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あこがれは水面に消ゆる  作者: 七海和希
12/26

新しいパパ 死す

 登園のため、僕とママとが家を出たのは9時前だった。

 天気予報は昼間の季節外れの暖かさを伝えており、事実、外に出ると、陽気さえ感じさせる太陽が仄かに大地を照らしていた。しかし、夕方からは押し寄せる寒波により、地域によっては雪が降るとの事である。

 ママと手を繋いでの登園。

 いつもならば自分独りでは手の届かない外門の鍵も、ママがいれば他の園児保護者の登園を待たずに開けて入れる。

 門前で寂しく待ち続けずに済む今日は、格別な朝に思えた。


「ねえママ」

「なあに?」

「もうすぐクリスマス礼拝だね」

「そうね。お歌の練習してる?」

「うん。その日……来てくれる?」

「そうね、日曜でお仕事も休みだし、行くわ」


(やった、ママが来てくれる!)


 歌の練習ではもう口パクしないぞと、ママの手を握る左手に力を込めた。

「力強くなったね」とママが目を丸くした。


 ふと、後ろから、どたどたと、園児には似つかわしくない足音を踏み鳴らして駆けてくる気配があった。

 追い抜きざまに僕に蛇のような絡みつく視線を投げ、声を浴びせてくる。


「あ、しょんべん泣き虫だ。汚ねえ~」


 たけし君だった。小児肥満の体を揺らしながら園児登園口へと駄音を踏み鳴らして走り去っていった。

 

 ママが落ち着いた口調で訊く。


「なあに、今の子?」

「1歳上の教室のたけし君。ちょっと変わってるんだ」

 

 ママには余計な心配をかけさせたくなかった。繋いだ手の指先が心なしか震えたのをママに悟られなかっただろうか。懸念を抱いた。が、ママは特に関心を示さずに、「ふうん」とだけ鼻音混じりの息を吐き、思い出したかのように朗らかな声色で僕に話しかけた。


「クリスマスプレゼントは何がいい?」


 僕は真顔でママを見上げる。


「クリスマスプレゼントは、サンタさんにお願いするんだよ」

 

するとママは、少しおどけた笑みを浮かべて、「ママがね、サンタさんに伝えるから、こっそりママだけに教えてちょうだい」と僕の方に上半身を傾けて、聞き耳を立てる仕種をした。


「えー。恥ずかしいよ。やだやだ」

「そんなに恥ずかしい物が欲しいの?」


 ママがクスクス笑いながら、もう1つの提案をした。


「じゃあね、手紙を書いてサンタさんに渡そうか。もう字を書けるようになった?」 


 僕は、平仮名を読む事はできるが、書く方はまだ覚束なかった。だが、ママを失望させたくないため、「うん」と小さく頷いた。


「じゃあ、テーブルに紙と封筒を用意しておくわ。帰ったら、その紙に欲しい物を書いて封筒に入れておいて。ママがサンタさんにそれを渡すから」


 僕は再度頷きながら、去年買ってもらった動物の挿絵入りの平仮名練習帳の置き場所を、心の中で思い出していた。




 園児登園口では、当番の先生達が園児を出迎えていた。

 僕とママが入ると、先生達の周囲の空気がどこか張り詰めたものになった。明らかにいつもとは違う登園口の雰囲気。だが、ママにはこの違和感を認識できないらしく、口元を引き締めている先生達に対して、ごく自然な挨拶をした。

 年長の先生がワンテンポ遅れて挨拶を返すと、他の先生達も慌てて挨拶の言葉を口にした。


「また今日からよろしくお願いします」


 先生達にそう述べると、ママは中腰になって僕の顔を覗き込み、「じゃあね」と頭をひと撫でしてから背を向けた。

 ママの背中がだいぶ遠ざかると、先生がおずおずと僕に声を掛けた。


「どうしたの、その左目の周り?」

「左目の周り?」


 僕は思わず指で触りながら問い返した。


「そう。左目の周りに青い痣ができてるよ」


 ああ、と僕は昨夜のキャッチボールを思い返す。


「パパとね、キャッチボールしたの。パパの投げたボールが速くて目に当たっちゃった」


 苦笑を浮かべた僕の表情とは裏腹に、先生達は各々怪訝そうな顔を浮かべて見合った。うち1人の先生が躊躇いがちに尋ねた。


「その……パパに殴られたんじゃないよね?」


 僕はすっと息を飲んだ。無意識に腹部を手で押さえる。


(殴られてはいない。でも……蹴られた)


