表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

雪山の恋のキューピット

作者: 烏賊月静

  プロローグ


 昔々、と言って始まるのが、昔話における一つの定型となっていて、最近のことは先日、や近頃、なんて言って始まるのが定石となっている。


 では、昔と言うほど昔ではなく、最近と言うには無理があるような微妙な過去のことは、なんと言って話し始めれば良いのだろうか。


 具体的な日付から始めれば想像しやすいのだろうけれど、なんだかそれは気に入らない。

 しかし、何か言い回しが思い付くわけでもなく、迷っていても始まる気配はない。


 ちらりと隣で読書をしている女性を見る。

 こんな時、彼女のような人なら適切な言葉を使いこなすのだろうな。


 はぁ……。


 自分の語彙力に溜息を吐きつつ、気持ちと頭を切り替える。

 どうやらこれ以上考えても何も思い付くことはなさそうだ。

 ここらで上手い言い回しは諦めて、そろそろ語り始めるとしようか。

 昔のように遠く感じながらも鮮明に思い出せる、ある一冬の物語を――。



  1


 赤や黄色に色付いた葉がなくなり、いつの間にか防寒具が手放せなくなった冬の中頃。田舎から見たら都会であり、都会から見たら田舎である中途半端な街の中で、俺は凍えるような風を肌に感じながら自宅近くにある図書館に向かっていた。


 徒歩で十分弱ほどの場所にあり、郷土資料館が併設されている市営の大きな図書館だ。

 大学のために春に越してきて散策した時に見つけて、以来いつか行こうと思っていたのだが、結局半年以上も経ってしまった。

 まぁ、ただ面倒で行かなかっただけなのだが。


 さて、近場なのに面倒だと言っていたほどの面倒くさがりの俺が、なぜ図書館に行こうと思ったのか。それは、この周辺の地にはとある伝説が残されていると知ったからだ。

 アパートの隣人が教えてくれた話で、曰く「この地には雪女の逸話がある」と。

 この辺りでは有名な話のようで、少し聞いて回ると、多くの人が伝説の存在を知っていた。

 しかし、誰も詳しくは知らないようで、口を揃えて「図書館に行くと良い」と言っていたというわけだ。


 正直なところ、童話は小さな子供が読むものだし、インターネットで調べれば出てくるような有名な話ということもあってあまり興味がない。

 だがよく考えてみると、作り話であるはずの雪女の話が、伝説という形でさも実際にあったかのように語られているのはおかしい。ということで興味が湧いてきたのである。


 この違和感に気付かなければきっと図書館に行くことはなかっただろう。

 過去の俺の直感に感謝だ。


 図書館に着くと、少し暑いくらいに暖房の効いた空気が迎えてくれた。

 冷えた手を擦りながらとりあえず館内を歩き回る。


 外観からして分かっていたことだが、大きめの図書館なので本棚を見て回るのは時間がかかりそうだ。

 入り口付近の館内図で探すと、どうやら目当ての本は郷土資料館の方にあるらしく、図書館側には一般的な雪女の話しかないようだった。

 郷土資料館にある本にも同じようなことが書いてある可能性もあるのだけれど。


 郷土資料館は精々学校の教室くらいの大きさだと思っていたし、どうせ歴史か何かが分かるものが少し展示されているだけかと思っていたのだが、小さく見積もっても体育館くらいの大きさがあり、資料コーナーと展示コーナーに分かれた豪華なものとなっていた。


 俺は一通り展示を見てから、資料コーナーで雪女の話を探すことにする。

 しかし大量にある資料は分類分けされているにも関わらず、図書館になどほとんど行かない俺にはどう探せば良いのかが分からず、目当ての資料を見つけることはできなかった。


「すみませーん。資料を探しているのですが見つからなくて、どこにあるか分かりますか?」


 自分で探すのは諦めて、カウンターの向こうにいた女性の司書さんに声をかけた。


「はい。なんの資料をお探しですか?」


 その女性は作業をしていたようで、パソコンの画面から目を離すと控えめな眼鏡越しにこちらに微笑みかけながら応じてくれた。

 いかにも「できる女」という感じで、後ろでまとめた色素の薄い長い髪とエプロンがとても似合っている。


「ええと、この周辺の地域に伝わっている雪女の話についての資料を探しているんですけど、ありますか?」

「はい。それでしたら伝承についてまとめた資料と、話の舞台となっている大裏山の模型がございます。物語調で書かれている資料が分かりやすいと思いますがどうしますか?」


 流石は司書さんと言うか、できる女と言うか、とにかく早くて丁寧な対応だった。

 

