表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

フェルマータ――音を響かせながら――

 深閑しんかんと――。

 静まりかえった夜の音楽大学に、車を乗り入れる。ドアを開けばなぜか、初めて訪れた場所であるはずなのに、どこか懐かしいにおいのする風がそよいできた。奇妙な既視感デ・ジャブ……。礼拝堂に向かう敷石を踏みしめてゆくにつれ、不思議にその感覚はたかまってゆき、ついに、道の両端に植えられた桜の木、その足下にたおれる蝉の死骸を見つけたとき、ふと気づく。

 夏の終わり――涼やかな夜。

 夜風は充溢じゅういつした生気の名残なごりはらんで、吹いている。

 なるほど、既視感を感じるはずだ。

 この夜はあの夜の――変奏ヴァリエーションじゃないか。

「少し、待っていてください」

 忘れられたような僻地へきちに佇む荘厳そうごんな神の家にたどり着くと、かなえはそう言って真鍮しんちゅうのノブを引き、暗い中へと入っていった。月の光が体のすみずみにまで染み渡るくらい、やたらに待って、遂に内側からドアが開く。暗い。明かりといえば、信徒席から祭壇まで続く、揺らめく蝋燭ろうそくの光円と、二階部にはめ込まれた、受胎告知の場面が刻まれたステンドグラス、そこから差し込む月光のみ。

「足下、見えます?」

 右手に灯火を提げ、ほの明るく照らされたかなえが問いかけてくる。

「ん……ぎりぎり」

 僕が眉根を寄せて答えると、

「では、危ないですから」

 ひんやりと、滑らかな感触を右手に感じた。

 かなえは僕の手を引いて、燃え立つオレンジの炎に浮かんだ、光の道を歩いてゆく。

 その行き着く先は祭壇ではなく。

 微笑を浮かべはばたく、天使の足下。青白い月明かりに照らされて、冷たく光る――黒い大きな箱。

 かなえはそっと、しめやかな手つきで鍵盤を露わにする。

「……祈るんじゃ、なかったの?」

「はい」

 かなえは音もなく着座する。背に一本棒でも通っているかのような、姿勢のよさ。大きく背中が開いたドレスも相まって、息を呑むような後ろ姿だ。

「かなえさんはこれでお祈り、するんです」

 右手と左手をスタートポジションに。

 軽やかに、音が鳴る。

 情熱的だったコンサートとは打って変わって――今度は叙情豊かな、優しい旋律。静かな祈り。

 『主よ、人の望みの喜びよ』

 さやかな流れのうちに、最後の一小節が終わって――。

「さて」

 おもむろに、彼女は僕に振り向いた。

 そして、なぜか笑顔でもう一脚――暗くて分からなかったのだけど、目を凝らすと彼女の隣にもう一脚、椅子があった――のクッション部分を、ぽんぽんと叩く。

 まさか。

「……知ってると思うけど、僕はピアノ弾けないぞ」

 実はかなえの影響で、大学時代少しかじったのだけど――それでも素人の付け焼刃。とてもプロの前で弾けるレベルじゃない。

 それでもかなえは。

「いいですから」

 無理矢理僕を椅子に押し込んで、隣に座らせる。全長百二十センチの白い海は、二人で臨んでもまだ悠々と広い。

「どこでもいいので、鍵盤を押してみてください」

「どこでもいいって……」

 何をしたいのかわからないけれど、僕は言われるがまま、目の前の白鍵を押してみる。

 すると即座に、かなえも指を沈ませて、音を産み出す。

 前の音が虚空に消え去るまでに生じた音は、絡み合って、一つの調和音を産みだし――それはなぜか、耳に心地よく広がるのだった。

 ――まさか。

 横目でかなえを見やると、にっとルージュの唇が自慢げに歪む。

「今度はデタラメでいいので、四つ音をください」

 言われたとおりに打鍵すると――

 僕がはじき出すバラバラな一つ一つの音の間隙に、かなえが絶妙に橋を架け渡し――

「そんな……」

 デタラメな音と音とは、一つの形を与えられる。調和を成す。

 まるで、神の見えざる手に導かれるように――。

「ふふ……驚きました?」

 女神が胸を張る。

「これが、かなえさんが五年をかけて作り上げた渾身の『曲』なのです」

 ん……?

「これ曲……か? いや――」

 そんなことはどうだっていい!

 音が連なる感動――本来、血道を上げるような修練の果てに得られるはずのそれが、そのまばゆさが、僕をせき立てていた。

「もう少し、弾いてもいいか?」

「少しといわず」

 かなえは柔らかく鍵盤に指を乗せ。

「終わりまで弾きましょう。そのための曲ですから」

 その言葉に。

 僕の指が、抑えきれず動き出す。

 それはまるで無軌道な行進だけど――

 それはまるで、時の始めからそう定められていたかのように。振り返れば、完璧な舞踏になっている。

 音が、世界にはまってゆく。

 二つの単子モナドが響き合い、重なり合って、世界そのものを完成させてゆく。

 もはや弾いているのは僕ではなく、

 かなえでもやはりない。

 僕らのかたちは緩やかに解けて、

 り合わさってゆく。

 繋がり合い、もつれ合いながら、

 世界に充満してゆく。

 僕たちは手をつないだまま、宇宙にとろけてゆく。

 ――ああ、初めて知る。

 世界はこんなにも、完全だったんだ。

 

 どこまでも上昇してゆく魂は、天の最果てを突き抜け、再び僕の肉体へと還ってきた。彼女は終わりまでと言っていた。その場の即興で作る曲に終わりなんて――と思っていたけれど、そこには確かに、終わりがあった。

 彼女はまたこれを、一つの曲とも言っていた。アドリブの音階を補完して繋ぐ。それは一種の演奏法だ――と思っていたけれど、それは確かに、曲だった。生じる音はどうあれ、それは同じ『世界』を歌う曲なのだから。

 僕のあらゆる感覚器官は、震えていた。

 魂が得た経験のあまりの大きさに、小さな肉の器は限界を超えて、叫んでいるのだった。

 興奮から、感情がぐのをまたずに僕は、口を開く。

「こ、これ……なんて曲、なの?」

 今にも裏返りそうな声でそう言うと。

 すっとかなえは、僕の涙をハンカチでぬぐって。

「愛し合う二人のための共奏曲……」

 さやかに自分も涙の雫をこぼしながら、その名を告げた。

「『完全世界』」

 同じことを。

 やはり僕達は、同じものをみていた。

 たぎるような感官の暴走の中、ほうけてただ見つめるだけの僕に、彼女はふいに顔をしかめ。

 そっとすねたように、肩を寄せる。

「かなえさん、プロポーズしてるんですけどね?」

「――あ」

 愛し合う二人のための共奏曲『完全世界』

 愛し合う……二人のための。

 愛しあう……二人。



 甘やかな残響は僕の頭の中で、いつまでも木霊こだまして――。

 




                   

                       終止フェルマータ

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