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アマービレ――愛らしく――

 ○


 

 蕩蕩とうとうとした宇宙を照らす極星が、まるで万雷のような最強度音フォルテッシモの拍手を受けてかくれる。するとにわかに、ホールの柔らかな橙色の光が力を増しはじめた。まるで夜を抜けて、朝がくるように。

 プログラムは全て終了したというのに、客席からはまだ拍手の他に音がでなかった。皆揺蕩う(たゆたう)ような夢見心地に、どんな言葉よりも豊穣な無音を噛みしめている。

 ところが僕は対照的に、熱に浮かされているようだった。

 誰彼構わず話しかけて、自慢したい。高校の頃一年近く、彼女の音は僕が独占していたのだと。彼女はいつも僕だけのために、深夜の音楽室でピアノを弾いてくれたのだと。

 世界で初めて彼女を聴き取ったのは、他ならぬこの僕なのだと――。

 ははっ。

 なんて俗物なんだろうか、僕は。素晴らしい演奏を聴いたばかりだというのに、僕の心にこみ上げてくるのは一抹の寂しさだ。

 もう彼女は遠いところに行ってしまったのだと。

 もうその細く綺麗な指が、僕だけの為に踊ることはないのだと。

 そんなことばかり、思ってしまう。

 いつまでも大人になれないな、僕は。

 頭にまとわりつく雑念を払って、ロビーにでる。すると、質のいいソファが数脚、冷たいガラスのテーブルがまばらに散る小さな歓談席に、早くも彼女はいた。デビューしたての新人に、大御所を気取って楽屋で座している暇はまだないようだ。汗をかいた翠緑すいりょくのグラスを手に、品のいい西洋の紳士数名と楽しげに笑い合うその姿は――どうしても、僕の思い出を裏切る。まさかあれが――あんなに全てに臆病で、誰もいないところでないと自分にさえなれなかった彼女、とは。

 しかし僕も、その程度のことが分かるくらいには世知にも長けている。全ては、時と共に変わるのだ。変化の過程を時の流れと、人は名付けたのだから。

 現状を正しく把握せよ。

 かつてはどうあれ、今の僕は彼女にとって、昔なじみの観客――ただそれだけに過ぎない。留学中何の音沙汰もなかったのがなにより勝るその証左しょうざ。だから――あの。見るからに大家といった風情の、威厳ある紳士との会話を遮ってまで僕が挨拶をするなんて、おこがましいことだ。彼は未来に繋がっている。けれど僕はただ、過去でしかない。

 ――ああ、望むな。

 開演前のあの微笑、それだけで僕は十分、満たされているんだ。

 僕は――。

 僕はロビーを、足早に通り過ぎる。通り抜けざま彼女には、黙礼だけを残して。そそくさと外へと続く、回転ドアの中へと我が身を急かす。

 しかし、思い切ってしまうことはとても――できず。

 その、入りしな。

 最後の名残に、振りかえってしまう。

 すると!

 締まりかけたドアの僅かな隙間から、白くたおやかな手が伸びている!

 それは剥き出しの――女神の心臓!

「おわっ!」

 慌てて! 僕は自分の腕を挟み込んで、ドアの回転を止める。即座に警報音が鳴って、ばたばたと人が集まってきた。穏やかな微笑を湛えていた紳士連は今や、その表情を凍り付かせている。

「ば、莫迦――」

「えへへ」

 きつく挟まれた腕の痛みを感じるよりも前に、安堵で力が抜けそうだった。国宝級の壷を、地面すれすれでキャッチしたかのような、非現実的なまでの徒労感。

 久しぶりの感覚。

 まったく、思いつきで無茶をするところは変わってない。

「かなえさん信じてましたよ。きっと、大丈夫だって」

 久方ぶりの、天真爛漫てんしんらんまんな笑顔が輝く。まったくこれじゃ、怒る気にもなれない。

 仕方なく――。

 僕は苦笑をもらしながら、こう言うのだった。

「おかえり、かなえ」

「五年と四ヶ月ぶり、ですね」

 長い目尻を柔らかくたゆませる。記憶より少し大人びた――微笑み。

「ただいま帰りました」

お読みいただき感謝です♪

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