが、僕は気にせずに、「頭が痛くなったから帰らせて下さい」と申し出た。
先生は「お家に連絡してみるから、待っててね」と言い、聖域の職員室へ戻った。
園庭では、少し疲れた園児達の遊び声があちらこちらで海鳴りのように響いていた。そんな声が僕には重たく感じられた。
暫くすると、先生が職員室から顔だけを出して、「ママお家にいないみたいね」と告げた。
「僕、独りでも帰れます」
僕は、先生が困った顔をする前に、続けて言った。
「いつも独りで帰っているので、大丈夫です」
先生は仕方なく納得した素振りを見せると、「じゃあ、教室から自分のカバンを持っておいで」と指示してくれた。
ほっとした僕が、回れ右をして教室の方へと歩き出すと、「あれ? 右足の靴下どうしたの?」と先生から声がかかった。
僕は聞こえない振りをして駆け出した。