 先生たちの視線が僕に集中した。僕は、瞬時に園帽を激しく左右に揺らして首を振った。


「違うよ。殴られてなんかないよ」


 僕の意気込んだ返答に、先生達は取り敢えず胸を撫で下したようで、張り詰めていた空気が和らいでいくのを感じた。





 教室に入ると、それまで盛んにおしゃべりをしていた園児達が僕を見て、はっと息を止めるように口をつぐんだ。

 静まり返る教室。

 あまり話したことのないきょうへい君が、意を決したかのように僕に近づいてきた。


「ねえ、おめめの周り青いよ。どおしたの?」


 園児達の視線が、先程の登園口を再現するように、僕に集中した。まるで予め予想された一つの言葉を待ち望むかのように。


「パ、パパとキャッチボールして、ボールが目に当たったの」


 尚も静寂に包まれたままの教室。不意に、教室の奥の方から男児の声が上がった。



「なあんだ。つまんないな」



 その声を皮切りにして、堰を切ったように園児達がおしゃべりを再開した。あるいは、パタパタと上履きの音を響かせて教室内を駆け回り始めた。

 僕はカバンを棚に置き、手持ち無沙汰に佇む。追いかけっこをする園児は、僕の前を素通りするだけで、誰も僕に話しかけてくれなかった。


 やがて、きょうこ先生が教室に入ってきた。予め職員室で僕の左目の痣の事を聞かされていたのか、その事には触れられずにピアノの鍵盤蓋が上げられた。

 途端、我先にとピアノの周りに群がる園児達。僕だけが、園児達の円から弾き出されたように、ぽつんと突っ立っていた。

 お決まりの幼稚園歌の伴奏が始まる。クリスマス礼拝を意識して、先週よりも大きな声で歌う園児達。僕も負けじと大きな声で歌った。

 次の、『手のひらを太陽に』では、園児達のボルテージを揚げるかのように、先生はピアノの鍵盤を力強く叩き奏でた。園児達もそれに応え、より大きな声で歌う。

 教室内が生命力漲る活き活きとした歌声で充満した。園児達はまるで自身の歌唱に酔うように体を揺らし、流れるメロディに詞を乗せ、教室内の空気がリズミカルに躍動していた。


(楽しい!)


 いつの間にか、僕は園児達の輪の中に入っていた。

 歌う間は教室内の園児達から距離を置かれない。疎外感や孤独感も感じずに、みんなと一緒に声をそろえて歌う。今まで感じていた見えない壁を取っ払ったかのような、はっきりとした一体感を感じられた。それが何よりも嬉しかった。

 3曲目は、クリスマス礼拝でも歌われる『きよしこの夜』。園児達は、一転して尊厳かつ静謐なムードに包まれた。


 全ての曲を歌い終えると、どの園児も額にうっすらと汗を滲ませ、その表情に充足感を浮かべていた。中には高揚のあまりハイタッチし合っている園児もいた。


「それじゃあ…」と先生が鍵盤蓋を閉め、ワンテンポを置く。

 先生の言葉を固唾を飲んで今か今かと待ち受ける園児達。おそらく、地球上で最も平和な緊迫感が教室内に漂った。


「お外遊びの時間でーす!」


 先生の声と共に、教室を覆っていた静寂が園児達の歓声で一瞬のうちにかち割られた。わーっと下駄箱になだれ込む園児達。

 気付くと、けいた君が僕の手を掴んで一緒に駆け出してくれていた。


「お砂場行こ!」

「うん!」


 僕は力強くけいた君の手を握り返して快哉を叫んだ。


 けいた君と砂遊びをしていると、1人また1人と同じ教室の園児達が周りに集まってきた。

 一緒に山を作り、トンネルを掘る。川の溝をこしらえてはジョウロで水を流す。外遊び用の淡いブルーのスモックは砂で汚れ、園児達の手は泥んこまみれだった。泥山の両側面から穴を掘り合い、お互いの手が泥山の内部で触れ合うと、「トンネル開通!」と叫び、手を握り合う。手指についた泥砂をお互いでシェアし合う一体感に、僕は眉を開きおおいに遊び酔いしれた。





 15時前後。

 園児達は降園時間を迎える。園バスへの乗車や保護者の迎えなど、園内が一番込み合う時間帯だった。

 園児独りで降園する事は禁じられているのだが、僕に限っては、何故かそれがまかり通っていた。

 同じ教室の園児達とバイバイの手を振り合い散っていくなか、僕は普段通り独りで、この時間帯ほぼ開けっ放しになっている外門から降園した。

 朝の登園時とは逆の方向へと歩いて帰る。途中、園児を乗せたママチャリが何台も僕の横を通り過ぎていった。


 ――何故僕は、迎えに来てもらえないのだろう?

