その内はまだ見ぬ世界を
「…あぁ、そうか」
ピタリと、黒い手はシエラを掴む寸前で止まる。そして何もなかったかのように空気に解けるように消えていく。
最後に五指一本一本が苦しげに動き、消える瞬間までシエラを掴もうともがく終わりの姿を見せる。
シエラが両手を下ろし、ベオが倒れている方に身体を向けた。
その顔はさっきまでの邪悪な顔ではなかった。
いつもの、心が酔いしれるほど綺麗で美しいシエラだった。
でもその表女は暗く、両目からは涙が流れていた。
その姿はベオも初めて見る。
おそらくあの雨の日、あの時よりも鮮明に涙が分かる。
「シエ…」
ベオがなにか言いかけた時、近くで倒れていたリイナの死体がビクンと動き出した。
リイナの体は起き上がると「ごが……ぁ…」とぐちゃぐちゃになった顔から苦し気に人語を発しようとしていた。
「…な、なじぇ…?な、あdな? ワが……カミ…ど……こ…?」
必死に口に出したその言葉は聞き取り辛かったが、ベオは「なぜ?なんで?我が神はどこ?」と意味を理解した。
理解してから次にシエラを見る。
シエラは確かにシエラだ。
けど、何かが違った。
その体の線が全て神々しく、シエラの存在そのものが神のようであるのだ。
神が降ろされた。
そう思ったのだが、シエラが「あなた…」とそう呼んだので彼女で間違い無いと思った。
神は現れなかった。
失敗したんだ!
やったんだ!
なぜか必死に頭の中で言い続ける。
おかしい、おかしいはずなのに、シエラが助かって喜ぶはずなのに、どうしてか泣いていた。
それは未来で何が起こるか分かるからなのか分からない。
「私は幸せだった、こんな結末でも私はあなたに出会えてよかったって今でも思う」
やめろ。
そう言いたいのに言葉が出ない。
押さえつけられているのもあるのか、呼吸がうまく出来ない。
「リイナを喪ったのが私の心残りだったけど、それでもあなたに別れを言えるんだから…ね」
やめてくれ!
大きく口を開けて呼吸を整えようとしー
「私の狂った世界に光をさしてくれた貴方は間違いなく私の英雄。何度も言ってたし、何度も思っていた」
「やめて…くれ!」
それだけ言った。
何を止めろかは言っていない。
でもシエラは。
「決めたの、こうしないとまた同じ悲劇が起きるかもしれないから…もう、リイナのような人を出したくない。これが、二百年もの間、人を殺してきた化け物が行う救済。作られた命が行う最後のわがまま…」
「なにを…」
「王子の肉体を使って作られたこの私を消す」
絶句。
何も言えない。
でもシエラはその先を言う。
「さっき話したんだ、この体を消さないと次の『』が現れるって。そうなれば世界…難しい単語のものも全て悪神に奪われる。だからこれは苦渋の決断だっ…て、それでも私は願った、貴方が無事に生き続けられる未来を」
「誰だ!?そいつは誰だ!!」
「それは…」
と、シエラが言いかける前に絶叫が響く。
絶叫は黒い化け物から発せられ、その胴体には剣が一本刺さっていた。
それはシエラの愛剣。
リイナの剣だ。
彼女の剣を刺したのはリイナだ。
正確にはリイナに取り憑いた『』。
彼はヒューヒューと滅茶苦茶になった破顔で必死に声を発する。
「…ひゃ、ぎぇめっmろ……そ…な…ヒド…う……や、?め…りょぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!」
彼は指をシエラに向けて黒い化け物に言った。
「こ、ろせぇ!」
化け物は黒い触手、幾重もの腕を身体中から出すと一直線にシエラに伸びる。
対してシエラは涙を流したまま何もせずにいた。
そして、黒い手と触手がたどり着こうとしていた。
その直前で地面が隆起し、下から植物の茎や根が伸びる。
いや、それだけでは無い。それ以外にも奇妙な形状に変化した鉱石や重力に逆らうように水が飛び出してきた。
それらはシエラの壁になりながら、さらには化け物の伸ばしてきた全ての得手に対して攻撃を始める。
石が腕を潰し、鉱石が鋭くなって触手を地面に突き刺す。
水は絡まるように動くと触手を束にして動きを封じ、植物は強力な締め付けで縛り上げるとそのまま千切る。
怪奇極まりないこの光景。
ベオはもちろんのこと、あのリイナですら声が出なかった。
【VAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!】
化け物が発する奇声は大音量を超え、地面を揺るがすほどだ。
それでもシエラはその声に退くこともなく、淡々と手足を切り落としていく。
そのまま彼女自身歩いてくるので触手はどんどんなくなり、間合いを詰められる。
危機感を察したリイナは急いで黒い化け物から離れる。
「きい…ひぇ…ない!き……-う…そだ…ひょ?」
狼狽しながら、シエラに背を向けて必死になって逃げだす。
シエラはその背中に鉱石を当てようと投げ飛ばすが、その鉱石を化け物が触手を伸ばして軌道上で掴んで止める。
それにはシエラも驚くが、それでも慈しみを込めた目で優しく語りかける。
「そう、あれでも信用していたんだ。貴方たちは騙されても、傷つけられても、信じていたんだ…」
【AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!】
「でももうおしまい、次があるのなら…ちゃんと自分の人生を生きて」
そう言ってシエラは化け物の体に触れる。
すると化け物は、黒かった身体が下から崩れていき、全体が崩れた時には全てが粉々になって風に運ばれて行く。
ベオにはその風から『ありがとう』の声を聞いた。
混ぜられた人間の声か幻聴か分からなかったが、それでも…
と、そうしているうちにシエラにも異常が見られた。
彼女の足元が、まるで砂のように崩れ始めた。
「おい、シエラ!」
拘束が解けたベオはすぐさま彼女のもとに走り出す。
足を失って倒れるシエラを間一髪受け止める。
そして見た、彼女の足がどんどん消えて行くところを。




