悲劇の言葉
新しいパパは日が暮れた頃に帰って来た。
手に紙袋を提げており、靴を脱ぐと真っ直ぐ僕のところへ来て、「何だと思う?」と言いながら、スポーツ店名が印字されたその袋の中身を、まるでママに見せつけるように取り出した。
大人用、子供用の野球グラブに硬球3個。これらをテーブルの上に叩きつけるように並べると、「今からキャッチボールだ」と突拍子もなく言い放った。
「あなた、もう夕暮れよ」とママがこぼす。
言外に、「それよりも話したい事がある」というニュアンスが含まれているのは、僕にでも分かった。
だが、新しいパパはそんなママの視線から逃げるように、「野球好きだって聞いたぞ」と僕の腕を一方的に引っ張った。
新しいパパには、玄関の隅に転がる汚れたサッカーボールが目に入らないのかと、僕は訝った。
僕はサッカーボールを凝視してから、新しいパパの目に視線を移した。が、新しいパパの目線は僕を捉えておらず、どこか宙を見ているようだった。
結局、僕は団地近くの空き地に強引に連れ出された。
陽はほぼ沈んでおり、所々に雑草の茂った空き地を外灯が心もとなく照らしている。むしろ、黄昏月の僅かな煌きの方が心強く感じられたが、それでもやはり、新しいパパの顔の輪郭さえ定かではなかった。
「ほらよ」
新しいパパが、小さい方のグラブをすくい投げるように、僕に向けて放る。僕はそれをキャッチし損ねた。足元に落ちたそのグラブを慌てて拾い上げ、右手にはめようとすると、
「ん?」
そんな僕を見て、新しいパパは、「おまえ左利きか?」と口にした。
僕は静かに首を横に振った。
すると、新しいパパは、やってられないという表情を浮かべながら早足で僕に近づき、僕が右手にはめようとしていたグラブを手荒く奪い取ると、僕の左手に押し込むようにはめこんだ。そして、そのまま背中を丸めて後方に下がり、僕との距離を空ける。
「よし、投げるぞ」
新しいパパが右腕を上げて振りかぶった。直後、しなるようにその腕が振り降ろされる。
ヒュッと空気を裂くような音がした矢先、目の前に硬球が飛んできた。思わず両手で顔を覆う。ゴッと鈍い音を立てて、硬球が僕の右手の甲に当たった。
「痛っ」と叫ぶが、それよりも大きな声で、「何でキャッチしねえんだ!」と新しいパパの怒号があがった。
僕は硬球を拾い上げて、ままならぬフォームで投げ返す。
のろいスピードで放たれた硬球は、上空で緩いカーブを描き、ぽとんと新しいパパの後方に落ちた。
「てめえ、どこ投げてんだ!」
再び叫怒の声があがる。
後ろに転がった硬球を拾うのが面倒なのか、新しいパパは黒いフェイクレザーのアウターのポケットから新しい硬球を取り出した。
「おまえキャッチボールした事あんのか?」
僕は素早く首を横に振る。
新しいパパは舌打ちしながら、「グラブはこう構えて球を捕れ」と、自身の胸元に構えたグラブのど真ん中へ、硬球を握ったままの拳をバシンと突いた。
(嫌だ。こんなの全然楽しくない。お友達は、皆こんな風にパパとキャッチボールするの?)
僕は思わず後ずさりした。
間髪を入れずに、新しいパパが硬球を投げつける。
硬球が新しいパパの手元を離れた瞬間、消えたような錯覚を覚えた。そして、突如として呻るようなスピード音と共に白い硬球が僕の眼前に現れた。
ガッ
顔の前に構えたグラブを素通りして硬球が額に当たった。
僕は背中を弓のように反らせながら、後方に倒れた。
「ちゃんと捕れ!」
目を吊り上げた新しいパパの怒罵の声も飛んできた。
「次いくぞ!」
新しいパパは再びアウターから真新しい硬球を取り出すと、跪いた状態でろくにグラブを構えていない僕をめがけて、振りかぶった。
空き地に一つしかない外灯は、僕達の姿を、消えいりそうな明かりで照らしていた。
その明かりでさえも、尽きようとする命に抗えないかのように、やがて間隔を挟みながら明滅を繰り返し始めている。
硬球はもう新しいパパの手を離れたのだろうか?