 ――何故僕は、みんなと同じようにママやパパがこぐ自転車の後部座席に座って帰れないのだろう?


 入園して2年になるが、僕はその疑問をママにぶつけたことはない。

 ママが悲しむ顔を見たくなかったからだ。僕はその疑問に敢えて自分で蓋をして、独りで帰っているのだ。そう自己解決に至り、昇華できない寂しさが、ママの温もりへの渇望を人並み以上に僕の心の中で(たぎ)らせていた。


 少し歩くと、真新しい戸建てが並ぶ塀沿いの上から、以前見た白色の仔ネコが僕を見下ろしていた。

 目が合う。

 あの時と同じく、僕に向けて呼びかけるようにミャオと鳴いた。

 僕がネコを追い越すと、今度はネコが尻尾をぴんと立てながら、短い脚を小刻みに動かして塀上を走り、僕を追い抜いた。そして、後方にて仰ぎ見ている僕の方を振り返り、再びミャオと鳴く。


(面白い!)


 僕は、ネコがいる塀上に向かい、届きもしないのに助走をつけてジャンプした。

 反対に、ネコは塀から飛び降りて、宙に浮いている僕の隣を掠めていった。


 全く正反対のベクトル上で一瞬交わり合う僕とネコ。不思議な事に、園庭の砂場で感じた以上の一体感を、このネコと共感し合えた気がした。

 道路に着地したネコは、くるんと背後に回転するや、僕の眼前を先へ先へと一目散に駆けはじめた。

 僕は当然のようにネコを追いかける。これを無我の境地とでも言うのか。ネコが駆けるから僕も駆ける。それとも、ネコが僕をどこかへと誘おうとしているのか。

 

 だが、路地の角を2つばかり曲がった処で、僕は呆気なくネコを見失った。それでも、必死に駆けたおかげで家の団地街まではもうすぐそこの距離だった。目をつむっても帰れる。僕はそう楽観的になり、ぼんやり歩きだすと、通り過ぎた景色の中に何かひっかかる残像を捉えた。


(ん?)


 僕は歩みを止めて振り向いた。

 電柱の下に粗大ゴミがこぢんまりとまとめ置かれていた。

 そこに何気なく目を向ける。すると、僕の視線は、ある1つのものを捉えて固まった。


「あ!」

 

 思わず声が出た。


 木製の2段式踏み台。

 近所のお父さんが日曜大工で製作した物なのか、踏み板を固定する釘が斜めに打ち損じられており、外観的には完全にアウトな踏み台だった。

 が、この不格好で失敗もどきの踏み台が、これから寒さを増す冬を乗り切るためのまさしくステップになる。と、僕の直感が告げていた。


(これで、押入れの行李に手が届く。)


 僕は嬉嬉として捨てられている踏み台に駆け寄り、両手で注意しながら担ぎ上げた。

 手に取った感触ではまだまだ使えそうだった。斜め釘で固定された踏み台とはいえ、僕の体重ぐらいは支えられそうだった。


(いける!)


 胸が弾んだ。

 僕にはちょっと大きくて重い踏み台。だが、何としても家まで持ち帰りたかった。

 踏み台を両手で抱え、カニ歩きで自分の住む団地棟までよろめきながらも持ち運んだ。

 階段下で一度踏み台を地面に置いた。吐き出される白い息が、きんと冷え始めた空気中に儚い霧雨のように広がっては消えていった。エレベーターが付いていない団地棟の5階。そこまでこれを運ばなくてはいけない。

