第一話
目を覚ますと、ひどく頭が痛んだ。理由は簡単だ。昨日酒を飲みすぎたからだ。
池田正行は油断すると再びくっつきそうになる瞼をどうにかこじ開けると、横になっていた態勢から身体を起こした。そして眠気を振り払うように軽く頭を振る。
池田のとなりではメガネをかけた男が気絶するようにうつ伏せに倒れこんでいる。茶色のローテーブルを挟んだ向こう側にも、同じように男がひとり、正体をなくして倒れこんでいる。
テーブルのうえや床のうえには、昨日飲み食いしたビールの缶や、スナック菓子の袋等が散乱していていかにも汚らしい。これからこれをひとりで片付けなければならないのかと思うと、池田はいささかうんざりした気持ちになった。
なんでこんなことになったんだっけ?池田は混濁した意識のなかでぼんやりと考えた。そうだ。昨日はわかちゃんの送別会があったのだ。送別会自体は十二時前にお開きになったのだが、そのあと男三人で池田の部屋で飲みなおしたのだ。確か。
それにしても、こんなふうに朝まで騒いだのはずいぶんと久しぶりのことだった。学生のときはそれこそ毎日のようにこうして飲んでいたのだが、社会人になってからは全くといっていいほど今みたいに朝まで過ごすことはなくなっていた。
池田は床の上に転がっている友人たちの姿を見つめながら、懐かしいような、寂しいような、不思議な気持ちになった。
閉めたままのカーテンの布地越しに、日曜日の朝の静かな朝日が差し込んできている。アパートの外からはまだ目覚めたばかりの町の喧騒がそっと零れてくる。バイクの走りすぎる音。車の音。どこかの公園でやっているラジオ体操の音。それから小鳥たちの鳴き声。
池田は壁にもたれかかって座りながらしばらくのあいだそんなとりとめのない町の音に耳を澄ませていた。
池田が少しのあいだそんなふうにして過ごしていると、メガネをかけた男が何かうめき声にも似た声を発して身体を起こした。彼の名前は泉谷太陽で、池田とは高校時代からの友人だ。歳はお互い今年で二十七歳になる。
「今、何時?」
と、泉谷太陽はずり下がったメガネをそのままに、しかめっ面でそう尋ねてきた。
池田が部屋の時計に目を向けてみると、時計の針は朝の六時半を少し回ったあたりを指していた。池田がそう伝えると、太陽はわかったのかわかっていないのか曖昧な相槌を打って、再びフローリングの床の上に横になった。たぶん、もう一眠りする気なのだろう。
しかし、眠れなかったらしく、太陽はしばらくしてからまた身体を起こすと、あーと言いながら両手を頭上に高く掲げて伸びをした。
「なんかめっちゃ頭痛いわ」
と、太陽はだるそうな口調で言った。
「俺もやで」
と、池田が苦笑して共感を示すと、
「昨日はちょっと飲みすぎたな」
と、太陽は口元を綻ばせて反省の言葉を口にした。
それからしばらくの沈黙があった。池田も太陽も黙っていた。頭がまだ完全に目覚め切れていなくて、何も言葉が浮かんでこないのだ。
「本田くん、全然起きへんな」
と、いくらか長い沈黙のあとで、太陽が口を開いて言った。
池田はテーブルを挟んだ向こう側でピクリとも動かない友人の姿に目を向けた。
「本田くん」
と、池田は試し声をかけてみたけれど、案の定、反応はなかった。
「本田くん、あんまお酒飲めへんのに昨日かなり飲んどったもんな」
池田は昨日の夜のことを思い出しながら言った。本田は普段全くといっていいほど酒を飲まないのに、昨日はどういうわけか異常にテンションが高くて、かなりのハイペースで缶ビールを空にしていたのだ。
本田孝義は太陽と同じで、やはり池田の高校時代からの友人で、同い歳だ。
「たぶん、失恋したから、やけになってたんやって」
と、太陽が冗談めかして言った。
本田が思いを寄せていた女の子に振られたのは、つい先日のことだ。会社の後輩に好きなひとがいたらしいのだが、それとなく食事に誘って見事に断られてしまったらしかった。
「本田くんって、今まで一回も彼女いたことないんやろ?」
池田はいささか友人のことが不憫になって言った。本田はべつにとりたてて容姿が整っていないというわけでもないのだが、何故かこれまで異性と付き合う機会に恵まれてこなかったらしかった。たぶん本田は優しすぎるのだろうと池田は思った。優しすぎるというか、性格か引っ込み思案で、積極的に誘うことができないのがいけないのだろうと池田は想像した。
「今回は本田くんにしては珍しく積極的に行ったのにな」
と、太陽が同情するように言った。
「しばらくは立ち直られへんかもな」
と、池田は心配になって言った。
池田と太陽がそんなことを話していると、
「あかんて!あかんて!」
と、突然、本田が叫ぶように言った。
何がいけないのだろうと池田が本田の方に視線を向けてみると、どうやら寝言だったようで、本田の口から何がいけないのか説明されることはなかった。池田と太陽のふたりは顔を見合わせると声をあげて笑った。
「何があかんねん」
と、太陽が面白がっている口調で言った。
そんなふたりの笑い声で目が覚めたのか、本田は突然むくりと身体を起こすと、二人の方を振り返って、
「どないしたん?何かおもろいことでもあったん?」
と、不思議そうな表情で尋ねてきた。
それが面白くて、池田と太陽のふたりはまた声をあげて笑った。本田は何故自分が笑われているのかわからないらしく、いつまでもきょんとした表情を浮かべていた。
「本田くん最高」
と、池田は笑いすぎてちょっとお腹が痛くなった。
「マジでおもろいって」
と、太陽も笑いすぎて目に涙を滲ませながら言った。
何がそんなにおもしろいん?と本田がもう一度尋ねてきたけれど、池田も太陽もそのことを本人にいちいち説明するつもりはなかった。だから、ただニヤニヤニ笑っていた。そのうちに本田もふたりが何故笑っているのか問い正すことを諦めたようで、
「なんかめっちゃ頭痛いわ」
と、本田はしかめっ面を浮かべて言った。
「自分があんまお酒飲めへんのにあんなに飲むからやって」
と、池田は指摘した。すると、本田はちょっと首を傾げて、
「ほんまやな。昨日はなんであんなに飲んだんやろ」
と、自分のことなのに、さも不思議そうに言った。
その様子が面白くて、また池田と太陽のふたりは大きく口を開けて笑った。