そう思った瞬間、目の前に、白い硬球がグンと伸びるように浮き上がって現れた。硬球の赤い縫い目が異様なほど鮮やかに感じた。
そして……
気付くと、僕は和室で寝かされていた。
瞼を開くと、空き地のよりはまだ明るいと言える室内灯が僕の目を労わるように鈍く眩ませた。左目の辺りがジンジンと痛む。
「気付いた?」
ママが水を入れた洗面器に手拭いを浸し、絞っては僕の左の瞼の上に置いた。
「どう、左目見える?」
僕は手拭いをどけて、ママの方を向いた。右目をつむる。左目が、心配そうに僕を看ているママの顔を捉えた。
「うん」
僕が頷くと、ママはふううっと長い息を吐き、気色ばんだ顔を居間のソファに向けた。
ソファでは、新しいパパが寝そべりながら悠然と週刊誌を読んでいる。が、最後の方の頁をバララと流し、その週刊誌を音を立てて閉じると、テーブルに向けて放った。週刊誌はテーブルの角を掠めて床上に落ちた。
舌打ち音と共に、「良かったじゃねえか、失明してなくて」とぶっきらぼうなコメントが聞こえた。
「だいたいよお、今どきグラブを手にはめた事のないガキがいるのかあ? 俺の時ぁ、野球が下手くそなだけで、こっぴどくいじめられたもんだぞ。良かったじゃねえか、その程度の怪我で済んで。これで失明でもして、俺のせいにされたんじゃあ、たまったもんじゃねえしよ」
「あなた」
ママが少し棘のある口調で窘めたが、新しいパパは興奮にまかせて喋り続けた。
「そもそも一番の原因は、死んだお前の親父だよな。夜な夜な女を取り替え戯れては、自分の息子とろくにキャッチボールもしねえままあの世に逝きやがって。しかもよう、今わの際に至っては、過去に捨てた女から憑りつかれたような目つきで自分の女房を見ては、他の女の名前を言って謝りやがってよ」
「あなた!」
僕は驚いてママを見た。ママは怒りで顔色を変えていた。
新しいパパは、そんなママには目もくれずに、「ちょっと出かける。サツが来たら適当にあしらっとけよ」と一方的に言い、テーブル上の自身の財布をタイトな革ズボンの尻ポケットにねじ込んだ。金メッキの剥げた腕時計を手首に巻きながら、背を丸めて玄関へと向かう。
「どこに行くのよ?」
「どこぉ? どこだっていいだろ。俺が他の女としけこみに行くとでも思ってんのかぁ?」
「警察から、あなたの居場所を把握するよう言われてるの」
「んなのは適当にあしらえよ! ……どうせ分かりっこねえんだから」
ママは途端に口をつぐんだ。
(分かりっこない?)
僕が口を開きかけると同時に、玄関のドアが勢いよく閉まった。
僕は小さく開いた口をどうしてよいのか困りながら、無意識にママに視線を送った。
ママは閉じた唇をぷるぷると震わせて、その場で棒立ちになっていた。
僕はそれを見て、言葉にしようとしていたもの全てをお腹の中に飲み込んだ。
大きな口を開け、無理矢理喉を鳴らして、ママの分も含めて丸飲みした。
午後8時過ぎ。
警察が来た。変わらずあの二人組だった。
ママが新しいパパの不在を告げると、後方のおじさんはあからさまに渋面をつくり、「またですかぁ」と不満の声を吐いた。その口から放たれる息に、どこか爬虫類を思わせる匂いがした。
「すみません」と謝るママ。
「何だか、旦那さんは後ろめたい事があって逃げている、そういう心証を抱かざるを得ませんよ、このままでは」
ママは俯き、再び「すみません」と消え入りそうな声で謝る。それから数回の会話のやり取りが続いたが、今回のママは、前回のように興奮して言葉を荒げるどころか、ひたすら小さな声で「すみません」と、同じ言葉を繰り返していた。
後方のおじさんはらちが明かないと判断してか、「次こそ旦那と話をしたいもんですなあ」と、嫌味ともとれる言葉を言い置くと、前方のおじさんに向けて顎をしゃくり、玄関から立ち去った。
ママはドアを施錠すると、振り返り、顔をひきつらせながらも、僕に対して無理に笑顔を作った。
「心配しないでね」
僕がうんと頷くと、ママの表情が突然歪んだ。
短い廊下を走り、トイレに駆け込む。胃の中のものを一気に放出するような、濁音混じりの嘔吐音が聞こえた。
僕は驚き、ママのもとに駆け寄った。便器に向かい、嘔吐を繰り返すママの背中をさする。
「ママ、大丈夫? ねえ、ママ」
様態が少し安定してくると、ママは顔を上げて嘔吐物を流した。「ごめんね」と、僕を押しのけて台所に行き、口をゆすぐ。
「ママ、大丈夫? 死んじゃやだよ。死んじゃやだよ!」
心の中で膨張した憂慮や心細さを抑え切れずに、僕は背後からママに抱きついた。
すると、ママはくるりと振り返り、「大丈夫よ」と、苦しそうだった嘔吐時とは対照的に、意外な程明るい声で応じた。
ママの喜色満面の笑顔に僕は理解できず、暫くママの顔をまじまじと見た。ママの表情は、警察のおじさん達に見せていた沈痛なものから一転して、明らかに晴れ晴れとしたものに変わっていた。
そして、少し頬を赤らめたママの口から、意外な言葉が漏れた。
それは、僕にとっては、奈落の底に落とされたかのように感じる悲劇の言葉だった。
「ママ、赤ちゃんできたかも」




