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episode3

 

 夜が明けたそうだ。


 そうだ、というのは、美穂が神楽にそう告げただけで、神楽自身が登った太陽を確認したわけではないからだ。この部屋には窓が一切ないうえに時計も設置されていない。時間を把握するのは不可能だった。


「朝ごはん、持ってきました」

 そう言って部屋に入ってきた美穂の手には、焦茶色をした木製のトレー。その上にはスクランブルエッグと菠薐草ほうれんそうのソテー、それにトーストされた食パンが盛り付けられた高級そうな光沢を放つ白い食器と、ミルクが入った透明なグラス。それを見て初めて、神楽は自分が空腹感に襲われていることを自覚した。誘拐されておいて呑気なものだが、とりあえずのところ、この女は自分に危害を加えるつもりはないようだと神楽は考えていた。美穂は手早く神楽の手の拘束を解いた。匂いという釣り針に巻き上げられるように、神楽はその身を起こした。


 常に部屋に鍵をかけるという条件のもと、神楽は美穂が室内にいる間は、腕のみ、拘束を解くことを許された。足は縛られたままなので移動は困難だが、体を起こすことができるというのはそれだけで快適だった。美穂は最初、神楽に反撃されることを危惧したようだが、自分を信じられないのか、と甘い声で囁いたところ、割とあっさり拘束を解いた。


「和食のほうがよかったですか?」

「いや、大丈夫。いただきます」

 なんだか夫婦みたいな会話だな、と思いながら、神楽は目の前に置かれた盆を見て絶句した。


「これは……なんだ」

 神楽はそう言って、銀色に磨かれた切れ味の良さそうなナイフを持ち上げた。

「ナイフです。見たことありませんか?」

 美穂はあっけらかんと答えた。

「そんなわけないでしょ。そうじゃなくて、こんな凶器を渡しちゃって大丈夫なのかと聞いているんです」

 美穂はしばし考えたあと、口を丸く開いた。


「……わかったんなら、スプーンか何かに変えてきたほうがいい。切れ味も良さそうだから」

 美穂ははい、と返事をしてナイフを取り上げたが、しばらく考えたあと、再びそのナイフを神楽に手渡した。

「大丈夫です。私、先生はそんなことはしないと信じています」

 その言葉を聞いて、神楽は呆れ返った。それと同時に、このナイフでこの女を切りつけて反撃してやろう、という気概も失せた。

 神楽は、そのナイフを盆の上に放った。

「悪いけど、そこまで育ちはよくないから」

 そう言ってから、神楽は菠薐草にフォークを突き立てた。



 季節は真冬だが、室内は適温に保たれていた。その証拠に、美穂はノースリーブのワンピース一枚で平気な顔をしていたし、神楽自身も肌寒さは全く感じていない。壁の断熱がしっかりしているのだろう。


 室内を歩き回ることができないので詳しくは把握できなかったが、壁や家具、調度品などもなかなか高級そうだった。かれこれ10時間近く神楽が寝そべっているベッドも、ふかふかと柔らかく、背中や体の節々が痛くなることもなかった。当然神楽はまだ肌に触れていないが、ワインレッドのカーペットも柔らかそうな繊毛に覆われていて、触り心地が良さそうだ。


 美穂も些か鈍そうなそぶりは見せるが、所作自体は優雅で上品じみている。笑う時には両手で口を覆い、食器を運ぶ時には物音ひとつ立てない。やることは過激だが身のこなしはしなやかだ。


 昨夜、美穂は神楽を攫う時に男を雇ったと言っていたが、これはまぎれもない誘拐だ。半端な金では雇われる方もなかなか首を縦には降らないだろう。破格の金額を提示されたか、もしくは人攫いも厭わないような組織となんらかの繋がりがあるのか。どちらにせよ、この美穂と名乗る女、ある程度の社会的権力を持った人物のようだった。


 だが、今の神楽にとってはそんなことどうでもよかった。女が何者でどれほどの金持ちでも、自分が危機的な状況に陥っていることに変わりはない。まずは、自分の身の安全を確保しなければならない。


「あ、神楽先生、クッキー召し上がります? 昨日伯父が買ってきてくれたんですけど、よかったら」


 一番の問題は、この女の妙に飄々とした態度のせいで神楽自身が今ひとつ危機的状況に身を置かれていると自覚できないことにあった。まるで自分は病人で、看護師である美穂がかいがいしく面倒を見てくれているような居心地の良ささえ感じていた。それさえ美穂の演技だとしたら本当に大したものだが、おそらくそれはないだろう。


 美穂は小分けされたクッキーをひとつ差し出した。神楽はそれを受け取り、包装を解いて口に入れた。甘い風味とバターの香りが口に広がる。甘みが舌に溶けて染み込み、両頬がジンと痛んだ。


「おいしい」

 思わずそう呟くと、美穂は表情を綻ばせ、目を輝かせた。


「よかった、そのクッキー、私も大好きなんですけど、そうだと知った伯父がいつもたくさん買ってくるんです。私だけでは食べきれないんですけど、お父様もお母様もあまり甘いものは口にしないので……」

 父、母ともに健在。クッキーを食べる人間がいないということは、おそらく兄弟はない。または別居中。その他、よく手土産を持ってくる伯父が一人。


「お父さんやお母さんはここに住んでいるの」

「いいえ。ここは別荘ですから。父と母は東京におります」

 ということは、ここは少なくとも東京ではない。長野で別荘といえば軽井沢、という貧相なイメージしか持ち合わせていない神楽だが、あながち間違ってもいない気がした。


「でも、軽井沢にこんな豪華な別荘か……。なんかすごいな」

「父がスキー好きで……。十年くらい前に、雪山が近い郊外に建てたんです」

 美穂の言葉を信じるならば、ここは雪山ではない。自力で脱出したとしてもなんとかなるかもしれない。それにしても、こんなに簡単に聞きたい情報を喋ってくれるとは。危機感がないのは神楽だけではないのかもしれない。