 僕は屈み、再び踏み台に両手をかけた。木片のささくれを握ってしまい「っつ!」と慌てて手を離す。踏み台がどすんと鈍い音を立てて足下に落ちた。

 ここまできて諦めたくはなかった。

 踏み台をもう一度担ぎ上げ、階段を1段ずつ昇り始める。重い。腕が笑うように小刻みに震えてくる。

 何度かの休憩を階段の踊り場で挟みながら、やっとのことで自分の家の玄関先まで踏み台を持ち運ぶことができた。重労働だった。息が弾んでいた。が、心はそれ以上に弾んでいた。


 はやる気持ちでドアの鍵を開ける。家の中には誰もいなかった。夜の出勤まではまだ時間があるので、ママと新しいパパとはどこかに出かけているのだろう。むしろ、ママの目の前でこれ見よがしに踏み台に昇り行李を取るのは気が引けるので、誰もいないのは好都合だった。

 踏み台を壁に当てないように、短く狭い廊下を注意して進む。途中、置きっぱなしの大きなボストンバッグがあったので、一旦踏み台を床におろして、バッグを脇へどかし、再び踏み台を抱えるように持ち上げた。

 そろりそろりと居間を通り、隣室する和室の押し入れ前にようやく踏み台を置いた。


(ふう)


 肩を下げて一息つくと、こめかみから汗がこぼれた。僕は肩をいからせるように持ち上げると、頬を伝うその汗を肩で拭った。


 踏み台の1段目に右足を乗せた。キッと軋む音が鳴る。

 僕は畳上に残っていた左足を恐る恐る宙に浮かし、そして1段目に両足を乗せ終えた。今度は軋む音が聞こえなかった。大丈夫そうだ。

 体の重心を1段目よりも更に高く設計されている最上段へと移動させながら右膝を曲げ上げた。足裏が感じ取った最上段の踏み板の感触は平凡なものだった。

 だが、ギッと軋み音が再び鳴った。踏み板からというよりは、踏み台を支える側面の木片辺りからの音だった。

 最上段の踏み板は左右で高さがずれており、斜めに傾いていた。が、僕は気にせずに左足を浮かせ、最上段へと踏み昇った。



(凄い!)



 最上段に立つと、目線の位置が高かった。

 そのまま後ろを振り向く。窓外に見えるバルコニーの手すり越しの景色が、普段とは違うものに感じた。

 ふと、同じ教室の園児が、お父さんに肩車をしてもらった事を楽し気に話していたのを思い出した。

 僕はパパと呼べる人に肩車をしてもらったことがない。また、これからも、してもらえそうにない事を分かっていた。それだけに、周りの園児達が「そうだね!」と、活き活きした表情で肩車の話に相槌を打つ中で、僕だけが押し黙り静かに耳を傾けていた。


(ああ、きっとこういう事なんだ)


 肩車の方が目線はもっと高いのだろう。だが、今立っている踏み台の高さからでも、あの時歓然とした表情で相槌を打っていた園児達の気持ちの一片を僕は推し量ることができた。

 暫くの間、背中をねじ曲げて窓外の風景に見入っていた。

 が、やがてくるりと押し入れに向き直り、僕は踵を浮かせて背伸びした。両腕を伸ばすと行李の底に手が届いた。行李の両脇を両手で挟み込んで、ずりずりと引っ張り出す。埃がタンポポの綿毛のように舞った。行李の奥行きの3分の2程を引っ張り出すと、突然、行李が僕の頭に落ちるようにガクンと傾いた。僕は行李を落とさないよう、背中を反らせ、行李を頭上で持ち上げたまま、ゆっくりと踏み台を降りていった。ぷるぷると上腕を振るわせながら行李を畳の上に静かに置こうとした。が、行李は重すぎた。支えきれずに斜めになった行李は、角からドスンと畳に落ちてしまった。


(あちゃあ…。でも、行李を降ろせた!)


