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あこがれは水面に消ゆる  作者: 七海和希
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動揺

 僕は5歳にして、夜、独りで眠る事が当たり前の子供だった。6畳の和室に小さな布団を敷いて寝る。そのため、僕の布団はいつも和室の片隅に畳んであった。

 一方、ママが飽きちゃった、パパの布団は、押し入れにしまわれていた。

 いつ帰ってくるのか分からないパパだった。朝方に帰ってくると大抵泥酔しており、ママのとは違う香水の匂いがした。

 帰宅すると、押し入れから無造作に布団を畳上に放り投げ、夕方まで泥のように眠る。気付くと、又ふらりと姿を消していた。

 そんな飽きちゃったパパだが、僕はその素の匂いが好きだった。それは香木を連想させる匂いで、風呂からあがったパパは、朝露を纏った森林のような爽やかな香りだった。それだけに、帰宅時に素の匂いをかき消すどこか淫靡な香りを纏っていることが、僕には残念だった。

 

 こんな飽きちゃったパパが使っていた布団も、近日中には捨てられてしまうだろう。そんなことは子供の僕にでも分かっていた。


 僕がママと一緒に寝られるのは週に1度だけ。ママの夜の仕事が休みの時だけだった。

 その日、僕はママのベッド(ママは、和室で布団だと眠れないため、洋室にママ用のセミダブルのベッドが置いてある)で一緒に布団に入る。

 この日が1週間で1番幸せな日だった。

 ママは、古本屋で買ってくれたウルトラマンや電車の本を、枕上で僕と一緒に見てくれる。ウルトラマンの本には、最近テレビで放映された新しいウルトラマンも載っているが、僕は昔に放映されたウルトラマンタロウが一番好きだった。以前は、ウルトラセブン派だった。が、ウルトラマンタロウがウルトラの父と母の実子と知ってからは、タロウ派になった。タロウがピンチになると現れるウルトラの父。いつもタロウを見守っているウルトラの母。僕はタロウが羨ましかった。


 電車にも幼いうちから興味があった。

 ママが、友人から譲り受けたベビーカーに1歳だった僕を乗せ、地元の線路沿いを歩いていると、タタンタタンとリズム音を刻んで電車が通る度に、僕はベビーカーをゆさゆさと揺らして喜びを表現していたそうだ。

 4歳の時には、成田エクスプレスという、東京方面と成田空港とを結ぶ電車に一目惚れした。通称ネックス。僕の地元では、JR津田沼駅周辺に行くと見られる電車。

 津田沼駅では、黄色い菜の花カラーでお馴染みの総武線各停と銀色に紺のストライプが入った横須賀線快速が停まる。これらも嫌いではないが、レーシングカーのように物凄いスピードで津田沼を疾走するネックスを見てからは、ネックスが一番のお気に入りとなった。


 そのことを、前に、飽きちゃったパパに話したところ、東京駅ではネックスよりもずっと速い新幹線が走っている、と聞かされた。確かに、どの電車の本にも新幹線は載っていた。

 ある時、めずらしく酔っていない飽きちゃったパパがソファでくつろいでいたので、新幹線に乗りたい、とお願いした。飽きちゃったパパは上機嫌だった。素の匂いとは違う華やかな香りが染みた上着を脱ぎ、僕を抱き上げ、「今度乗せてあげよう」と言ってくれた。

 だが、その約束がもう実現しないであろうことを僕は理解していた。


 飽きちゃったパパにもう会えないことと新幹線に乗せてもらえないことのどちらが悲しいのか、僕には答えを出せなかった。

 ただ一つ言えるのは、酔っぱらって暴力を振るうパパには二度と会いたくなかった。

 残念なことに、1年のほとんどの日において飽きちゃったパパは泥酔しており、足下をふらつかせ、体中から酒とタバコとママのではない香水の匂いを漂わせていた。機嫌が悪いと暴力を振るってきた。

 

 そう考えると、新幹線に乗せてもらえない方に軍配が上がるのかもしれない。





 翌朝。ママが新しい鍵でドアを開け、仕事から帰ってきた。僕は足音を響かせて玄関へと走った。

 玄関では、少しお酒の匂いがするママの後ろに、知らないおじさんが体を傾けながら立っていた。背がひょろりと高く、わりと痩せているおじさん。よく見ると、おじさんと言うよりは、おじさんになるちょっと手前ぐらいのお兄さんだった。


「新しいパパよ。ご挨拶できる?」


 僕は口をつぐんだまままま、ママから紹介された男の顔をじっと見た。

 すると、男の方から僕に声を掛けてくれた。

「今日からキミのパパだ。よろしく」

 少し早口でそう言うと、新しいパパは黒レザーのブルゾンのポケットに手を入れて、ウルトラセブンの人形を無造作に取り出した。それを僕の手に握らせ、「プレゼントだ」と呟き、僕の後頭部をママよりも荒っぽい力でポンポンと叩いた。肉食動物を思わせるようなシャープで獰猛な匂いを、僕は嗅いだ気がした。


「ありがとう」


 僕は小さな声で謝辞を述べ、微笑を浮かべた。

 新しいパパは頬肉がそげてつんと尖った顎を上下させながら、口端を斜め上方に吊り上げて満足気に頷いていた。


(ウルトラセブンよりタロウが好きな事は、黙っておかなきゃ)


