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「すみませんね。お忙しいところ、わざわざ足を運んでもらって」
白ひげをたくわえた大柄な男が、神楽に会釈した。神楽もそれに合わせて席を立ち、頭を下げた。
「や、や。やめてくださいな。座ってください。座り心地の悪い椅子で申し訳ないけんども」
男はそう言って、神楽に着座を促した。神楽が腰を下ろすと、古いパイプイスはぎい、と嫌な音を立てた。
「今回、木内姫子容疑者の取り調べを担当しております、赤坂、ちゅうもんです」
男、赤坂は手帳も提示さずにそう名乗った。神楽はその言葉を疑わなかった。ここは長野県にあるN警察署の取調室である。
「悪かったですね。東京からここまでじゃ、新幹線でも一時間半、ってところですか」
「ええ、まあ。でも、仕事のついでですから」
「なんでも、先生はこちらの方へ取材で、やってきていたとか。あ、先生は失礼か。えっと、高梨さん? それとも、神楽さんとお呼びした方がいいかな」
「……どちらでも構いません」
「じゃ、神楽さんで。へへ、実は、私も神楽さんの本、いくつか読んでましてね。こうしてお会いできて光栄です。って、んな話はどうでもいいな。えっと……」
赤坂は一方的に一人で喋った後、黒い表紙の手帳をペラペラとめくった。
「ちょっと、事件の流れを確認させていただきたくってね。ええ、3人の殺害事件ではなく、センセ……神楽さんの誘拐事件について」
「はい」
「先生は事件当日、今回の事件の被害者である坂木さん、弓田さん、美浜さんと呑みに行くために長野にやってきた。そして、店付近の路地に入った直後、何者かに頭部を殴られ、車で軽井沢方面へと連れ去られた」
車で、かどうかは覚えていなかったが、神楽は頷いた。
「神楽さんは木内の両親が所有する別荘で約1日、監禁されていた。監禁されている間、とくに木内容疑者から暴行の類は受けなかった。そうですね」
「はい。食事も三食取れましたし、暴力などもありませんでした。ただ、手足は拘束されて、ベッドに寝かされていました」
「なるほど。あ、ちなみに、あなたを連れ去る際、木内に協力したのは真島という男です。まぁ、いわゆる暴力団の下っ端ですな。あまり大きな声では言えませんが、木内の両親は、そういった団体に融通を利かせることができるくらいには、大物です。もちろん、3件の殺人事件を帳消しにできるほどじゃないですがね」
おそらく、その事実は公にはされないのだろう。「美穂」というのはもちろん偽名であったが、木内姫子という名前ももしかしたら……。だがどちらにせよ、「木内姫子」は、普通の犯罪者として、法で裁かれる。
「で、あなたが誘拐されたその翌日午後6時に、木内はあなたを置いて別荘を飛び出し、凶行に至った」
「ええ。木内はなんだかひどく慌てた様子でした。その際、彼女は私の手を拘束することを忘れました。私は彼女がいなくなった後、すぐに足の縄を解いて、部屋を抜け出して玄関に向かいました。屋敷に人がいないのは木内から聞いて知っていましたから。ただ……」
「玄関の扉が閉まっていた」
「はい。外から錠がされていました。その他の部屋にも鍵がないと入れなさそうでしたし、廊下や居間には窓はありませんでした。私は一階の部屋に閉じ込められていたようですが、二階へ続く階段も見当たりませんでした。おそらく、どこかの部屋に隠されていたのではないかと……」
手足は自由になったが、密室が部屋から館全体になっただけだった。
「それで、あなたはあんな行動を?」
「はい。玄関の錠を開けるには、やはり木内にもう一度開けてもらうしかないと思いました。でも、ただベッドに横たわって彼女の帰りを待っていただけでは意味がありません。そこで、私は考えました。私が何らかの方法で屋敷から抜け出したと木内に思わせればいいと。そうすれば、木内は慌てて、錠を外したまま私を探しに行くと思ったから」
神楽がそう言うと、赤坂は感心したように笑った。
「素晴らしい機転、さすがは作家さんですな。そして、木内はまんまとその罠にはまった」
「彼女はその夜遅く……深夜二時くらいに戻ってきました。すぐに私が監禁されていた部屋にやってきましたが、私が隠れていることには気づかなかったようです。あらかじめ床に置いてあったメモ書きを見て、慌ててまた家を飛び出して行きました」
「『警察が来た。すぐに逃げろ』と書かれたメモ書きですな。あれもいい手だったと思いますよ」
「ええ、私がいなくなったと知って、木内の顔は真っ青になりました。すぐそばの甲冑の中で、私が息を潜めているとも知らずに」
滑稽な姿だった。木内はあの時、奇声をあげながら部屋を飛び出していった。その姿を見て、神楽は自分の作戦がうまくいったことを確信したのだ。だが、滑稽さで言えば神楽も人のことは言えない。西洋甲冑に身を包んでいる間、神楽はまるで生きた心地がしなかった。
「玄関に戻ったら、やはり外の錠は外れていました。閉じ込めてられていた私が連れ出されたのだから、当たり前ですが」
「あなたはそのまま外を飛び出し、一キロ先の民家まで助けを求めて走った。そうですな」
外は一面がうっすらと雪に覆われた平地だった。車などの類はなかったから、おそらく木内が使用しているのだろうと思った。目をこらすと、遠目にペンションのような一軒家が見えたので、無我夢中でそこを目指し、走った。寝間着姿だったが不思議と寒くはなかった。それよりも、ふわふわとした新雪の上の走りにくさの方が辛かった。