「あ、じゃあそれがどこにあるのか教えてください」


 早さに圧倒されつつ質問を重ねると、


「こちらです。付いて来てください」


 そう言って司書さんは、俺が最初に探した棚の一番上の左端の本を取って差し出してきた。

 どうして探し物というものは探し始めた場所にあるのだろう、とそんなことを思う。


「この本ですね。どうぞ」

「ありがとうございます」


 差し出された本を、お礼を言って受け取り、俺は近くにあった椅子に座ってその本を読み始める。


 小中学生の国語の教科書に載っているような物語より短かったそれは、大体五分もかからずに読めたと思う。

 それを知っていたのか司書さんは俺が読み終わるのを待っていたようで、丁度本を閉じたタイミングで俺に声をかけてきた。


「どうでしたか?」


 そこにいたままだったとは思わず、と言うか読むことに集中しすぎて存在すら失念していた司書さんからの問いに、数秒のラグを挟んでから口を開く。


「実はですね……一般的な雪女がどんな話なのか知らないまま読んだので、よく分からないのですよ。普通の雪女の本がどこにあるか分かりますか?」


 そう、読んだ後で気付いたのだが、俺は雪女の話をちゃんと読んだことがなかったのだ。

 流石に知らないと言うのは大袈裟だったが、大まかな流れしか知らないせいで比較ができないのが問題なのだ。


「普通の雪女の話でしたら、図書館側の童話コーナーにあったように思いますが、丁度今借りられてしまっているんですよね。どうしましょうか……」

「全部借りられてしまっているんですか?」


 一冊くらいあるのではないかと質問してみたが、


「はい。そもそもこの図書館に普通の雪女の本が一冊しかないんですよ。」


 と返されてしまった。

 普通じゃない雪女の本の方は何冊かあったし、おそらく人気で言ったら普通の方が劣るのだろう。


「急ぐようでしたら内容は覚えていますので、私が話すこともできますが……」


 インターネットで調べれば出てきそうだし本にこだわらなくても良いかなと考えていると、まさにオロオロといった感じの司書さんがおかしな提案をしてきた。

 知的な雰囲気が崩れて可愛い。これがギャップ萌えというやつか。

 なぜそんなに焦っているのかは分からないが、可愛いので説明をお願いした。


「で、では語らせていただきます」


 今更恥ずかしくなったのか、顔が真っ赤になって声も頼りないものとなっている。

 司書さんはコホン、と咳払いをして語り始めた。


『あるところに、木こりの親子がいました。父の茂作と息子の斧吉です。二人は雪の季節には鉄砲を持って猟に出るのですが、その日は生憎の空模様で、雪山で吹雪に見舞われてしまいました。