 初めて会った新しいパパを表面上だけの笑顔で迎えた僕は、心の中でそう覚悟を決めた。

 ママの寝室で新しいパパが荷物を整理し始めると、僕は居間のテレビ棚の下段に置かれた5本のビデオテープを、中身が見えにくい黒いビニール袋に入れて押し入れの奥に隠した。

 5本のビデオテープのラベルには、飽きちゃったパパの字で、『ウルトラマンタロウ①』から順に⑤まで記されていた。

 一方で、棚の奥に放置されていた、ママの字でラベル書きされている『ウルトラセブン』のビデオテープを、ソファからよく見える最前列に飾るように置いた。


(これでよし)


 僕は、寝室から中々出てこない新しいパパを呼びに向かった。

 「パパ」と呼び掛ける事に抵抗を感じたので、声を掛けずに寝室を覗いてみた。

 すると、新しいパパとママとが立ったまま抱き合っていた。二人の唇は蠢き合うように重なっていた。新しいパパはママの紫色のブラウスを捲り上げ、その掌をママの胸元でせわしなく動かしていた。ママは薄っすらと開けた瞳を宙に浮かせて、今まで僕が見た事のない程の上気した顔を見せていた。ブラウスの首元が大きくずれて片側に寄り、なだらかな山の端を思わせる肩のラインに落ちそうで落ちずに留まるブラジャーの白い肩ひもが艶めかしさを感じさせつつも、むしろ、僕に冷静な判断を訴えている――そんな気がした。その場で立ちすくんでいると、僕に気づいた二人が、「あっ!」と驚慌の声をあげ、瞬時に割れるように離れた。


 ママの顔は紅潮し首の根元まで薄赤んでいた。

 取り繕うように、「喉渇いたでしょう。お店からアップルジュースを持ってきたわ」と言い、僕を居間に連れていこうとする。ちらりと新しいパパをみると、僕を射すくめるパパの瞳の奥には凶猛な光が宿っていた。少なくとも、僕にはそう感じられた。


 ママが僕をテーブルの椅子に座らせ、3つのガラスコップにアップルジュースを注いでいると、新しいパパも居間に来て、僕の向かい側の椅子に腰を下ろした。

 新しいパパの瞳は、初めて玄関で会った際の瞳の色に戻っていた。


「あなたはアップルジュースが大好きよね」と、ママは僕に声を掛けながら、自身が座る椅子を引いた。

(違うよママ。僕はアップルジュースじゃなくて、ぶどうジュースが好きなんだ)


 コップになみなみと注がれたアップルジュース。

 喉なんてこれっぽっちも渇いていなかった。が、何も言わずにコップを持ち上げ、喉を鳴らして一気に飲み干した。


「ヒュー!」


 突として、新しいパパが年齢不相応な若者っぽい歓声をあげた。僕はその顔を黙って目の端で捉えた。新しいパパは、ウルトラセブンの人形を僕に握らせた時の表情に戻っていた。


 ママと新しいパパもコップに口をつけると、一呼吸置いてから、ママが僕の事を新しいパパに紹介し始めた。


「この子はね、幼稚園では年中さんで、ちゅうりっぷ組なのよ」

(違うよママ。僕はうめ組だよ。今年まだ一回も一緒に登園してないから、去年の教室名言っちゃってるよ)


「この子はね、電車が好きで、中でも総武線が一番好きみたい」

(違うよママ。僕は総武線よりネックスが好きなんだよ。もっと言うと、新幹線に乗りたいんだ)


「この子はね、前からあなたに会いたいって言ってたのよ」

(違うよママ。新しいパパの事を聞いたのは昨日が初めてで、会いたいなんて一言も言ってないよ)


 すると、新しいパパはここで初めて「ほう」と感嘆の声をあげて頷いた。


「この子はね、あなたと同じく野球好きで、キャッチボールしたがってるわよ」

(違うよママ。僕は野球が大嫌いで、サッカーが大好きなんだ。キャッチボールなんてしたくないよ)


 新しいパパが「ほうほう」と、先程よりも色濃い喜色を浮かべて頷きを示す。


 ママからの一方的な紹介が終わると、ママと新しいパパの二人は同時に椅子から立ち上がった。


「ママ達はこれからお買い物に行ってくるから、ちゃんとお留守番しててね」


 そう言うや、二人は足早に玄関へと向かった。

 廊下に脱ぎっぱなしだったコートやブルゾンを再び羽織り、僕を振り返ることなくさばさばとドアを開けて戸外へ出た。ドアクローザーが錆びた音をあげながら、ドアが閉まっていった。


「違うよママ。僕はこれから幼稚園だから、お留守番できないよ」

 

 僕は飲み残された二つのコップを瞠視しながら、吐き出すように呟いていた。

 



 最近は12月の寒寒とした朝が続き、園児達はえんじ色の園服の上に暖かそうな子供用のコートを羽織って登園していた。

 僕にも去年リサイクルショップで買ってもらったダウンジャケットがあるが、それは行李に収納されて、押し入れの天袋に置かれたままだった。僕の背丈では天井近くの行李には手が届かないため、ママに取ってくれるよう頼んでおいたのだが、どうやら今朝も忘れられたようだ。


 仕方なく、僕はTシャツをもう1枚重ね着して玄関を出た。

 外はやはり寒かった。震える手で鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。

 が、鍵が鍵穴に入らなかった。僕は「あっ」と弾かれたように思い出し、幼稚園バッグの中から銀色の光沢真新しい鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。ぐいっと捻るとカチャリと軽い音が鳴り、ドアが施錠された。

 僕は少しだけ動揺していた。



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