episode2
意識を取り戻した神楽を最初に襲ったのが、鋭く刺さるような頭部の痛みだった。はじめは坂木たちと飲みすぎたことによる二日酔いかと思ったが、そもそも坂木たちと会った覚えもなければ酒を飲んだ覚えもない。これはどういうことだと思考を巡らせるうちに、神楽は自分自身が、なにやらとんでもない状況に陥っていることに気がついた。
強烈な頭痛もさることながら、まず手足の自由がきかない。ベッドかなにかの上に寝かされているようだが、手は後手に、両足も脛あたりをロープで縛られている。なんとか解けないかと踠いてみたがびくともしない上、足が攣りそうになったので諦めた。
部屋は真っ暗だった。目が慣れるまで待ってみたが、どうやら完全に光が差し込んでいないようで、なにも見えないままだった。
「…誰か、誰かいませんか」
幸い、猿轡はされていなかった。恐る恐る声をあげてみたが、特に反応はなかった。形振り構っていられないと思い直し、声を張り上げて何度か助けを求めてみた。
するとやがて、ギシ、ギシ、という何かが軋む音が自分の声の合間に聴こえてくる
ことに気がついた。その音はだんだんとこちらに近づいてくる。どうやら足音のようだった。どうやら廊下を歩いているようだ。
不意に、ゆっくりと部屋に光が差し込んだ。どうやら、何者かがこの部屋の扉を開けたらしい。僅かな明かりだったが、それでも暗闇に慣れた目には眩しく感じた。
やがて扉は完全に開かれた。そこには一人の人間のシルエットが浮かび上がっていたが、男か女かの区別もつかなかった。お前は誰だとも聞けず、だた息を飲んで相手の動きを待っていた。
「あ、あの、目が覚めましたか?」
耳に飛び込んできたのは、若い女の声だった。
「お、お薬持ってきました。あの、起きられますか」
謎の影は、恐る恐る、といった様子でこちらに近づいてきた。
あまりに敵意のないその声に、神楽は拍子抜けした。もっといかつい、屈強そうな男でも現れるのかと考えていたからだった。
「いや、手足……」
神楽がそう呟くと、女は途端に慌てふためいた。
「そうでしたよね。ごめんなさい。こんな状態で、起き上がれるわけないですよね。ああ、でも解くわけにもいかないし……」
可愛らしいが鈍臭そうな女だな、と心の中で思った。
「良かったら薬の前に、電気をつけてくれないかな。さっきから真っ暗でなにも見えないんだ」
「あ、そう、そうですね。電気、電気をつけましょう」
女はどたどたと部屋の入り口に戻り、部屋の明かりをつけた。部屋が一気に明るくなり、神楽は眩しさから目を閉じた。
「眩しいですか? ごめんなさい、でも、すぐに慣れると思います」
女の声はすぐ近くから聞こえた。いつの間に戻ってきたのかと思い、顔をしかめながら目を開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、天井にぶら下がる巨大なシャンデリアだった。電灯自体の明るさだけでなく、周囲の明かりを反射させた輝きを放っている。その背後の天井はベージュと茶の格子柄で、ところどころに薔薇の絵が散りばめられている。自宅の無機質な白の天井とは大違いだった。
壁は、天井と同じベージュを下地に、植物の蔓のような装飾が施されている。また、廊下に面しているであろう壁側には等間隔で銀色の西洋甲冑が飾られており、シャンデリアとはまた異なる輝きと存在感を放っている。
視線をシャンデリアに戻したその時、神楽と天井の間に女の顔が割り込んできた。
「お加減はどうですか。吐き気とか、特にありませんか」
「吐き気はないけど、気分はあまり良くない。どうしてかは言わなくてもわかると思うけど」
神楽がそう言うと、女は眉尻を下げ、困ったような顔になった。
「すみません。一応、神楽先生のためにとびきりの部屋をご用意させていただいたんですけど、お気に召しませんでしたか」
「いや、そうではなくて……」
激しい頭痛で目を覚ましたら自由のきかない手足に得体の知れない鈍臭い女。これで気分爽快な人間がいると思うか、と問いただそうとしたが止めておいた。何者かもわからぬ女を下手に刺激したくもなかったし、あまり常識が通用しそうな人間でもない。
「それで、君は一体誰?」
努めて平静を装ったが、刺すような頭痛がそれを阻害した。神楽は眉間にしわを寄せ、ぶっきらぼうにそう言った。
「美穂、と言います。山内美穂です」
別に名前が聞きたいわけではないと言いそうになったが、神楽はまたも言葉を飲み込んだ。そんなことよりも、女が発した名前の方が気になったのだ。
神楽はその名前の女をよく知っていた。同時に、それがこの女の本名ではないことにも気がついた。
「偽名だね」
「はい、偽名です」
神楽の指摘を、女は潔く認めた。
「でも、私は本名よりもこっちの名前の方が好きなんです。強くて気高くて、どんなことがあっても自分を曲げない芯の通った女性。山内美穂は、私の憧れなんです」
女は惚けた顔で神楽にそう語った。一方、神楽はその女の表情に薄ら寒いものを感じた。頭の中には一編の映画が思い起こされていた。自動車事故を起こした小説家が、ファンを自称する女に監禁される物語。神楽は、若い頃に身を震わせながら見たその映画の主人公と、自分を重ね合わせていた。
「君は、神楽音也のファン、だね」
神楽は恐る恐る確認すると、女、美穂はにっこりと笑って頷いた。
