最後の晩餐、最後の抱擁 そして最後の口づけ
駆けていく途中、交差点の赤信号でいったん止まった。
早く青にならないかと、信号機のまだ点灯していない歩行者のイラスト部分を見上げていると、鼻筋に冷たいものがふんわり落ちてきた。指で触ると、指先が微かに濡れた。
僕は視点を信号機からもっと上に向け、空を見た。
雪片がひらひらと舞うように降ってくる。時を同じくして、街灯が点灯を始め、ケヤキに巻き付けられていた数々の電球が光の筋を描き出すかのように灯りだした。雪がイルミネーションの光に照らされ、淡く輝きながら、まるで白い百合の花びらのように華麗に踊り降りてくる。僕はこの光景を心の底から美しいと思った。そして、今夜が『永遠』であって欲しいと、気付くと願っていた。
団地街入口では、女の子が母親に背中を抱かれながら、ひらひらと舞う雪の花弁をうっとりと眺めていた。
(ママと一緒にこの雪のダンスを見たい)
無意識のうちに僕の足は再び駆け足となり、気付けばはあはあと白い息を吐き出しながら、団地街の小径を全力で走っていた。
自分の団地棟の階段にさしかかったが、速度を緩める気にはなれなかった。バタバタと足音が響かせて一気に5階まで駆け昇り、そのままの勢いで外廊下を自分の家の玄関先まで駆けた。
自然と笑みがこぼれる。花束を背中に回した。
ドアノブに手をかけて、勢いよくドアを開けた。
驚いた事に、玄関ではママが笑顔で立っていた。
「ママ!」
「足音であなたが駆けて来るのが、よく分かったわ。それと、ケーキもありがとうね」
ママが框を越えて僕を抱きしめてくれた。雪がじんわりと溶けてしまうような、心地良い温もりの抱擁だった。暫しママの体温にくるまれた後、僕は名残惜しむようにママから体を離し、依然として背中に回したままの右手をママの前へかざすように突き出した。
「ママ、プレゼント!」
ママは目を見開き驚嘆の声をあげた。
あまりの驚きぶりに、僕の方が驚いた。
「まあ、どうして……白いバラを……」
「ママに似合うと思って、お花屋さんで買ったの」
「……」
すると、ママは透き通った涙を幾筋も頬に伝わらせながら、僕の顔を改めて愛おしそうに眺め、再び強く抱き締めてくれた。ママの頬と外気で冷えた僕の頬とがくっつき合い、頬伝いに直にママの体温を感じる。ママの首元からは、いつもの梅の花を想わせる甘い匂いではなく、手に持つバラと同じ崇高な香りを嗅いだ気がした。
僕はいつまでもこのままでいたかった。
「ありがとう。本当に、あなたは優しい子ね。ありがとう……」
ママの流した涙と僕が流した涙とが頬上で重なり合い、一つの形を成した滴となって玄関床に落ちては美しい波紋模様に染みていく。
どれくらいこの状態でいたのだろうか。
永遠を思わせるほど永くもあり、残された幸せな時間を暗示するかのように短くも感じられた。やがて、ママがエプロンで涙を拭いながら、そっと僕の耳元で囁いた。
「温かいシチューができてるわ。いっぱい食べてね」
テーブルにつくと、ママはシチューをお皿いっぱいによそってくれた。
テーブルの中央には、先程の白いバラがアンティーク調の真鍮の水差しに活けられており、その白い花弁はまるで意志を持つかのようにツンと上を向いていた。
「僕のシチュー、すっごくたくさんだ」
僕が思わず手を口にあてて破顔すると、「ママの気持ちよ」と、ママは僕の頭をしっとり穏やかにひと撫でした。
シチューからあがる湯気が一筋の煙となって、テーブル上のランプシェードから零れる小さな光に吸い寄せられていく。
シチューの甘い香りが僕の食欲を刺激した。ママもお皿によそったシチューと幾つかの扁平形のパンを持って、テーブルについた。
「さあ、食べましょう」
「いただきまぁす!」