 そんな中どうにか木こり小屋を見つけた二人は囲炉裏の火に当たり、疲れからすぐに寝てしまいました。

 風の勢いで戸が開き、雪が舞い込んでくると、囲炉裏の火が消えてしまいました。あまりの寒さに斧吉が起きると、そこには若く美しい女性がいました。雪女です。

 雪女は眠っている茂作に息を吹きかけ凍らせてしまいます。

 それを見た斧吉が助けを乞うと、雪女は今夜のことを誰にも言わないことと、言ってしまったら命の保証はしないという約束をして去って行きました。

 それから一年後。斧吉は雨の日に助けたお雪という女性と夫婦になり、子供にも恵まれ、幸せな日々を送っていました。

 そんなある日、斧吉はお雪のことを見て雪女に会ったことを思い出し、話してしまいます。

 すると突然、お雪の着ていた着物が白くなり、悲しそうに言いました。


「約束を破ってしまったのですね。子供のことはよろしくお願いします。幸せでした。」


 雪女であるお雪はあの夜のことを話されてしまったのでもう人間でいることができません。

 こうして、お雪は姿を消したのでした』


 小学生の時にしてもらった読み聞かせを思い出すような優しい読み方で、司書さんは一度も閊えることなく語りを終えた。

 物語の暗記なんて、最早、流石司書さんという域を超えてしまっているのではないだろうか。

 当の本人はできる女にとっては当たり前だとでも言いたげな涼しい顔をしているが、俺には信じられないことだった。


「どうでした? 私の語りは。噛まずに言えた気がするのですけど」


 涼しい顔がドヤ顔になり、控えめに噛まなかったことを自慢している。


「すごいですね。噛まないどころか閊えることもなかったんじゃないですか? 物語一つを暗記しちゃうなんて俺には考えられませんし、すごく良い語りでしたよ」


 そう素直に感想を述べると、


「本当ですか? ありがとうございます」


 司書さんは嬉しそうにペコリとお辞儀をした。


「こちらこそありがとうございます。これで二つの物語の違いが分かりました」


 俺もお礼を言って頭を下げ、ここまで来たらと頼みごとをすることにした。


「ついでと言いますか何と言いますか、今からまとめてみようと思うのですが、間違った解釈をしていないか見ていただけないでしょうか」

「良いですよ」


 司書さんは館内を見渡し、自分がいなくても大丈夫だと判断したのか、むしろ見たい、という風に前のめりになりながら快諾してくれた。


 再び机に向かい、鞄から取り出したレポート用紙にシャープペンシルでまとめを書いていく。

 まだ時間が経っていないためか、スラスラと書くことができた。


 普通の方は、先ほど司書さんが話してくれた通りで、雪女と結婚した斧吉が約束を破ることで去って行ってしまうという話だ。

 対してこの地に伝わる話はこうだ。


『あるところに木こりの男と、その恋人がいました。

 二人はある日山に入り、楽しい時間を過ごしました。

 しかし、帰ろうかと思ったときに雪が降ってきてしまい、急いで帰ろうとしても視界が悪いせいか帰り道が分かりません。迷ってしまったのです。

 段々と雪が強くなり、寒さも厳しくなってきた頃、フラフラと歩いていた二人は一つの小屋を見つけました。

 これで助かると喜び小屋に入ると、そこには誰もおらず、あるのは少し埃っぽい囲炉裏と座布団だけでした。

 それでも雪と風はしのげるし、いくらか寒さもマシになるだろうと二人は身を寄せ合いました。

 すると小屋の扉が勢いよく開き、雪や冷気とともに一人の女が入ってきました。

 ボサボサの長髪に、青白い顔をした着物姿の女を見て木こりはある童話を思い出します。


「あれは、もしや雪女か?」


 木こりの呟きに恋人が怯え、後ずさりします。

 女は動きません。

 何もしてこないのを不審に思いながらも、木こりはこれなら逃げられると思いました。

 しかし小屋の入り口は一つ。どうにか女をそこからどかさなければ出ることも逃げることもできません。

 どうしたものかと考えていると、女がついに動きました。

 恋人に向かって冷気を吐いたのです。

 木こりは咄嗟に恋人を押しのけ自分が盾になることで女の攻撃を阻止しました。

 木こりに阻まれた女は、何かを考えるような間をおいてから口を開きました。

 また冷気が来ると思って木こりは身構えましたが、女の口から発されたのは壊れた鈴のような声でした。


「……もう、ここへは来るな。二度とな。さっさと帰って、ここでのことを広めろ。約束するなら見逃してやろう」

「分かった。ここにはもう来ない。お前と会ったことを広めよう。これで見逃してくれるんだな?」


 女はそれ以上何も話しませんでしたが、すぐに踵を返してどこかに行ってしまいました。

 それから木こりと恋人の二人は山を出て、周りにある村や町にその話を広めていきました。

 それからほどなくして木こりと恋人が結婚すると、二人が広めた話は「山小屋で雪女に会うと幸せになれる」というものに変わり、雪女がいた小屋には多くの人が訪れるようになりました』


