羽化
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・地名などとは一切関係がありません。また、舞台となる時代背景を考慮し、当時の価値観を反映させた言葉が出てきますが、ご了承ください。
その女は、挑発するような目つきで、じっとこちらを睨んでいた。生贄の少女を抱き寄せて、首筋に鋭い牙を埋めている。着物がはだけて少女の瑞々しい肌が露わになっていた。
女の黒い瞳は新月の空のように深く、まるで吸い込まれるようだ。
女の口元から少し離れて鎖骨に垂れる赤い線、その先で、盛り上がった雫が羽を広げようとしている。先端が赤い。生まれ出ようとする蝶が、二人の周りを舞う同胞に加わろうとしていた。
「……綺麗……」
「美しい絵でしょう」
声をかけられてハッとする。飛び退くように振り向くと、にこやかに笑う男が隣で枠の中の二人の女を見上げていた。
背が低い。小人症だろう。私の腰ほどの身長しかない。画廊の間接照明のせいだろうか、その姿は薄明かりの中、まるで辺りの風景を背景に飛び出しているようだった。
「この女ね、モデルがいるんですよ」
「……どなたなんですか」
絵を見上げたまま話しかけられ、躊躇いながらそう尋ねる。
「筆者自身なんです」
「……そうですか」
描かれた女が実在する。それだけで胸が沸き立った。
「会ってみたいですか?」
「え?」
見透かされて、思わず声が出てしまう。
「私、その人と仲良しでね。紹介して差し上げましょうか」
私はなにも言わず、彼が見つめるものに目線を戻し、枠の下に設けられた金板の文字を読んだ。
蝶を吐く。
筆者の名前はなかった。
目線を額縁の内に戻す。
描かれた女はこの世の誰よりも女そのもののようで、それでいて、この世のどんな女にも似ている。
雪より白い肌なのに、瞬きをするたび、黒く見えたり、ベージュに見えたり、……生贄の少女も同様だった。
彼女こそが、本当に生きているひと。
その女の顔が、一瞬、自分の顔を写した気がした。
「どこに住んでらっしゃるんです、その御方」
こちらを見ぬまま男は名刺を差し出した。
受け取ると、「よござんす」と男は言った。
「行くかどうかはあなた次第」
男は踵を返し、画廊の奥へと消えていく。
名刺を見ると、名前のところは空欄で、ただ住所だけが記されていた。
彼女の住まいは鄙びた漁村の外れにある、丘の頂上に建った屋敷だった。それは窓がなく、壁は赤一色に塗られており、麓からは赤い花が咲いているように見える。
私は家に帰るなり支度して、駅に走って汽車に乗った。そのあとで村に三日かかると聞いて、お金を払って一等に移った。
毎晩水を染ませた布で身体を拭いた。彼女に会うとき卑しい女と思われたくなかった。
私は汽車にいる間ずっと彼女の絵を思っていた。夢の中でも彼女は、あの挑発的な目で私を見た。
会いたい気持ちが募り続け、三日目の昼、お気に入りの白いワンピースに着替えて汽車を下りた。
駅を出たところで偶々目が合った婦人に名刺を見せて道を尋ねた。すると微笑みから一転、婦人は不愉快そうに駅の向こうの丘を指差し、屋敷の話をまくし立てた。
「どうしてあなたなんかが招待されるの」
そう私を怒鳴りつけて婦人は去っていった。私は呆気にとられたが、衆目が集まる前にそこを離れた。
丘の麓に着くころには汗が額に滲んでいた。けれど休むことは考えなかった。少しずつ明瞭さを増していく黒い正門にひたすら歩き続けた。
近づいてゆくと、茨の絡みついた鉄柵の門が見えてくる。門と屋敷の間は枝垂れ桜に挟まれた道で、風に揺れる枝先から花びらがはらはら落ちて道に絨毯を敷いていた。
見惚れているとかつかつと音がする。見ると鉄柵の門の柱のそばで、襤褸切れを着た人が、平たい石を積み上げていた。
「もしもし」
声をかけると同時に塔は崩れた。それを気にした様子もなく、その人はあどけない声で「どうしました」と言ってこちらを向いた。
焼けただれた頬に蝶の刺青。目は白目をむいている。盲の、男の子だった。
「その……この屋敷の人に会いたいのですが……」
「しょうたいじょうをみせてください」
柵の向こうから手を伸ばされて、私はおずおずと名刺を手渡した。その子は火傷のひどい小さな手でぺたぺたと名刺を触ったあと、よござんすと言ってにこりと笑った。
「蝶々夫人がおまちです」
名刺を返してくれたあと、男の子は門を開けてくれた。私はお礼を言ってそそくさと立ち去った。枝垂れ桜に差し掛かったころ振り向くと、男の子はまた石を積み上げ始めていた。