「……美穂さん」

 神楽は初めて、美穂を名前で呼んだ。

「君はどうして、こんなことをしたんだ」

 神楽は、かなり思い切って聞いたつもりだったが、言葉の意味が理解できなかったのか、美穂は首をかしげた。


「だからつまり、どうして誘拐なんかしたんだ」

「ああ……だって、一度ゆっくり、先生とお話ししたかったから」

 なんでもないことのように美穂は言った。神楽はさらに問う。

「君は、自分がしたことの重大さが分かっていない。これは立派な犯罪だ。警察に捕まったらタダじゃすまないよ。仮に、君がどんな権力を持っていようがね」

 忠告のつもりだったが、美穂は動じるどころか、表情を和らげた。

「そんなこと、全然構いません。何度も言いますけど、私はただ、誰にも邪魔をされずに、思う存分先生とお話ししたかっただけですから」


 おかしな女だ、と神楽は思った。何かが一般人の思考と思い切りずれている。いや、正常な思考回路だったらそもそも誘拐なんてことはしないか。


「君は、『薬指』を読んでいるかな」

 美穂の目の色が変わる。

「もちろんです。『月刊朝顔』で連載されていますよね。毎月楽しく読ませていただいています」

「それはどうもありがとう。それで聞きたいんだけど、君はその後の展開、どうなってほしい」

「えっと、どういう意味ですか」

「だから……例えば、今の展開が気に入っていないとか、自分の思うような展開にしたいとか、そういった……」

 美穂は、あぐらの言わんとすることを汲み取ったのか、ああ、と納得した後、声をあげて笑った。


「あはは……まさか先生、私が、自分好みの展開を先生に書かせようとして誘拐したと思っているんですか?」

「だってほら、そういう映画があったでしょう……」

 神楽は照れたように弁解した。その姿を見てどう思ったのか、美穂は右手を神楽の頬にそっとあてがった。

「その映画なら私も見ました。私、あんな恐ろしい女に見えますか?」

 誘拐犯が何を言うか。神楽は心の中でそう思ったが、それでも、美穂の右手はなぜか妙に暖かかった。


「私は誓います。絶対に、先生にひどいことはしないって。だから、安心してください」

「……頭、殴られているんだけど」

 しかめ面を作ってそういうと、美穂は途端に慌てだした。その姿を見て、神楽はひとしきり笑った。


「私、先生の作品が大好きです。優しくて温かいのに、どこか心に刺さる感じがたまらなく好きです。でもね……」

 美穂は、さらに顔を近づけて言った。

「先生のことも、大好きですよ?」

 神楽が笑ったままの表情で固まった。その様子を見て、今度は美穂が笑い声をあげる。


「安心してください。襲ったりなんかしませんから」

 あっけらかんとそういうと、美穂はどこからか、クッキーをもう一枚取り出した。

「食べます?」

「……いただきます」

 神楽は素直に受け取り、それを頬張った。口中が甘い香りで再び満たされた。


「ところで、先生はどうして小説家になろうと思ったんですか?」

 小さい頃から小説が好きだったからだという話は知っていますけど、と美穂は慌てて付け加えた。

「うん。確かに小説は好きだった。でも、どちらかといえば文章よりも、物語自体にに惹かれていたかな。主人公がどんな困難に立ち向かって、どういう結末を迎えた、とか、とにかくストーリーがある作品が好きだった。だから小説に限らず、漫画もアニメも映画もドラマも、全部好きだった」

「その中で、あえて小説家を選んだ理由は?」

「その中で、小説が一番許されている気がしたんだ」

「許されている?」

「そう。例えば、映画やアニメ、ドラマなんかは、映像や音、セリフ、その他様々な情報で見ている側に訴えてくるし、漫画はもちろん絵とセリフで表現される。でもその分、やっぱり表現に制限が付きまとう。とくにドラマなんかは、誰でも簡単に見られるからね。あまりにもグロテスクな表現は規制されてしまうし、映画にも年齢制限がかけられたりする。

 そういった面で見ると、小説が一番、なんでもありな気がしたんだ。映像も音も絵も存在しない。あるのは文字。ただそれだけ。一見すると他のメディアよりも不自由に見えるけど、でも一番自由。例えば、登場人物が電車に轢かれて四肢が千切れる場面があったとして、それを一番、そのまま伝えられるのって文章のような気がする。映画とかだと轢かれる瞬間に暗転したり、漫画とかだと血飛沫だけで表現したり。でも小説は違う。真っ向から、『この男は電車に轢かれて、腕と足が引きちぎられてぐちゃぐちゃになって死にました』って書くことができる。それって、実はすごいことなんじゃないかなって思うんだよ」


 つい熱くなって長々と話してしまったが、美穂は相槌を打つだけで、神楽の話を遮ろうとはしなかった。むしろ、神楽の言葉を有難がるように、じっくりと噛み締めながら飲み込んでいるようだった。

「先生は、酷いお話がお好き?」

「そうだね。ハッピーエンドよりも、登場人物が全員不幸になるような話が好きだった」

 思えば、自分が書くものもバッドエンドばかりだな、と神楽は苦笑した。

「じゃあ、『薬指』もきっと、恐ろしいラストになるんですか?」


 美穂の質問に神楽はすぐに答えなかった。神楽の視線は美穂にではなく、部屋に飾られた甲冑に向けられていた。

「どうしました?」

「書けないかもしれない」

 え、と美穂は聞き返した。

「実は、小説、もう書けないかもしれないんだ」





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