 これをまとめて司書さんに見てもらうと、


「ストーリーは完璧ですね。実は本には書いてない裏話があるので捕捉しますと、この辺りに伝わる話は普通の物語で木こりの下から去った雪女が出てきているとされていて、幸せそうな二人に嫉妬して攻撃しようとするものの、かばう木こりに愛した人が重なってできなかったり、それが辛くて恐怖の対象である自分の話を広めて小屋に近付かないようにしたら恋のキューピットとして広まり来訪者が増えたりと、背景が分かると見え方も違ってきますよね」


 と俺の作ったまとめを完璧なものにしてくれた。

 相変わらずな司書さんに驚くと同時に、俺の中で段々と司書というものがハイパーエリートなものになっていくのを感じた。


 こんなに手伝ってもらったからには、ちゃんとお礼をしないといけない。そう思って司書さんに声をかける。


「今日はありがとうございました。司書さんのお陰で伝説のことがよく分かりました。手伝ってもらったので何かお礼をしたいのですが……」

「いえいえ、私も楽しかったですし、お礼なんていいですよ」


 案の定、断られる。

 しかし断られるとしたくなるもので、俺はもう一度聞いてみることにする。

 断じて司書さんが可愛いからとかそういう下心はない。


「俺がしたいんです。どこかに行きたいとかないんですか?」


 そう言うと司書さんは顎に手を添えながら数秒考えると、


「そうですね……でしたら大裏山に連れて行ってください。あそこはひとりで行けるような場所ではないので」

「大裏山……雪女の小屋があるという、あの模型の山ですね。分かりました。一緒に行きましょう」


 ショーケースの中の模型を指差しながら言う。


 それから俺たちは連絡先を交換し、いわゆる「聖地巡礼」の約束をした。

 重ねて言うようだが、雪山デートだとかそんなことは思ってない。



  2


 大裏山に行くその日、俺と司書さんは山に入る少し前の喫茶店で待ち合わせをし、コーヒーを飲んでいた。

 体が温まるのを感じながら二人で今日の予定を確認する。


「今、丁度午前十時ですね。ここからだとお昼過ぎに着くくらいでしょうか」


 そう司書さんが言うので俺も腕時計を確認してそれに応じる。


「そうですね……順調にいけばもう少し早くつくかもしれませんけど、素人ですしゆっくり行きましょう」


 昼食を小屋で食べることに決定し、店を出た。そして、雪にまみれた大裏山に向かって歩き出す。


 大裏山は山と言いつつも、街自体が高いところにあるせいで上下の移動はあまりない。それどころか、雪のない季節なら小屋まで歩くのも楽で、早ければ四十分ほどで着くのだそうだ。