僕が大声で叫ぶと、ママはくりくりとした目を向けながら、「まああ」と笑ってくれた。
気付くと、僕はそんなママの表情に心の底から見惚れていた。ママの顔は哀しいほどに清らかで美しかった。
ママは、品よくスプーンでシチューをすくいながら、クリスマス礼拝での僕の真剣な表情を褒めてくれた。歌う声もよく通り、気持ちが伝わるいい声だったと労われ、僕は自分が得意顔になっている気がした。
シチューを食べ終え、冷蔵庫からケーキの箱を取り出した。
「これ凄いんだよ」と言いながら、僕がテーブル上で箱を開くのを、ママも椅子からお尻を浮かせ、微笑みながら見守ってくれた。
「じゃじゃーん」
効果音を口ずさんで箱を開けた。
中からは両端が潰れたブッシュ・ド・ノエルが現れた。
思わず、「あー」と落胆の声をあげてしまった。
「走った時に、箱の中でぶつかっちゃったのね」
ママはそう言うと、台所から包丁を持ってきて、ケーキの両端を薄く切り落としてくれた。
「ほら、これで見栄えが良くなった」
「うん!」
僕は柏手を叩き、満足気に頷いた。
お皿に取りフォークで食べるケーキは、ベンチで手掴みして食べるケーキよりも各段に美味しかった。更には、ママと一緒に食べられた事、これが何よりの口福を僕にもたらした、そう今では思っている。
「ねえママ……ぎゅっとして」
僕は両腕を広げてお願いした。
「おいで」
ママが椅子を引く。
僕はママによじ登るように抱き付いた。
「まああ、赤ちゃんになっちゃったの?」
「……。うん」
ママの首元に口と鼻とをつける。いつまでもくっついていたい底無しの渇望感を覚えた。
ふと、ケーキ屋のポスターを想い出した。ママの膝上で横向きに座り、両足をだらりとさせてママに抱きつく。
ママもピンときたらしく、僕の腰に左手を回し、右手を僕の脇の下にもぐり込ませ、額に頬ずりをしてくれた。柔らかい頬の感触が心地良かった。
だが、この時、僕もママも気付いていたと思う。
――僕達は聖母子になれない
犯した罪があまりにも大きすぎるのだ。
ママが、腰に回している手の指先で、僕の臀部をトントンと小突いてくれた。
「眠くなってきちゃった」
「それじゃあ、歯磨きしてママのベッドで寝ようか」
僕はママの膝から降りて、洗面所から歯ブラシを持って来た。
ママは僕の歯を磨こうとしたが、「自分でできるよ」と、ママに成長した自分の姿を見せるように歯ブラシを自分の歯にあてがった。
ママは微笑みながら、僕が歯を磨く姿を瞼に焼き付けるように黙って見つめていた。
口をゆすぎ、ママと手を繋いで寝室に入る。僕はパジャマに着替えたが、ママは「後でお皿を洗うから」と、着替えずに布団の中に入った。
「服がしわしわになっちゃう」
そう言っても、ママは「いいのよ」と呟き、僕をその豊かな胸間に埋めるように抱き寄せた。
柔らかく伝播するママの体温に身を寄せ、柔らかなアーチを描いているママの顎先を僕はうっとりと見つめた。ママのしなやかな指の腹がゆっくり這うように、僕の頬周りを愛撫する。深い安穏の海にぷかりと浮くような心休まる境地。ママが僕の額にかかる前髪を選り分けるようにすくと、意識がうとうとと遠ざかりそうになった。時間が波間に漂うように前後に揺れ流れては、永遠を刻む間隔を少しずつ遅らせているように感じられた。
「……もう寝ちゃった?」
ママが穏やかな口調で僕に問い掛けた。
僕は首を微かに左右に動かしては、重たくなった瞼をなんとか開き、ママを見た。
僕を見つめるママの目には、深く沈んだ憂いの色があった。
「あなたにね、大事なお話があるの」
ママからの沈痛な響きを含んだ声色が控えめに僕の耳に届いた。
「何?」と、僕は掠れた声で応じた。
「本当の……ことを言うとね……、あなたは、ママの子じゃないのよ」
(!)
