フェルマータ――音を響かせながら――
深閑と――。
静まりかえった夜の音楽大学に、車を乗り入れる。ドアを開けばなぜか、初めて訪れた場所であるはずなのに、どこか懐かしいにおいのする風がそよいできた。奇妙な既視感……。礼拝堂に向かう敷石を踏みしめてゆくにつれ、不思議にその感覚はたかまってゆき、ついに、道の両端に植えられた桜の木、その足下に斃れる蝉の死骸を見つけたとき、ふと気づく。
夏の終わり――涼やかな夜。
夜風は充溢した生気の名残を孕んで、吹いている。
なるほど、既視感を感じるはずだ。
この夜はあの夜の――変奏じゃないか。
「少し、待っていてください」
忘れられたような僻地に佇む荘厳な神の家にたどり着くと、かなえはそう言って真鍮のノブを引き、暗い中へと入っていった。月の光が体のすみずみにまで染み渡るくらい、やたらに待って、遂に内側からドアが開く。暗い。明かりといえば、信徒席から祭壇まで続く、揺らめく蝋燭の光円と、二階部にはめ込まれた、受胎告知の場面が刻まれたステンドグラス、そこから差し込む月光のみ。
「足下、見えます?」
右手に灯火を提げ、ほの明るく照らされたかなえが問いかけてくる。
「ん……ぎりぎり」
僕が眉根を寄せて答えると、
「では、危ないですから」
ひんやりと、滑らかな感触を右手に感じた。
かなえは僕の手を引いて、燃え立つオレンジの炎に浮かんだ、光の道を歩いてゆく。
その行き着く先は祭壇ではなく。
微笑を浮かべはばたく、天使の足下。青白い月明かりに照らされて、冷たく光る――黒い大きな箱。
かなえはそっと、しめやかな手つきで鍵盤を露わにする。
「……祈るんじゃ、なかったの?」
「はい」
かなえは音もなく着座する。背に一本棒でも通っているかのような、姿勢のよさ。大きく背中が開いたドレスも相まって、息を呑むような後ろ姿だ。
「かなえさんはこれでお祈り、するんです」
右手と左手をスタートポジションに。
軽やかに、音が鳴る。
情熱的だったコンサートとは打って変わって――今度は叙情豊かな、優しい旋律。静かな祈り。
『主よ、人の望みの喜びよ』
清かな流れのうちに、最後の一小節が終わって――。
「さて」
おもむろに、彼女は僕に振り向いた。
そして、なぜか笑顔でもう一脚――暗くて分からなかったのだけど、目を凝らすと彼女の隣にもう一脚、椅子があった――のクッション部分を、ぽんぽんと叩く。
まさか。
「……知ってると思うけど、僕はピアノ弾けないぞ」
実はかなえの影響で、大学時代少しかじったのだけど――それでも素人の付け焼刃。とてもプロの前で弾けるレベルじゃない。
それでもかなえは。
「いいですから」
無理矢理僕を椅子に押し込んで、隣に座らせる。全長百二十センチの白い海は、二人で臨んでもまだ悠々と広い。
「どこでもいいので、鍵盤を押してみてください」
「どこでもいいって……」
何をしたいのかわからないけれど、僕は言われるがまま、目の前の白鍵を押してみる。
すると即座に、かなえも指を沈ませて、音を産み出す。
前の音が虚空に消え去るまでに生じた音は、絡み合って、一つの調和音を産みだし――それはなぜか、耳に心地よく広がるのだった。
――まさか。
横目でかなえを見やると、にっとルージュの唇が自慢げに歪む。
「今度はデタラメでいいので、四つ音をください」
言われたとおりに打鍵すると――
僕が弾き出すバラバラな一つ一つの音の間隙に、かなえが絶妙に橋を架け渡し――
「そんな……」
デタラメな音と音とは、一つの形を与えられる。調和を成す。
まるで、神の見えざる手に導かれるように――。
「ふふ……驚きました?」
女神が胸を張る。
「これが、かなえさんが五年をかけて作り上げた渾身の『曲』なのです」
ん……?
「これ曲……か? いや――」
そんなことはどうだっていい!
音が連なる感動――本来、血道を上げるような修練の果てに得られるはずのそれが、そのまばゆさが、僕をせき立てていた。
「もう少し、弾いてもいいか?」
「少しといわず」
かなえは柔らかく鍵盤に指を乗せ。
「終わりまで弾きましょう。そのための曲ですから」
その言葉に。
僕の指が、抑えきれず動き出す。
それはまるで無軌道な行進だけど――
それはまるで、時の始めからそう定められていたかのように。振り返れば、完璧な舞踏になっている。
音が、世界にはまってゆく。
二つの単子が響き合い、重なり合って、世界そのものを完成させてゆく。
もはや弾いているのは僕ではなく、
かなえでもやはりない。
僕らのかたちは緩やかに解けて、
縒り合わさってゆく。
繋がり合い、もつれ合いながら、
世界に充満してゆく。
僕たちは手をつないだまま、宇宙に蕩けてゆく。
――ああ、初めて知る。
世界はこんなにも、完全だったんだ。
どこまでも上昇してゆく魂は、天の最果てを突き抜け、再び僕の肉体へと還ってきた。彼女は終わりまでと言っていた。その場の即興で作る曲に終わりなんて――と思っていたけれど、そこには確かに、終わりがあった。
彼女はまたこれを、一つの曲とも言っていた。アドリブの音階を補完して繋ぐ。それは一種の演奏法だ――と思っていたけれど、それは確かに、曲だった。生じる音はどうあれ、それは同じ『世界』を歌う曲なのだから。
僕のあらゆる感覚器官は、震えていた。
魂が得た経験のあまりの大きさに、小さな肉の器は限界を超えて、叫んでいるのだった。
興奮から、感情が凪ぐのをまたずに僕は、口を開く。
「こ、これ……なんて曲、なの?」
今にも裏返りそうな声でそう言うと。
すっとかなえは、僕の涙をハンカチで拭って。
「愛し合う二人のための共奏曲……」
さやかに自分も涙の雫をこぼしながら、その名を告げた。
「『完全世界』」
同じことを。
やはり僕達は、同じものをみていた。
滾るような感官の暴走の中、惚けてただ見つめるだけの僕に、彼女はふいに顔をしかめ。
そっとすねたように、肩を寄せる。
「かなえさん、プロポーズしてるんですけどね?」
「――あ」
愛し合う二人のための共奏曲『完全世界』
愛し合う……二人のための。
愛しあう……二人。
甘やかな残響は僕の頭の中で、いつまでも木霊して――。
終止。