 今は雪――それもまだ誰も足を踏み入れていない新雪――のせいで相当遅い進行となっている。思っていた以上に雪の中を歩くのは大変であった。

 雪を掻き分け進んでいると、不意に後ろから声をかけられた。


「あの、大丈夫ですか? 辛そうですけど……なんなら代わりましょうか?」

「気遣いありがとう。でもまだ大丈夫です。このために来たんですから最後まで先に歩きますよ。速いってことはないだろうけど、何かあったら何でも言ってください」


 声をかけるほどしんどそうに見えているのかと自分の体力のなさを不甲斐なく思いながら、俺は強がって半分意地で、もう半分は見栄で前を歩き続けた。


 それから二時間ほど歩くと、目的地の小屋に着いた。

 手足の先はキンキンに冷えているのに息が上がってとても暑い。登山の厳しさの一端を垣間見た気がする。

 木製の小屋は相当昔からあるようだが、今までに何度も建て直しが行われているそうで、軽く見た限りでは木が腐っているところや破損した部分は見受けられなかった。

 中には囲炉裏と鍋などの調理器具、それと座布団が置いてあった。


「使われていないという割に中は綺麗だな……。もしかして本当に雪女がここに住んでいるんじゃ……?」


 なんて冗談を言い、俺はリュックサックの中から持ってきた簡易ガスコンロと鍋に水を入れ、お湯を沸かした。

 囲炉裏で燃やす燃料がないからだ。

 その間に司書さんは携帯用のまな板と包丁でネギを切っている。

 今日の昼食はインスタントラーメンだ。


 寒い中司書さんと食べるインスタントラーメンは、普段店で食べるラーメンよりも美味しく感じる。

 眼鏡を曇らせる定番ネタを披露してくれた司書さんの茶目っ気が良い調味料になっているのかもしれない。

 楽しく談笑しつつ俺が先に食べ終わると、司書さんは自分の話をしてくれた。


「今日は本当にありがとうございます。私、冬の間にここに来るのが夢の一つだったんです。学生のころから本にはまって、友達に引かれるくらいに読み漁って、有名な作品の舞台を巡ったりもしました。あれはあれで楽しい時間でした。でも、そのせいで恋愛なんてものには縁がありませんでしたし、今では友人と呼べる人がいるかどうかも怪しいところです。司書なんてやってると出会いもありませんし、あなたが引かずに、むしろほめてくれたの、あなたが思っている以上に嬉しかったんですよ」


 そう言う司書さんの顔は、寒いからか、暑いからか、それともほかの理由からか、真っ赤に染まって嬉しそうだった。


「あの暗記朗読を聞いて引く人がいるんですね……まぁ、それが普通だと言われればそんな気がしますけど。でも、俺はそうやって話してくれた司書さんのこと、すごいと思ったし、熱くなれることがあるのは素敵なことだと思いますよ」