甘くて白い雨を抜けたら屋敷はすぐそこにあった。
石畳を進んで玄関に行くと、中央に逆さの蜘蛛のレリーフがあり、その前足がノッカーを握っていた。ノックすると鍵が開いた。
扉の向こうは暗闇だった。甘い匂いが立ち込めている。日が差し込んで、象牙のような色合いの、裸足の指先がみえた。
ヴァイオリンのような高貴な声がした。
「ようこそ、ソムニウムへ」
マッチを擦る音。ランプに火がつき、彼女の顔を――ヴェールとマスカレードマスクに包まれた顔を照らした。
彼女は屋内だというのに英国式の、ヴェールのついたつば広帽子をかぶっている。奇抜な見た目だが、彼女の妖艶な笑みが常識を覆していた。
呆然とする私に彼女は近づくと、手を取って中に引き入れる。背後で扉が閉められて、明かりはランプだけになった。
「可愛らしいお洋服だこと。ささ、こちらへ。紅茶を淹れていますの」
彼女はそう言うと、私と腕を組み歩き始めた。その腕は死人のように冷たかった。
暗闇の中を進んでいくと四角い光が見えてくる。マーブルの簾に遮られて中の様子は見えなかった。漂ってくる紅茶の香りを嗅いだとき、ふと、後戻りはできないなと感じた。
私は彼女に導かれるまま簾をくぐった。
廿畳ほどの紅い部屋をシャンデリアが照らしていた。家具はヴィクトリア様式で統一されている。部屋の中央には円卓があって、ティーカップから湯気が昇っていた。
ダ・ヴィンチの最後の晩餐がかけられた壁際には籐椅子が並んでいて、顔や形の違う仏蘭西人形が腰かけており、私をじっと見つめている。
籐椅子は中途で途切れ、絵の具をただ塗りたくったように白い扉がある。そのドアノブにかかった太い錠前から目が離せなかった。
「そっちじゃないわ、いまはこちら」
背後から声をかけられる。扉が目の前に迫っていた。振り向くと、彼女が円卓のそばに立って手招きしていた。その姿に見惚れてしまう。
彼女の着た肩出しのドレスは、まるでヴェールのようにその肩から下にまとわりついている。黒に近い紅色は、彼女の白い肌から滲み出した静脈血のようだった。
布に浮かんだ太腿の曲線はミケランジェロの彫った聖マリアのように滑らかだ。
「そこにお座りなさい」
「は、はい」
私は幼子のように言葉に従い、彼女の向かいに腰掛けた。
「飲んでちょうだい」
私はカップを手に取った。口をつけると芳醇な香りが広がった。甘美な味だった。あまりに美味しくて、彼女に挨拶もしないまま私は紅茶を飲み干してしまった。それから、挨拶もしていないことに気がついた。
「失礼しました、えっと……」
「蝶々夫人で結構。わたしを知る人は皆そう呼ぶわ」
「蝶々夫人。紅茶、美味しかったです」
「よござんす。わたしのお気に入りなの。いくらでもあるから飲んでちょうだい」
彼女が微笑んだので、私も微笑んだ。それから世間話をした。道中の話をすると夫人は大変驚いて、汽車に乗ったことがないと話した。洋服の話になると、彼女は私の見立てがいいと褒めてくれた。その時は、母に頭を撫でられたように嬉しかった。
彼女と私はすっかり仲良くなった。
話題に一段落ついてやっと私は絵の話を切り出した。溢れかえりそうな思いを必死に押し留め、慎重に言葉を選んでいった。
「とても美しい絵でした。色使いも良くて、タッチも繊細で……蝶が羽ばたこうとする様子が実に見事でした。それに、それに――」
「背徳的で、興奮した?」
絶句する私に向かって、夫人は小さく口を開けて笑った。白い歯の間から、ぬらぬらと艶めく淡紅色の舌が覗いていた。
「そんな、……私は……」
「絵を見てここに来るのは、誰かを組み伏せる人か、組み伏せられる人しかいなかったわ。その上生きていると実感できない人ばかり。――隠さなくていいの、あの子もそうだった」
私には彼女が誰を指しているのかわかった。
「美しい娘だったわ。彼女も、私の絵を気に入ってくれた。彼女は生贄の少女が自分であればと、そう言ったわ。だから手伝ってもらった。まだ若かったから、体温が高かった。首筋に触れると肩を震わせて、冷たいです、なんて言うの。……彼女の首は柔らかかった」
全身が熱くなって、頭がぼうっとする。二人のまぐわいが目に浮かんでくるようだった。気を紛らわすために紅茶を飲んだ。飲み干したはずのカップから。
「彼女は父親に手篭めにされそうになって、殺したって言ってたわ。だから美しかった」
