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あこがれは水面に消ゆる  作者: 七海和希
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夕陽に染まる頰

 話は13年前に遡る。


 僕は5歳。ママ、僕、パパの3人で、

 千葉県のとある地方都市で暮らしていた。


「ねえ、ママ」

「なあに?」

「パパはまだ帰ってこないの?」

「パパはね……、もうこのお家には、帰ってこられないのよ」

「どうして?」

「ママがね、パパのことを飽きちゃったから」


 僕は、思わず、きょとんとした目をママに向けてしまった。

 視線がアイロンをかけているママの背中を捉える。


 ほぼ止まりかけていたママのアイロンをかける手。

 その手が再び小刻みに動き始めると、動かなかった背中までもがその手の動きに合わせて左右に揺れ、微かに震えているように見えた。


「ママは、パパのこと飽きちゃったの?」

「そうよ」


「じゃあ、どうしてパパのことを飽きちゃうと、パパは帰ってこられなくなるの?」

「玄関ドアの鍵がね、替わっちゃうからよ。もう、パパが持っている鍵では、お家のドアを開けられないの」


 ふうん――


 そういえば、お昼ご飯を食べ始める頃だったろうか、見知らぬ作業服姿の大人が急に家に来て、玄関で乱雑な音を立てていたのを、僕は思い出した。


「じゃあ、僕の鍵は、お家のドアを開けられる鍵?」

「そうよ。新しい鍵と取り替えっこしたでしょ」

「そっか。じゃあ、パパの持っているのは古い鍵だから、お家のドアを開けられないんだ」

「そうよ」


 僕は導き出した答えに満足した。


 だが、すぐにまた別の疑問が浮かんだ。


「いつ、パパに新しい鍵を渡すの?」

「パパには新しい鍵を渡さないわ」


僕は思わず息を飲んだ。


ママの言葉には強い意志が込められている気がした。


「飽きちゃったから?」


「……そうよ」


 ママはたった3文字の言葉を、これでもかと言うほどに苦々しく吐き出した。


「ねえ……」

「なあに?」


 僕は話しかける言葉を少しだけ逡巡した。

 不安に駆られていたのだ。

 が、結局はママの背中に向け、震える声で尋ねた。 


「もしも、僕に飽きたら……新しい鍵、僕に渡さないの?」


 ママからの返答は若干間が空いた。


 それが、ママがアイロンの電源を切って僕の方に向き直るのに必要な時間だったのか。

 それとも、ママが答えあぐねた時間だったのか。

 幼い僕には判別がつかなかった。


 やがてママの形良い唇がゆっくりと動き出した。


「あなたに飽きる? それは分からないわ」


 能面のように無表情なママの口からは、少し投げやりな言葉が僕の耳に向けて投げられた。

 僕は耳の後ろあたりから汗が滴る感触を覚えた。


「どうして?」

「あなたは――ママの子だからよ」

「ママの子だと、僕はママから飽きられないの?」


 そう言うと、不安で押し潰されそうな僕は、涙を滲ませ始めた眼差しをママに向ける。

 ママは、先程までかけていたアイロンのコンセントが気になったのか、僕に背を向けてから、


「それは分からないわ」


 と、更に冷淡な口調で答えた。


「どうして?」


 僕は必死だった。


「ママにもう一人子供ができたらね、あなたのことを飽きちゃうかもしれないし」


 相変わらず僕に背を向けながら、ママはにべもなく言い放った。

 ママの無防備な背中に比べると、僕は背中に冷や水を浴びせられたような、背骨からキンと凍りつく緊張を感じていた。


「……。じゃあさ、じゃあさ――」


 僕はママにすがるように言葉を続けた。

 たった一つの言葉。

 あなたを愛しているから大丈夫よ――

 そう言ってもらいたく、僕はママの背中に話し続けた。


「ママがもう一人子供を産まなければ、僕は飽きられないんだよね」


 だが、僕の哀願のような問いかけに対して、ママからの返答はなかった。

 ママは無言のまま僕の方を振り向くと、僕との距離をゆっっくりと縮めた。


 僕はママの瞳から何かを読み取ろうと、必死にママの目を見た。

 だが、ママの瞳は――あなたからの質問にはもう飽きたの。

 僕にはそう語っている気がした。


 やがてママは、その柔らかな指の腹で僕の額を揉むように撫でてくれた。

 僕は目をつむった。

 沸点に到達しかけていた僕の不安が鎮まっていく。

 ああ……。

 思わず、心の中で安堵の吐息が漏れた。


 だが、暫くすると、ママは呆気なく手を引いてしまった。

 僕が瞼を開けると、ママは撫でることに飽きたのか、その目は時計に向けられていた。


「もうこんな時間。ママ、お仕事行ってくるわ」

「……。うん、行ってらっしゃい」


 僕は顔を上げ、立ち上がったママに名残惜しそうな視線を送った。

 ママはそんな僕の視線には気付かずに、テーブルへ向かい漆黒色のクロコダイル調のハンドバッグを手に取った。


(ママ……)


 玄関へと颯爽と歩きだしたママは、僕の脇を何の躊躇も見せずに通り過ぎた。

 そうしてドアノブに手をかける際、思い出したかのように、


「明日ね、新しい鍵を持った、新しいパパがお家に来るから、ちゃんとご挨拶してね」


 と、僕の方を振り帰った。


 僕は再びきょとんとした目で、ママの表情を見てしまった。

 ドアを押し開けて出ていくママの横顔は、能面どころか目元がいつもよりくっきりしていた。

 また、ドアの隙間から覗く夕陽に照らされていたせいか、頬がいつもより紅く染まっていた。

 そう僕には見えた。






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