僕には全くの不意打ちだった。
一気に眠気が吹き飛び、胸を突かれるような衝撃で思わずベッドから背中が浮く。
「僕……ママの子じゃ……ないの?」
僕の声は小刻みに震えていた。
ママはゆっくりと首を縦に動かし、僕の不安な表情を落ち着かせるように、頬にキスをして、額に優しく掌を乗せた。
温かかった。そうしてママはゆっくりと僕の背中をベッドに戻した。
「あなたはね、パパ……帰ってこれなくなったパパと、ママではない女の人との間に産まれた子なの。あなたを産んだ本当のお母さんは……葵さんと言ってね、難産の末にあなたを産み、その夏の終わり頃、亡くなってしまったの……」
「え……」
「パパと葵さんは、結婚当初はあまりうまくいってなかったらしいの、だけど、葵さんがあなたをお腹に宿してからは、一転して、お互いがお互いを大事に思うようになったのか、仲がうまくいくようになったみたいでね、あなたが産まれたとき、2人は幸わせの絶頂だったでしょう……。それが、突然、葵さんが何かに憑りつかれたように苦しみ始め、あれよあれよと言う間に、亡くなってしまった……。ママはそう聞いてるわ。思えば、パパが、あんなにも荒れるようになったきっかけは、それが原因なのかも」
僕は黙ってママの話に耳を傾け続けた。
「ママが関西育ちなのは知ってるでしょう?」
僕はこくんと顎を下げた。
「ママ、子供の頃からよく京都に遊びに行っててね、その中でも、特に宇治が大好きだったのよ。宇治川の川べりから、川面に映る宇治橋の影を眺めては、よくもの思いに耽ってたわ。それはね、ママが大人になっても変わらなくて」
ママは、一度言葉を切った。
「葵さんを亡くしたパパは、春先だったかしら、京都の北山に癒しを求めに来たの。ママもその頃は母親を亡くしてしまっててね、心を落ち着かせようと北山を訪れた際に、パパと出会ってね。それから、パパとお付き合いをするようになり、ある時、結婚を、パパから申し込まれたの。ママはね、正直に言うと迷ったわ。だって、その時まで、パパに連れ子、あなたがいるなんて知らなかった……。それで、ママね、大好きな宇治川の畔で佇みながら、意を決してあなたの名前をパパに訊いたの。そうしたら、パパは『夕霧』と、あなたの名前をぽつりと呟いたわ。ママね、とても驚いちゃって。嗚呼、宇治十帖、源氏物語って。それから、夕霧、あなたに会ってみたくなってね、そうして、あなたを見てからパパのプロポーズを受けたわ。だけど……、どうしても一つだけ、心の底から受け入れられない事があってね」
ママは再度言葉を置いた。
僕は呼吸を忘れていたのか、急に息苦しさを覚え、深く息を吸った。
「『血』なのよ。血の繋がっていないあなたから、『お母さん』って呼ばれることに抵抗があってね、哀しい女の性なのかしら、お勤め先のお店で呼ばれているように、『ママ』……と、あなたにも呼ばせるようにしたの。でもね、ママ、ようやく分かったわ。『血』なんて関係ない。あなたは、わたしの子よ。あなたは、かけがえのないわたしの子なのよ。まだ子供のあなたに、色々と気を揉ませ続けたママを許して……」
ママは、心の奥底にとどめていた言葉を穏やかに、けれども一気に吐き出すように口に出すと、僕の背中に手を回し、臥したまま、僕をこれまでに無いほどに、強く、強く抱き締めてくれた。
そしてより沈痛で、苦悶に満ちた声で、
「ママね、もう生きていな……」
ママの瞼から涙がこぼれた。言葉の語尾はつぶれて、言葉になっていなかった。
が、必死に言葉を続けた。まるで言葉に命を移し込むように。
「腹に宿した子も……あなたの実のパパも……。積み重ねてしまった罪が多くて、多くて……。罰。罰なのよ。もう……耐えることができひん。もう……よう生きていかれへん。壊れてしもたんよ……。なあ、夕霧」
ママは、声を嗚咽で潤ませながらも、まるで最後の力を振り絞るように言葉を続けた。
「なあ、夕霧。一度でええから……、ママやなくて、お母さん……て言うてくれへんか」
ママが自身の正直な気持ちを抑えきれず、自然と、生まれ育った関西の言葉で僕に吐露した。
その声には、一筋の強さが込められており、僕は、素の、生きているママを見ているようだった。
「マ……お母さん」
僕は囁くように呟いた。そして、更に続けて、声に力を込めた。
「お母さん! ママは、僕のお母さんだよ。僕には、ママ以外のお母さんはいないよ。お母さん! お母さん!」
ママの瞼にひと際大きな涙の粒が浮かんだ。
瞬きにより、それは頬を伝い、僕の手を握り締めるママの柔らかな手の甲にぽたりと落ちた。
不思議と僕の手にも涙の感触が伝わった。
「ありがとう」
そしていつもの優しく清らかな声色で、もう一度「ありがとう」と、ママは繰り返した。
「お母さん」
「なあに?」
「ぎゅうして。もっと、もっと、ぎゅうして。最後のぎゅうをして」
「夕霧……」
ママの瞳から大量の涙が溢れ出した。
ママは噎び泣きながら、その柔らかな体で僕を覆うように抱き寄せ、ゆっくりと僕の唇に口づけをした。
そして、慕情とも慈愛とも感じられる、熱い愛情で僕を慈しみ抱き包んだ。
ママの吐息と僕の吐息とが混ざり合い、確かな愛の繭に包まれているようだった。
明け方。
僕が目を覚ますとママの姿はなかった。
水差しに活けられていた白いバラは、俯くように花弁を下に向けていた。
ここまで読んで頂き、本当にありがとうございます。
次回の投稿にて最終話を予定しております。
限られた時間を頂戴して大変恐縮ですが、是非、最終話までお付き合いいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。