「……どういうことですか……?」
彼女は笑った。
「女は男のいのちを食べて美しくなるのよ」
「あなたは、食べたんですか?」
「あなたは、食べてみたい?」
「いやっ!」
私は耳を押さえて俯いた。逃げ出したい気持ちが湧き起こる。けれどそれを塗りつぶす昏い欲望が胸のうちに渦巻いている。
私の内にいる私が、私に微笑みかけている。血で口紅を塗った、いのちを喰らう私が。
突然脇の下から腕を回され、無理矢理に立たされる。彼女は私の腕を掴むと、力ずくで耳から離させた。
「わたしを見なさい」
マスクの奥の黒い瞳が私を捉える。写り込んでいる女は、裸にされた私だった。
押し付けられた乳房から、静かな鼓動が伝わってくる。私の鼓動と溶け合って、まるで一つになったみたいだ。
唇が動いて言葉を告げる。
「ねえ、本当は、あの絵のどこが気に入ったの?」
「それは、……」
「ここにはわたしとあなた、それとお人形さんだけよ。あなたがどんな娘でも、誰もあなたを傷つけない」
言いたくなかったのに、私の心は犯されて、必死に抵抗したけれど、遂に私は、誰にも言えなかった秘密を告げる悦びに抗えなかった。
「私に牙があれば良かったと、あなたに嫉妬しました」
黒い瞳に写った私が、嬉し涙を流していた。彼女は私の涙を吸ってくれた。
「あなたはわたしになりたい?」
「私は、あなたに、なりたい」
彼女は私に口づけをした。舌が絡み合い、体液を飲みあい、わたしと私は溶け合っていく。
私を片手に抱いたまま、わたしは、あの白い扉に向かった。意識が朦朧としはじめて、私は必死に自分を繋ぎ止める。もう少しの辛抱だ。
「私は生きる道を選んだ。この扉の向こうに行って、私は本当に生き始めるの」
鈍い音がして、錠前が外れる。わたしは無造作に床に落とした。
扉が開く。一面の暗闇。噎せ返るような匂いに、私の理性は溶けてしまった。
だけど、なにも怖くない。
部屋の中に突き飛ばされる。背後で、扉が閉じられた。
私の身体を後ろから、温かいものが包んでいる。
「わたしは殻。私にわたしの羽をあげる」
「私は蛹。これから羽を広げます」
私を包む殻が、私を行くべき場所へ運んでくれる。揺りかごで揺られるような安心感に満たされて、私は暗闇の中を進んでいく。
私の手を殻が導き、冷たいものに触れさせる。するりと殻が解けていき、温もりが私を離れていく。
「これはなに?」
「これは、私が食べるいのち。私に食べられたいと願った生贄」
わたしの声が彼方で響いて、差し込む明かりが闇を取り払う。私の目前に置かれていた浴槽が黄金の輝きを取り戻した。
口枷と目隠しをされた男が首を浴槽の外に出すようにして横たえられていた。見ると、その全身も縛られていた。
男がもごもごと口を動かしている。首を傾げる私の前で、彼女が男の口枷を外した。
「おめでとう」
私の胸に喜びが満たされた。
「ありがとう」
そうして、わたしのナイフが生贄の首を切り裂いた。
いのちのシャワーが、私とわたしに降り注ぐ。お気に入りの白いワンピースが、紅く染まっていった。
「ほら、横を見て」
悦びに震える私の肩を動かして、私を明かりを向かせる。そこには等身大の鏡があった。横を向いた私の後ろで、わたしが男の首筋に口づけている。
私にわたしが口付ける。口の中でなにかがかさかさ蠢いた。慌てて口を離すと、鏡の中、わたしと私がシャボン玉のように蝶を吐き出している。
「これはわたしが私に捧げたいのち。ねえ私、わたしにいのちを捧げてくれる?」
「ええ、もちろんよ、わたし」
「それじゃあ、向こうをむいていて」
私はわたしに従って、鏡を真正面から捉えた。わたしが私に覆いかぶさるように、後ろから抱きしめる。そうして、わたしが私の首筋に牙を埋めた。
肌が裂ける痛み、口の中に広がる熱さ、私の身体からわたしの身体へ、わたしの身体から私の身体へ、巡るいのちが気持ちいい。
いのちのシャワーが一斉に羽化した。
淡く光る紅い蝶々が私の周りで乱舞する。
紅い光が燦めいて、
溶けて、蕩けて、
私がわたしに、
わたしが私に。
鏡の中で、わたしがマスクを外した。
わたしは、私の顔をしていた。
この作品は以下の「蝶を吐く」企画参加作品の一枚の絵から着想を得ました。
ttps://twitter.com/sakamotoyms/status/867004751254245376
作品に許可を出してくださった坂本 @sakamotoyms さん、本当にありがとうございました。