ダ・カーポ――昔にもどって――
○
馴染みのシートに身を沈ませて、キーを差し込み、なめし革のハンドルに手をかける。感触もにおいも全て、いつもと同じ慣れきったものだけれど――今日だけは。決定的に違うファクターが、一つ。 助手席の扉が開かれ、重く凝った(こごった)タバコの臭いを押し分けて、ほのかな香気が僕の鼻にまで到達する。
「うわぁ、伊角さんが車――乗ってる」
たぶん微妙にズレてはいるだろうけれど、僕の方もまったく同じ感想を抱いていた。
うわぁ、かなえが僕の車に――乗ってる。
それでも僕は、かなえほど明け透けに話せない僕は、「まぁ僕ももう社会人だし――車くらい乗るさ」と気取って返す。すると彼女はさらに目をしばたたかせて。
「社会人――! ということは伊角さん、会社にお勤めなんですか?」
「そうだよ」
なんでそんなに驚いてるのさ――と問い返すと、彼女は興奮気味に。
「だって伊角さん、社会不適合者の親玉みたいな人だったじゃないで――あいたっ!」
「誰が社会不適合者の親玉だ」
反射的にチョップが飛び出してしまう。それにしても人にチョップするなんて、何年ぶりなんだ?
はたかれた額を両手で押さえながら、彼女は不服の色を満面に湛えた瞳で僕を見据えてくる。
「ううぅ……おかしい。『資本主義は俺がぶっつぶす!』とか『勤め人は現代の奴隷だ!』とか散々に息巻いてたのに、全部なかったことになってる……これじゃ無理してプロになんなくてもよかった……」
「あれ?」
そうだっけ? いけない、完全に記憶にないぞ。正直に言えば、今言われてうっすら記憶が蘇ってきたけど――ここは見なかった振りで。
「人は、成長するんだ」
なんとなく良さそうなセリフを吐くことで、事態の収拾を図る。しかしその小ずるさは当然ながら見透かされているよう。じとっとした視線を至近距離から受けた。思わず目をそらしてしまったところで、ふっと重圧が解け、
「まぁでも、良かったです」
深々と助手席のシートに身を沈め、かなえはどこか満足げな目線を投げかけてくる。
「かなえさん、絶対伊角さんにはスーツが似合うって、ずっとみてみたいって、思ってましたから」
にっこりと、綺麗なアーチを作るように目元がたわむ。
「うん、やっぱり似合います」
「……」
……。
う。
顔から火がでるように――恥ずかしかった。
なにかを褒められること自体は、そんなに珍しいことじゃない。今更恥ずかしがるようなことじゃない。だけど、こいつは。こいつの褒め方はなんというか――他意がなく、純粋に過ぎて、たとえば経験とか慣れとか、そういう防護壁を無効化して心にまで届いてしまうのだ。奏でる音楽と同じで、彼女の言葉も――そういうものだった。
誰でもを初心な状態に還し、
大人でいさせてくれない。
照れ隠しに、僕はアクセルを踏む。
足下から車輪に力が伝わって、滑るように車体が動き出す。
「――それで」
あくまで平静を装って、僕は。
「どこへ行こうか? なにか食べる?」
「申し訳ないんですけど……」
かなえは頭をこごめて。
「かなえさん、教会にいきたいなー、なんて」
「……ん? ああ」
そういえば。
元々ピアノに興味をもったのが、教会で弾かれていたパイプオルガン、その荘厳な音色に惹かれたから……というのもあって、昔から彼女は熱心なクリスチャンだった。そんな彼女からすれば、今日のプロデビュー、その成功を神前に報告でもしておきたい――なんて気持ちにもなるのかもしれない。
「というか、そういうことか」
「何がです?」
「いや、気になってたんだよ。普通はあんな大きなコンサートの後って、反省会なりなんなりあるもんなのに、抜け出すときなんにも文句言われなかったからさ。お前、神様を持ち出して逃げ出したな?」
「えへ」
かなえはちろっと舌を出して。
「ついでに伊角さんは、兄ということになっていますので」
「どうりで……」
五年ぶりの帰郷。それに神と家族を持ち出されたら、引き留めるわけにもいかないな。まぁ神様のほうは――あながち口実でもないのだろうけれど。
もし今日かなえが一緒に来てくれるなら、あそこにいこう……と一応心に留めておいたお洒落なレストランがあるのだけど、今日はやめておこう。
「……いいよ、この伴天連め」
「わぁい!(フィーレン・ダンク!) 善良なる伊角さんに、恩寵のあらんことを」
そういってかなえは手を祈りの形に組んで瞑目し、小さく祈った。
……悪くない、気分。
「でもさ、こんな時間にまだ開いてる教会なんてあるの?」
さっと車に備え付けのデジタルウォッチに視線を走らせれば、時刻は軽く午後九時を回っている。普通に考えると開いてるはずなんてない。また時間を考えず思いつきで行動しているのかとも思ったのだけれど……
「ふふん」
しかし彼女は、なぜか自慢げな表情だ。
「こんなこともあろうかとかなえさん、大学の礼拝堂を開けてもらっているのです!」
「おお!」
あの野生動物よりも今しか生きていない女が、そんな未来を予測するような、人類じみた行為……。僕はそのまざまざしい進化に思わず、感嘆の声を上げてしまった。
そんな心のうちを見透かされたのか。
「てぃ」
「あぐっ」
かなえのチョップが僕の左肘にあたり、びりっと電気を流されたような衝撃が走る。指先が器用なためか、昔からかなえの一撃は弱点部分を外さない。
「悪かった。けど運転中はやめろ」
「……すいません」
というか口に出してはいないのだから、謝る必要あったか……?
まぁそれはさておき。
「大学の……住所か電話番号、分かる? ナビを設定したいんだ」
「あー、はい」
がさごそとバックを漁って、彼女は名刺らしき物をとりだす。
「えーとですね、ゼロヨン二……」
聞きながら、隣で042……とタッチパネルを押してゆく……。
そんな何気ない作業が、なんともいえず嬉しかった。
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