episode1
スマートフォンの地図アプリを立ち上げながら、神楽音也は駅のホームに降り立った。学生時代以来に訪れた街だったが、不思議と懐かしさはなかった。煤けた柱や壁、錆びたベンチ、点滅している蛍光灯に群がる小さな羽蟲。変わらないことがいいことだとは思わないが、あの頃と同じ駅の構内は、そのまま自然と、神楽を学生時代へ立ち返らせた。
グレーのツーピースコートに厚手の茶色いステンカラーコートを羽織っていたが、それでも手や首筋に突き刺す冷気は全身を振い上がらせる。長いこと東京に身を置いていたせいか、少々長野の冬の厳しさを舐めていた。手袋はマンションの自室に置いてきてしまったが、マフラーは手持ちの大きめなビジネスバッグに仕舞われている。取り出そうかと思ったが、スマホの画面を見る限り目的地はそう遠くない。歯がカチカチと音を立てるのを懸命に耐え、神楽は今にも雪が降り出しそうな夜の街へと足を踏み入れた。
駅のロータリーにはタクシーが働き蟻のように群がり、その合間を中型バスが身を縮こませながら走っている。人通りはそれなりにあるが、それでも渋谷のセンター街などに比べたらガラガラと言っていいほど空いている。開放感もあり、少し気が大きくなった神楽は、小さな声で唸りながら背伸びをした。入りこんだ冷気で鼻の奥が痛む。
時刻は18時半。日はすっかり落ちているが、駅前には飲食店やコンビニなどが立ち並んでいるため、薄暗さは微塵もない。自分が学生だった頃はもう少し閑散としていたはずだが、しばらく来ない間に、それなりの都市化が進んだようだった。
神楽の出身は茨城だが、大学に進学した際にこの街へ越してきた。引っ越してきた当初は初めての一人暮らしで不安だったが、四年も暮らせば第二の故郷だ。就職もこの街だったが、三年で退職し、新たな仕事のために東京へ身を移した。この街にやってきたのはそれ以来なので、約七年ぶりとなる。
右手に持っていたスマホが突然振動し、少し遅れて着信画面に切り替わった。画面には「坂木慎吾」の文字。画面をタップし、耳に当てる。
「もしもし」
「おー、オレオレ、坂木だけど」
いかにも軽薄そうな男の声が耳に入る。周囲に人が多いのか、ザワザワとした音がこちらにも聞こえてくるが、坂木独特の高い声は十分聞き取りやすかった。
「久しぶり。今どこにいるの」
「もう店の中だよ。弓田と美浜ももう来てる。高梨は、今どこ」
高梨。その名前で呼ばれたのは随分と久しぶりだった。本名は高梨祐希だが、少なくとも仕事上では、その名前を使うことはほとんどないに等しい。最近では、神楽音也という名の方がしっくりくるくらいだ。
「ちょうど駅に着いたところ」
「場所はわかるか」
「うん。大体わかるよ」
「東口を出てすぐ右に曲がった先によくわからん服屋があるから、その先の小さな路地に入ってくれ。ちょっとわかりづらいからな」
大体わかるといっているにも関わらず、坂木はご丁寧に道案内までしてきた。おせっかいなのは相変わらずだな、と神楽は思った。
「はいはい、すぐに向かうから」
「早くこいよ。神楽センセーと飲める機会なんかめったにないんだから、みんなうずうずしてるんだ」
「センセーって……じゃあ、急いで行くから」
気ぃ付けろな、とだけいうと、坂木は電話を切った。神楽はもう一度地図アプリを立ち上げて、目的地を目指す。
神楽音也の職業は小説家だ。幼い頃からの活字中毒で、中学生に上がる頃にはすでに小説を書き始めていた。就職してからも空いた時間にせっせと筆を進めていたが、入社二年目になる頃に雑誌の新人賞を受賞、作家デビューを遂げる。その後執筆した作品も一定の評価を受け、5作目として発表した恋愛小説が口コミで話題となり、実写映画化されるまでに至った。二足の草鞋もままならなくなってきたために職場を退職、専業作家となった。
学生時代に過ごした長野を舞台にした話を書いてみたらどうか、と出版社から打診があったのはちょうど半年ほど前だった。人気若手作家として、近頃はテレビ出演などもこなしていたため、作家のルーツに関わるような物語なら読者の興味を惹けるのではないか、というのが彼らの目論見のようだが、神楽自身も、長い間暮らした土地を舞台に据えてみたい、と純粋に思った。それから大筋のプロットをまとめ、ようやく連載という形が見えてきたのが最近の話だ。