「第1作目の『狂乱』から最新作の『ふたたび』、『月刊 朝顔』で連載中の『薬指』、その他先生のインタビュー記事が載っている雑誌を含めて全て所有しています。先生が出演したテレビ番組も全て録画しています。茨城出身で学生時代を長野で過ごしていたこと、好きな食べ物はマグロのお寿司、嫌いな食べ物はアボカド、好きなタイプは気の強い人、小学校の頃のあだ名はユッキー、ご両親はご健在で、妹さんがお一人。お父様は茨城で農業を……」
「ストップ、もういい」
徐々に荒くなる美穂の鼻息と血走った目に神楽は恐怖を感じ、彼女を制止した。好きな食べ物や異性の好みは雑誌の取材で聞かれたことがあったが、あだ名や家族構成などは公表したことはない。女の鈍臭さから一時は失いかけた警戒心を、神楽はふたたび抱いていた。美穂はしばらく恍惚の表情を浮かべていたが、やがて夢から覚めたように体を強張らせたあと、深々と頭を下げた。
「いやだ、私ったら。一方的に喋ってしまって、ごめんなさい!」
「それよりも、謝るべきことがあるはずだけど……」
美穂はぐっと喉を鳴らしてから、項垂れた。
「……ごめんなさい。先生を殴ったのは私ですし、ここまで運んできたのは、もちろんお金で雇った男性の手も借りましたが、私です。手足の自由を奪ったのも私だし、スーツからスウェットに着替えさせたのも私です」
そう言われて、神楽は慌てて自分の服装を確認した。確かに、グレーのツーピースコートからセンスの悪い桃色のスウェットに着替えさせられていた。勝手に服を脱がされたことを知った神楽は、ふたたび薄気味悪さを感じていた。
「でも、私は先生とお話ししたかった」
それはたいへん身勝手な望みだが、美穂の口調はやたら切実だった。
「……とりあえず頭痛がひどいから、何か薬を貰えないかな。持ってきているんだろう」
この話題は女を興奮させるだけだと判断し、神楽は話題を変えた。
「あ、はい。そう思って頭痛薬を持ってきたんです。今お渡ししますね」
女は一旦ベッドから離れ、そばに置いてあったであろう盆から白い錠剤と水で満たされたコップをとって戻って来た。
見知らぬ人間から渡される白い錠剤にはさすがに抵抗があったが、そうもいていられないほどに頭痛は酷かった。手が使えないので、美穂の手から直接薬と水を口に含んだ。
外傷性のものにも効くのだろうかという一抹の不安はあったが、即効性のあるものだったらしく、30分ほどで痛みは軽減した。そのことを美穂に伝えると、彼女は心底安心したというように息を吐いた。一体誰のせいだと思っているのだろうか。
痛みから解放されて気が緩んだのか、神楽は独り言のようにぽつりと呟いた。
「久しぶりに聞いたよ」
美穂は、え、と聞き返した。
「名前だよ。山内美穂。もう、誰も覚えていないかと思っていた」
「……忘れるわけありません。私にとっては、永遠のヒロインですから」
山内美穂は、神楽が書いた小説に登場する人物の名前だった。第三作目の『空想の魔術師』の主人公である探偵の助手として登場させたのだが、発表後は作品や探偵よりもヒロインに注目が集まった。両親の虐待やいじめを経験し、心身ともにボロボロになった状態を主人公の探偵が見かねて助けたという境遇や、ラストで主人公を殺害し、後に探偵を騙って世を渡っていくというどんでん返しが受けたようだった。もっとも、作品自体はそれほどヒットしなかったこともあり、世間からもすぐに忘れ去られた。映像化の話もいまのところはゼロだ。
「懐かしいな。美穂を書くのは大変だった。なにしろ、弱さがまったくない登場人物だったからね。一見すれば悪女だけど、そこだけに落とし込みたくはなかったのもあったし」
「確かに、美穂を悪女だと言い切る人は大勢います。でも、私はそうは思わない。彼女は強さの象徴だと思った。逆境を乗り越え、恩人を殺してその皮を被ってまで生き長らえようとするなんて、まさしく「生命力」です。ぬるま湯に浸かってのほほんとしている人たちの横面をひっぱたくような痛快さがありました」
美穂の述べた感想に、神楽は思わず感心した。美穂が語った「美穂」のキャラクター像は、そのまま神楽が描きたかった「美穂」そのものだったのだ。
美穂は神楽の方は向かずに、部屋の入り口を見ていた。彼女の横顔を、神楽はしばし観察した。
先ほどは頭痛がひどくてそれどころではなかったが、こうして落ち着いて見てみると、なんとも綺麗な顔立ちをしていた。見たところは二十代半ば。西洋風の高い鼻とパチリとした二重まぶた。目尻は少し下がっていて儚げな印象を受ける。好きな作家と言葉を交わすことができて興奮しているのか、ふっくらした頬は若干紅潮している髪は栗色のストレートが腰まで伸びていて、白いワンピースによく映えている。一見すればモデルのようで、とても誘拐犯には見えない。
「続編は書かないんですか」
「君は読みたい?」
美穂はかぶりをふった。
「美穂の物語はあれで完結していると思います」
「同感だよ」
この女は紛れもなく誘拐犯だが、それでも、自分の身を削りながら生み出した作品を愛してくれた一読者だ。神楽はそのことに対しては、素直に感謝の念を抱いていた。
もちろん、それ以外のことに対してはそうもいかない。
「それで、君はいつになったら解放してくれるつもり?」
女は、またにっこりと笑った。
「まだまだ。私が満足するまでです」