カルマート ~静かに~
○
夜になると、誰もいないはずの音楽室からピアノの音が聞こえてくる――。それはどこの学校でもありそうな、陳腐な七不思議だけれど。僕の学校では生憎、本当に聞こえてくるのだった。
それに気づいたのは、夏のはじめ。
家にゴタゴタがあって、どうしても帰りたくなかった僕は――教員の目を盗んで、部室で寝泊まりすることを繰り返していた。
すると――毎夜毎夜。
部活にいそしむ人たちも帰って、普段の喧噪からの揺り戻し、底冷えのする無音が辺りを包んだ頃――。
遠く微かに、音が鳴っていた。
普段なら決して、気づかない。それほどの小さな音だ。だけど侵入者である僕は――辺りが闇に落ちた後、電気をつけるわけにも行かず、月の光も届かない部室の中でできることなんて、なにもなかったから――気づけたのだ。
たった一人、孤独で。一条の光も届かない、押しつぶされそうな重い闇の中。救いはその音、だけだった。ほこりくさい部室の中、体を丸め、耳だけをそばだてて――僕はただひたすら、その綺麗な旋律に縋っていた。
その演奏に、夜を耐える力を貰っていた。
そして更なる、力をも。
今でも、その情景はありありと思い出せる――。
それはちょうど、プールに侵入して、水浴びをしていたときのこと。水面に揺らぐ満月に見惚れていると、いつもより大きく――あの演奏が響いた。校舎の外れにある部室よりも、プールの方が音楽室に近い。そしてなんたる僥倖ぎょうこうか。その奏者は窓を全開に開けはなって、鍵盤を叩いていた。おそらくは、満月に聴かせる為に。
初めて、身に迫るような大きさで聞いたその演奏。
そして、そのちからを吸って更に輝きを増す水面の月。その幻想的なハーモニーに、気づくと僕は泣いていた。ただただ、世界の美しさにふるえて。
僕はその夜、家に帰った。
力を得て、帰ることができたのだった……。
そして――ふと。
気ぜわしい現実的な問題を、とりあえず落ち着けることができたとき。心に幾ばくかの余裕が生じたとき――ふと、僕はお礼が言いたくて、たまらなくなった。誰だかは無論知らない。いや、なにせあの演奏だ。人一人救うだけの福音だ。もしかしたら本当に――その奏者は魑魅魍魎ちみもうりょうのたぐいなのかもしれない。あたかもその歌声で、船乗りを嵐の海に誘うセイレーンのように。突然わき上がったこの衝動。人嫌いの僕が、誰かに会いたいだなんておかしな思いつき。それは僕が操られているから……かもしれない。そう考えると、筋は通る。
――ただ。
ただそんな思考はもう、一切無意味だった。だって僕は既にあの調べを聞いてしまっていて、救われているのだから。セイレーンへの唯一の対抗策は、その歌を聴かないこと。聴いてしまったが、最後なのだ。
あらがうことはできない。それはそういう、絶対なる音楽の力。
だから――。
僕は今日も部室のなかで、もの悲しげなソナタが静かに流れ出すのを待つ。そして今日は音に導かれるままに、音楽室の厚い革張りの扉を開ける。恐れずに。
そして僕は、彼女と出会った。
夏の終わり。涼やかな夜に。
それがもう、七年も前のことになるか……
お読みいただき感謝です♪