 俺もきっと、あの時可愛いと思っていなければ、断っていただろう。

 断らなかったお陰で今の時間があると考えると、過去の俺にグッジョブ、と言ってやりたい。


 司書さんも食べ終わり、二人で片付けをする。

 司書さんの顔はもう赤くなかったが、明るい表情なのには変わりなかった。


 片付けも終わり荷物をまとめている時に、なんだか恋人みたいだなと、今更な感想が浮かんだ。

 その時、バンッ、と音を立てて扉が開き、小屋の中にものすごい勢いの吹雪が入ってきた。

 扉付近にはよく見えないが人影が立っている。

 司書さんをかばうように前に立ち塞がると、吹雪が弱まり人影の正体がはっきりと見えた。

 真っ白な長い髪が垂れ、血の気が感じられないような青白い肌をした着物姿の人。


 否、それは人ならざる者。


「……雪女、か」


 そう言って俺はこの前聞いた話を思い出す。この状況をどうにか脱するために。

 確か伝説では恋人を守ろうと動けば見逃されたはずだが、果たして上手くいくだろうか。


「どうするんですか?」


 後ろから弱々しい司書さんの声がする。絶対に守らなくてはならない。


「荷物を持ってください。俺が盾になりながら進むので扉から出て走りましょう」


 短く作戦を伝えると、司書さんは何も言わずに頷いてくれた。

 と同時に、雪女がゆっくりと歩いて向かってくる。

 中央の囲炉裏を使って一定の距離を保ち、どうにか扉側まで行く機会を窺う。

 時間がゆっくりと流れているようで、何分もそうしているような感覚に耐えて扉に近付き、


「――走れ!」


 俺の叫び声を合図に、俺たち、そして雪女も走り始める。

 小屋を出る時に扉を閉め、雪女の妨害をした。

 来る時にある程度踏み固めたとは言え雪の上は走りづらい。

 空気が薄いということもあってすぐに息が上がってしまう。


 ある程度走ってから振り向くと、雪女が小屋から出てくるところだった。



 どのくらい走っただろうか、途中で道が分からなくなり、木が生えている地帯に逃げ込んだところで司書さんがもう走れないと止まった。

 雪女の位置を確認しようと振り返ると、幸いなことにもう追ってきてはいなかった。

 上手く撒けたのだ。


 ひとまずは安心だとホッとして司書さんを見ると、長く全力疾走したせいで少し危ない呼吸をしている。

 荒げたままの呼吸を何とか抑え込み、俺は司書さんに近付く。


「司書さん、安心、してください。撒いたみたいです。逃げ切ったんですよ、俺たち」


 それでもまだ途切れ途切れの言葉を紡ぎ、司書さんを落ち着かせる。

 時間が経つに連れて段々と具合がよくなっているからもう大丈夫だろう。

 俺は近くの木にもたれかかって座り、司書さんの回復を待った。


「すみません、急に倒れてしまって」


 息を整えた司書さんが最初に言ったのは謝罪の言葉だった。


「何も謝ることなんてないですよ。逃げ切れて本当に良かった。今はそれだけで十分です」


 頭が回らず、思い付いたことを言うだけだが、それで司書さんはようやく安堵の色を見せた。

 不本意ながらも雪女のお陰で距離が縮まったように感じる。


 それから帰り道、現在地が掴めないまま彷徨い歩き時間が過ぎて、夕日が見える時間になった。


 するといきなり木々がなくなり、なだらかで純白の雪の坂が目の前に広がった。

 それだけでも十分に感動的な情景なのだが、更にもう少し歩いて夕日の方を見ると、綺麗なオレンジ色が真っ白な雪のスクリーンに映し出され、言葉が出ないほどの幻想的な光景を生み出していた。


 ふと司書さんの方を見ると、驚きに固まった顔のまま涙を流している。

 このまま時間が止まってしまえば良いのにと、叶わない願いが生まれるほどの景色。

 この景色と今日の出来事は、きっと死ぬまで――いや、死んでも忘れないだろう。


 夕日が沈み、満天の星空が見えてくる。

 二人で時間を忘れて余韻に浸っていた代償として、夜中に雪山を歩くことになったが、今となってはそんな些細なことはどうでも良くなっていた。

 空を見上げ、そこに、あるものを見つけて俺は口を開いた。


「なぁ、月が綺麗ですねって言ったら通じるか?」


 通じると思って言ってしまったが、これは夏目漱石が英語の「I love you」を訳した時に使ったフレーズで、知らない人も多いらしい。


「ふふ、勿論通じますよ」


 ぎこちなく口調を変えた俺の隣で、変わらない司書さんが小さく笑った。

 通じたことの安心はあるが、それよりキザなことを言って笑われているようで恥ずかしい。

 でも、愛の告白なんて大抵恥ずかしく感じるものなのではないだろうか。

 しかし、今のは流石にないなと思い、


「あー、今のなし。今更だが恥ずかしくなってきた」

「なしなんですか? 伝わる相手に言っておくべきですよ、そういうことは」


 なんて言って勿体ぶって、そんなやりとりをして、勇気を出す時間を稼ぐ。

 ああでもないこうでもないと、言いたいことをまとめていく。

 きっと上手くいく。そう自分に言い聞かせる。

 だがそれも長くは持たず、ついに本題に入る時がきてしまった。

 だから言う。寒い中でも冷めない熱を一言に込めて。


「好きです。司書さん」

「死んでも良いわ」



  エピローグ


「――ん。――さん。どうしたんですか? ボーっとして」

「ん、ああ、今日は節目だからな、雪山でのことを思い出してたんだ」


 今日は俺たち二人――とある地の伝説の通りに結ばれることとなった一組のペア――にとって大切な日だ。

 

「今度あの山にもう一度行ってみましょうか」

「今度は雪女に追われないと良いなぁ」


 提案に軽口で返す。そんな仲の二人。

 一体今日がなぜ大切な日なのかは他の人には分からないだろう。

 意外とどんなことがあったのかなんてことは大切ではないのかもしれない。



 今ある幸せと、これからあるはずの幸せがそこにあれば――。


お読みいただきありがとうございます。


よろしければ、感想、意見などをお願いします。



夏目漱石の「月が綺麗ですね」は有名な話だと思うのですが、その返しはあまり知られていないのではないでしょうか。

この話では「あなたのものです」と直訳できる「Yours」を二葉亭四迷が訳した時のフレーズを返しに使いました。

要はOKを出したわけです。


以上、本文内にどうしても入れられなかった必要な人には必要な解説でした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