洋風の一軒家では、持ち主であろう老夫婦が呑気に紅茶をすすっていた。私が事情を話すと、二人は慌てふためきながら警察に連絡し、その30分後に私は保護された。
「木内はあなたが保護されて数時間後に、東京で逮捕されました。ご存知かもしれませんが、あなたのご自宅の目と鼻の先でした」
木内は神楽の自宅までも把握していたようだ。気色の悪さに鳥肌が立つ。
「……木内はなぜ、私が東京を離れた時を狙ったのでしょう」
「監禁場所が、軽井沢の別荘しかなかったんでしょうな。木内は車を持っていましたから、いざとなれば東京からも運べたのでしょうが、獲物の方が近づいてくるのならこれを逃す手はない、と考えた……まあ、木内が何もしゃべらんので、これは憶測ですが」
憶測と赤坂は言ったが、おそらく間違いではないだろう。神楽は自分が近々、長野に取材に行くことをSNSに書き込んでいた。おそらくそれを知った木内は、数日にわたって駅前を張っていたのだろう。
「ところで、だんまりを決め込んでいる木内ですが、一個だけ、少し気になる供述をしておりましてな。まあ、気を悪くせんと聞いて欲しいんですが……」
「……なんですか」
赤坂の目が一瞬、刑事特有の鋭さをまとった。
「木内は、あなたに頼まれて三人を殺害したと……そう語ったんですわ」
神楽は、大きくため息をついた。
「そんなわけないでしょう。おかしな話です」
刑事はしばらく神楽を見据えていたが、やがて再び、柔和な態度に戻った。
「無論、我々も信じちゃいません。ですが、まあ、わずかな可能性も潰さんとならんのです」
頭をぽりぽりと掻いた赤坂は、一つ、思い出したように話を紡いだ。
「そうそう。私、ずっと勘違いしておりました。神楽音也さん、本名は高梨祐希さんとおっしゃるそうですが、いやあ、両方とも実に男らしい名前で。まさかこんな、うら若き女性だったとは。大変、失礼いたしました」
東京に戻った神楽は、自室で一人、満足げにベッドに寝転んでいた。手足を自由に伸ばせるというのは、実に心地がいい。時間にすれば1日にも満たない監禁生活だったが、それでも、窮屈なことには変わりなかった。
いや、窮屈なだけならまだいい。美穂と名乗ったあの女。彼女の前ではおくびにも出さなかったが、内心は彼女への嫌悪感でいっぱいだった。私と話がしたいから誘拐した? ふざけている。まだ金銭や性欲による突発的な行動の方が理解できる。それをあの女。うっとりとした化粧臭い顔を近づけて、私と言葉を交わすことに最大級の喜びを感じていたようだった。俗に言う「イタい女」の最上級にこじらせたような、目も当てられない醜さ。気持ちが悪い。思い出すだけで吐き気がする。
挙げ句の果てには、愛の告白だ。今でも、あの時の女の、荒ぶった鼻息を思い起こすことができる。あの言葉を聞いて、神楽は思ったのだ。こいつは、イカれていると。
犯罪者、異常者、そしてレズビアン。別に同性愛者に偏見はないが、所詮自分とは関係のないところで繰り広げられている情事だ。突然身に迫った熱情に、神楽は女に殺意すら覚えた。
放っておけば、女はいずれ捕まり、神楽は体に傷一つつけることなく解放されただろう。だが、それでは神楽は満足できなかった。犯罪とはいえ、所詮誘拐だ。数年も刑務所で刑に服せば、やがてまた世に放たれることになるだろう。あの、好きな作家を誘拐して監禁するような異常者が。
彼女に敵意は感じなかったが、それでも神楽は、心のどこかであの女を恐れていた。愛情と憎しみは背中合わせであることを、神楽自身何度も作品の中で描いてきた。あの女もきっと例外ではない。神楽が抱く本心に気がついた時、あの女はどんな行動をとるだろうか。想像するだけで恐ろしかった。
だから、これは正当防衛なのだ。あの女から、身の安全を守るための、必要不可欠の暴力だった。
三人殺せば死刑、というのは有名な話だ。そこに誘拐も加われば、おそらく極刑は免れないだろう。神楽は木内と笑顔で言葉を交わしながら、そう考えた。
あの日、神楽は女に、「自分はもう小説を書けなくなるかもしれない」と打ち明けた。理由としてあげたものは実にありがちなものだった。自分は学生時代、三人の男友達と関係を持っていた。そのことについて脅されていて、金銭の授受や肉体関係を強要されている。小説のエピソードには到底使えない陳腐な話を、あの女に聞かせたのだ。
事実無根の話だったが、あの女は簡単に信じた。あの三人を放っておけば、いずれ小説は書けなくなり、『薬指』も未完に終わるかもしれない。そう告げると、女は立ち上がって、言った。私に任せてください、と。
私は、世界一触れたくないその手を握って、こう言った。あんな男達、死んでしまえばいい、と。
あの女は神楽の思い通りの行動をとった。すなわち、三件の殺人を犯し、警察に逮捕される。まさに、神楽のシナリオ通りに、女は動いたのだ。
坂木達には、悪いと思っている。だがしかし、咄嗟に思いついた嘘がそれだったのだから仕方がない。友人を異常者の魔の手から救うことができて、彼らも本望だろう。神楽は思った。
私は、酷い話が大好きなのだ、と。
神楽は起き上がり、部屋のカーテンを開けた。空を見上げると、真っ暗な空の中で、まんまるで黄色い月が、神楽に向かって微笑んでいた。
ふと、新しいプロットが頭に浮かんだ。神楽は、頭の片隅に残っていたクッキーの甘い香りを振り払い、彼女は仕事部屋へと向かった。