 僕はさっそく行李の蓋を開けた。

 一番上には緑色のダウンジャケットがしまわれていた。さっそく取り出して着てみると、窮屈には感じたが、まだ着られそうだった。

 清潔そうな白いセーターと手袋もあった。どれも去年買ってもらったものだった。


(これで、寒さに震えながら登園しなくて済む。ましてや、上着を買ってもらえないと揶揄される事もない)

 

 僕はこの時、後者の方にコンプレックスを抱いている事を自覚した。が、あまりその気持ちを自分の中で追求しない事にした。

 それよりも、踏み台をバルコニーへ運び、踏み台の上から外の景色を直に見たかった。


 目線が高いとどんな気持ちになれるのか。

 どんな発見をできるのか。


 そんな好奇心に駆られ、僕は踏み台をバルコニーへと運び出した。手すり下のモルタル部分に踏み台をくっつけて置く。バルコニーに出る際は、サンダルを履かないとママに怒られるが、僕はその事を忘れ、浮ついた気持ちのまま靴下でバルコニーに出た。そして、踏み台を1段ずつ昇る。

 目をつむって踵を上げていった。最上段の踏み板に立った時、初めて瞼を見開き、目が捉える情景を存分に満喫したかった。踏み板の軋む音が聞こえたが、もはや意に介する音に思えなかった。


 普段触れないバルコニーの手すりに手を置くと、否が応でも気分が高揚し始めた。

 踏み台の最上段に立った。頬だけではなく、首や腕、腹が受け止める風や空気までもが、どこか新鮮なものに感じた。

 僕は心の中でカウントダウンを始めた。

 3、2、1、そして……瞼を開いた。




 夕暮れを迎えて仄かに茜がかった空が、遠くに見える建物の輪郭を溶かすように広がっていた。

 真一文字に棚引く亜麻色の雲の周りでは、薄い青磁色の空が寄り添っているようだった。よく見ると、茜がかった空と青磁色の空との間には藤色が薄まるグラデーションをなしており、僕は心底美しいと思った。少し早いが、空色に初春の色を見た気がした。


(わーっ!)


 僕は思わず諸手を挙げて拍手喝采を送った。


(ママと一緒に見たい。こんなにも綺麗な夕空)


 玄関の方を振り返るも、ママが帰ってくる気配はなかった。が、何かがテーブル上に置かれていた。

 僕は、「ああそうだ」と踏み台から跳び下りて室内に戻り、おもちゃ箱からはクレヨンを、本棚からは週刊誌に埋もれた平仮名練習帳を引っ張り出した。

 

 テーブル上には横詰めの封筒と便箋が置かれていた。

 僕は平仮名練習帳の該当頁を見ながら、黒いクレヨンで、封筒の真ん中に『さんたさんへ』と書いた。少しいびつながらも、きちんとした字を書けた。

 続けて、ピンクのクレヨンで、便箋に欲しいものを書く。これは平仮名練習帳を見なくても自信を持って書ける字だった。


 書き終え、便箋を折り畳んで封筒に入れた。糊はどこかとテレビ棚や電話機の周辺を見回すが、見当たらなかった。はて、どうしようかと考えていると、ママが、米粒を糊替わりに使っていたのを思い出した。僕は椅子から降りて台所へ向かい、ロータイプの食器棚の上に置かれた炊飯器の蓋を開けた。炊飯器からは湯気が仄かに上がった。指に米粒を3粒程とって、テーブルに戻り、封筒の封入口に生温い米粒を付けた。食べ物を糊替わりに使う事に幾ばくかの罪悪感を覚えたが、クリスマスプレゼントへの渇望がそれに勝った。米粒を親指で押し潰して封緘した。


(よしっ!)


 サンタさんお願いしますと、願掛けの意味を込めて手の平を2回叩き、お辞儀をする。ママが初詣でやっていた事を真似た。

 封緘された封筒をテーブルの中央に置くと、僕は再びバルコニーに出て、踏み台に昇った。


 建物に纏わりついていたヴェール状の空は、茜色の部分がよりはっきりと大きくなっており、その上空に広がる薄い青磁色部分の更に上空には、闇を思わせる鈍色がぼんやりとだが色付き始めていた。藤色のグラデーションはいつの間にか消えていた。鈍色の空の下で茜色で縁取られた建物が燃えているようで、どこか畏怖の念を覚えた。暫しの間、僕は圧倒されたかのように立ち尽くしていた。





「さんたさんへ?」

 

 突然、嘲るようで素っ頓狂な声が居間から聞こえた。

 僕はぎくりと泡を食うように振り返り、掃き出し窓のサッシュ越しに居間を見やった。

 いつのまに帰宅したのか、新しいパパがテーブル上の封筒を手にしていた。そして何の躊躇も見せずに、ビリリと空気まで裂くような音を立てて封緘を剥がした。

 中の便箋を指で摘まみ出し、上目遣いに蔑んだ表情で文面を読みあげる。


「『まま』……なんだぁこりゃ?」


 新しいパパが便箋を投げ捨てた。

(……)