坂木慎吾から連絡があったのは、まさにそんな時だった。
坂木慎吾は、学生時代の友人だった。神楽が大学の一年生だったころ、空き教室で一人読書にふけっていたところ、突然話しかけてきたのが坂木だった。
坂木の興味は神楽ではなく、神楽が読んでいた小説だったらしかったが、言葉を交すうちに自分と趣味趣向が似通っていることに気づき、意気投合した。その後、坂木の知り合いであった弓田恭一郎と美浜定之を巻き込み、読書サークルなるものを四人で設立し、読書と執筆漬けの学生生活を送ることになった。
マンションの自室で締め切りに追われていたある日の深夜、突然坂木から着信があった。大学を卒業して以来、年賀状以外のやり取りをしていなかったためすこし躊躇ったが、無視をするわけにもいかずに通話ボタンをタップした。
「よお高梨。久しぶり」
学生時代からちっとも変わっていない能天気なその声に、神楽は懐かしさを感じた。神楽はパソコンの画面から意識をそらし、その懐かしい声に耳を傾けることにした。
しばらくは思い出話に花を咲かせ、お互いの近況を報告しあっていたが、それもひと段落した頃、坂木が本題を切り出した。
「実は、恭一郎が結婚することになってさ」
「え、弓田が?」
三十をすこし過ぎた四人だったが、結婚の話題が出たのはこれが初めてだった。坂木も弓田も美浜も、異性にちやほやされるような容姿は持ち合わせていなかったし、神楽自身も仕事に追われ、それどころではなかった。
「職場結婚だとよ。10歳も下の女捕まえやがったよ」
それはそれは、と神楽も下を巻いた。顔中ニキビだらけの小さな男だったが、なかなかの物好きに巡り合ったようである。
結婚祝いも兼ねて久しぶりに呑みに行かないか、というのが坂木の要件だったらしい。通常ならば仕事を理由に断っていたが、今回はたまたま長野に取材で赴くことになっている。確認すると、三人ともまだあの街に留まっているらしい。参加できそうな日を伝えると、坂木は嬉しそうに声を上げた。
「良かった良かった。てっきりお前は来れないかと思ったよ。なんたって、今や文学界の大センセーだもんな」
「よしてよ。坂木だって、仕事、順調なんでしょう」
今年の年賀状には、「祝昇進」の文字が躍っていた。詳しいことは書かれていなかったが、その文字の荒々しさから、彼が順調に成果を出していることが見受けられた。
「まあな。その辺の積もる話もあるし、久々に四人で、朝まで呑み明かそうぜ」
その後、坂木が幹事としてすべての段取りを組み、今日を迎えたわけだった。何年振りかの再会というわけで、神楽の足取りもどこか浮き足立っていた。
道をしばらく進むと、右手になにやら派手な服飾店が現れた。原宿ファッションを連想される個性的な服が飾られているが、坂木が入っていた「よくわからん服屋」とはここのことだろう。見ると、そのすぐ横を路地が一本、暗闇に身を隠すように伸びていた。薄暗いのですこし不安を覚えたが、さほど気にせずに足を踏み入れた。
目的地はこの奥にあるようだったが、こんな路地にもいくつか酒場はある。人気が全くないのが不気味だったが、店名を確認しながら道を進む。
その時だった。
タタタ、というリズミカルな音が背後から忍び寄るように近づいてきた。その音に、神楽は何かとてつもない危機感を覚え、振り返った。
その時に神楽が見たのは、グレーのパーカーに身を包んだ何者かが、片手で掴んでいる細長い何かを振り上げている場面だった。
それが振り下ろされるのと、神楽が声を漏らしたのと、どちらが早かったかはわからない。どちらにせよ、神楽は頭部に強い衝撃を受け、その場に倒れこんだ。
意識を失う寸前、霞みゆく視界の中で、神楽はグレーのパーカーの人物以外に、もう一つの影が忍び寄っていることに気がついていた。だが、それまでだった。神楽はそのまま、暗い暗い沼に沈むように、意識を失った。