コンフォーコ ~燃え立つように~
協奏曲『完全世界』
満員とはとても言えないまでも、演奏されるのが純然たるクラシック、そして奏者はまだ名もない小娘であることを鑑みれば――十分すぎるくらいの客の入り。壮大なメインホール。巨人のために作られたかのように高い高い天井からは、ほんの微かな光だけが漏れてきている。その光源のあまりの遠さと小ささから、それはまるで真物の星明かりのよう。夏の宵の口のような、明るさとも言え、暗さとも言える光の加減。そんな中に居並ぶのは、流石に紳士淑女だ。開演五分前ともなるともう、咳を払う音さえ聞こえない。
皆一様に、姿勢を正し、
皆一様に、祈っている。
音楽女神の、降臨を。
巻き上げ機の唸り声が遠慮がちに静けさを乱して、滝のように巨大な緞帳が、わずかづつ払われていく。それに従って。白木の上の明るい舞台が、徐々にその顔を顕してくる。そして――いつのまにか。ホール側の照明は完全に落とされ、自分の足下さえ覚束ない暗闇へと落ちている。距離的にはそこまで離れてはいないはずなのに、その光のコントラストは舞台上をまるで、天界にも思わせる効果を発揮していて――
人の子は、戸惑うのだった。
神をその眼にすれば、身は焼き尽くされると――伝えられるから。
まるで黒真珠を糸にして織ったかのような、光輝溢れるブラックドレス。
白く艶やかな長い足、腕、そして指。
自らの今後を決定づけるプロデビューの大舞台。にもかかわらず――その宝玉をはめ込んだような射干玉の瞳に翳りはない。どこまでも澄んで、明晰に世界を見通している。
いや――。
ルージュに塗られた唇が、大観衆を前に微笑の形に歪んでいる。そしてその胸元に挿された白い一輪。あれは――グラジオラスの花。
花言葉は、「戦闘準備完了」
まったく、こいつは。僕は思わず、苦笑してしまう。普段大人しいくせに、ここぞというときには、誰より不敵だ。
まわりの観客がその美しさに息を止めている中――一人だけ、苦笑いを浮かべているのが目立ったのだろうか。吸い寄せられるように、彼女の瞳が僕の方を向く。「よう」と口の形だけで挨拶すると、光が散るような、眩しいはにかみを返してくれた。光栄に、胸が躍る。ああ、僕は女神に知られている。
彼女がすらりとした体を折って礼をすると、万雷の拍手がホールに響いた。しかし、それも束の間。彼女が顔を上げればまた元の――いいや。いままでの静寂を超えた、絶対の静寂が会場に重くのしかかる。それはまるで全ての音が、彼女に吸い取られてしまっているかのようだった。
いや、それは『よう』ではなく、実際そうなのだ。
――彼女は、音の支配者。
この場において全ての音は、その支配下にある。
無言のうちに下される、絶対なる沈黙命令の中。
僕を含め全ての聴衆は――願っていた。
この、海の底に閉じこめられでもしたかのような息苦しい閉塞から――どうか。
お救いください。
タンッ――――――――――――――!
清らかな水面に、細い雷が落とされたような音が鳴り。
――ああ!
僕らは知る。女神にその願いが届いたことを。
機関銃のような、狂的な連弾が!
散弾のような音が、僕らに風穴を開けてゆく!
ああこれは――。
完成当時『演奏不可能』とも言われた超絶技巧曲!
傲慢に傲慢に――その腕を誇示するがごとく、ねじ伏せるような音が襲い来る!
認めろと!
彼女の王威を!
絶対的なちからを!
彼女を中心にあがった焔は、音の形をとって僕らにも飛び移る。
火を着け、
声高に煽る!
反抗を!
望まない全てに対する反逆を!
――間違いなく。
いま彼女の煌めく指で奏でられているのは――ショパン ハ短調 作品十『革命』のエチュード!
僕は――。
僕の女王を中心に、宇宙が白光をあげて燃え立つ様を幻視する。
――ああ、そうだ。
この曲はきっと、君のために書かれた。
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