 僕は、明け方に覚えた恨みとも憎しみともつかない嫌忌感が、またぞろ体の奥底からどろりどろりと湧き出してくるのを感じた。

 唇が小刻みに震えだす。

 視線に気付いたのか、新しいパパは僕の方を一瞥した後、何事も無かったかのようにテレビのリモコンを手にした。が、直後、切れ長の目が突如として吊り上がった。敵意のこもった眼差しを僕に向け直し、リモコンを床に投げつけながら、ドスドスと足音を響かせてバルコニーの手前にやって来た。


「てめえ、何だその眼は!」


 僕は尚も黙ったまま、間近にいる新しいパパの顔をじっと直視し続けた。ぎゅっと握りしめた拳が、心身の奥底から湧き上がる感情に呼応してぷるぷると震え始める。


「気に入らねえなぁ……ホント気に入らねえガキだな、お前は」


 新しいパパの体躯がサッシュの窓枠を越える。


「何で僕の手紙を破いて、見たの?」


 あまりにも冷静な言葉を口にした自分に僕自身が驚いた。


「あん?」


 新しいパパは薄ら笑いを浮かべ、「けっ」と唾をサンダル脇に吐き捨て、僕の方へと更に近づいた。

 踏み台上の僕の首に手をかけ、そして、両手で絞め上げるように僕の体躯を持ち上げた。


「ゔ……」


 ぴんと伸ばした足のつま先が踏み台から離れ、首元から宙に吊り上げられる。


「気に入らねえんだよ」


 こめかみに青筋をくっきりと浮かべたその顔には、制御を失なった憤怒の表情が浮かび上がっていた。僕の体は首から宙吊りのまま更に高く持ち上げられた。


「何ならここから落としてやろうか? 踏み台で遊んでて落ちたことにしてやるよ」


 新しいパパが踏み台を1段昇った。

 ミシリ、と今まで聞いたことのない低い軋み音が耳に入った。


「てめえも、俺の手であのダメ親父のもとへ送ってやろうか?」


 目を剝いた瞳には冷酷で残忍な明かりが灯っていた。

 首は更に絞め上げられて、体がバルコニーの手すりいっぱいまで持ち上げられた。辛うじて、僕のお尻が手すりに触れていた。


(苦しい……)

 

 眼前が靄がかったように淡く白み、意識が朦朧としてくる。


「ダメ親父の元へ逝っちまえよ!」

 自制を喪失した甲高い声が、僕の恐怖心を最高潮まで高める。

 新しいパパは、両方の黒目を異様なまでに目の外端に寄せながら踏み台の最上段へと昇り、僕を手すりの上から押し出そうと腰を据えて踏ん張った。その時、



ガコオッ



 突然最上段の踏み板が崩れ落ちた。


「!?」


 突然の出来事に思考が追い付かない表情を浮かべた新しいパパは、バランスを崩し、その体が傾いた。

 僕を絞め上げていた腕の力が緩む。

 僕は咄嗟に体をねじり、首元の新しいパパの両手を振り払い、バルコニーに着地した。


 踏み板が抜けた踏み台上で、よろけてつんのめっている新しいパパは、片脚でなんとかその体躯を支えながらも、手すりを腹前にして前のめりに傾いていた。

 そんな新しいパパの重心を支えている片方の脚を、僕は両腕で抱えるように挟み込んだ。

 ありったけの力を込めて、その片脚を引き抜くように持ち上げる。


 手すりが、てこの支点の役割を果たし、新しいパパの体躯が浮き上がった。


「うわっ!」


 新しいパパの悲鳴あがった。

 

 無我夢中だった。

 浮いた体躯をすくい上げるように持ち上げ、そして押し出した。

 ぐらりとバランスを崩した体躯。上半身が手すりを乗り越え、逆立ちするように両脚が天高く舞い上がった……。

 


 バルコニーから落ちる瞬間、新しいパパは何かに掴まろうと体を捻りながら必死に腕を伸ばした。

 が、その所作も空しく、手は空を掴み、僕の視界から、まるでスローモーションのように、その痩身が落ち始め、そして消えていった。

 後に続くのは、アスファルトの地面に叩きつけられた鈍く弾んだ音だけだった。













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