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八重葎の茂る宿 【吾妻橋の文吉留書】弐

作者: 小石 勝介

 風のお陰で廂はあって無い様なものだと伊織は鬱々とした気分で空を見上げた。それでもこの軒下に駆け込んでいくらか雨を凌ぐことはできる。まるでたくさんの鋲が空から落ちて来るような梅雨寒であった。

 得度を受け蓮虎と改名した坂本伊織は、常陸の国での托鉢行を終え根岸の円光寺に帰る途中であった。降り続いて三日目になるが、朝小雨だったこともあって宿の者から止められるのも聞かず出立した。江戸が近づいたこともあり恋しさのあまり焦ったのかもしれない。

 おそらくこの辺りは小名木村か平方村のはずだ。初春に歩いた同じ道の往路より小名木川の水嵩がだいぶ増えて溢れ出しそうになっていた。今日中には江戸に入れると思っていたが、まだ八つを過ぎたばかりというのに厚い雲のせいで黄昏時のような暗さである。

 伊織は先に進むことを断念して雨宿りした軒先に目を落とした。壁に沿って八重葎の生い茂る荒んだ小屋である。廃屋かもしれない。人の住んでいる温かみや息遣いが感じられなかった。

 突然の激しい雨に雨宿りをしている坊主のことなど蔑にして、村人が二人ほど目の前の畦道で鍬を担いで走り抜けて行く。無視されたことを当てつけるつもりで、遠ざかる農民の後ろ姿に伊織は大声で念仏を唱えた。

 その声が聞こえたのか、唐突に建て付けの悪い戸が開けられて中から小さな娘が顔を出した。迷惑そうな顔をしている。

「お坊さん、中に入んなよ」

 伊織の身につけている梵天袈裟も衣もぐっしょり濡れて体に纏わりついている。娘は一瞥して托鉢僧だとわかると先回りするように口を開いた。

「家にはお布施になる様なものはないけど、そのままじゃ風邪ひくよ。囲炉裏の火で着物、乾かすといい」

 睨むような目をした娘は抑揚のない低い声でそう言うと中へ引っ込んだ。

 伊織は自分の手に持っている鉢に目を落とし、苦笑した。最初から布施を期待してここに立っていた訳ではないのだ。それにしても七つか八つ程にしか見えないが、可愛げのないその娘の小生意気な態度に返す言葉が見つからなかった。

「それはありがたい。拙僧は、蓮虎と申す。急に強くなった雨足に難儀しておったのだ」

「朝からあんなに降ってたのに、出かけるかなぁ……」

 馬鹿にした顔つきで大人のような溜息をつかれて伊織は一瞬むっとした。乱暴に笠を外すと、娘がさらに小馬鹿にして笑った。

「まだお兄ちゃんは、御坊様の見習いかい?」

「そんなところだ」

 伊織の顔を見て娘が一瞬のうちに坊主の位を値踏みしたようだ。だが、娘の警戒心が侮蔑と入れ替わるように薄れていく。それを見て安堵する自分が情けなかった。まだ威厳が備わっていないのかもしれない。腹を立てるより自省する気持の方が強いのは、きっと小娘に圧倒されているのだろう。かつて用心棒をしていた妓楼「花野屋」の遣手婆と小娘が重なった。

――どのように育つのか? 末恐ろしい娘だ。

 そんなことを思いながら僧侶らしく低頭してゆっくりと敷居を跨いだ伊織は、中の淀んだ空気に堪らず袖で鼻を覆った。その汚臭は人の体から発せられたものだと容易に察せられた。娘のほかに年寄りがいるようだ。その臭いが囲炉裏に掛けられた鍋の何か得体の知れないものを煮ている臭いと混ざって異臭を漂わせている。狭い土間で草鞋を脱いだ伊織は衣に滲みた雨を絞りながら辺りを見回した。だんだん目も慣れて来たようだ。薄暗い小屋のその奥の部屋に誰かが寝ているのが見えた。 

「娘御、他に誰かおられるのか?」

「ああ、爺ちゃんが奥で寝ている。もうずっと寝たきりじゃ」

 娘は囲炉裏にかかった鍋を杓文字で掻き混ぜながら様子を見ている。娘のまわりに牛蒡の葉や里芋の茎の切れ端が落ちていた。娘は八重と名乗った。八重葎の八重かと口から出そうになったが、呑みこんだ代わりにその思いつきをひとりで笑った。含み笑いの伊織を八重は訝しげな冷たい目で見た。

「八重殿の親は?」

 取り繕ったような伊織の問いに、娘は顔を上げないまま小さく横に振った。

「去年、おっ母さんが死んだ。お父っつあんは知らぬ。五作の爺ちゃんと二人きり。爺ちゃんもおっ母さんが死んでからすぐに具合が悪くなった」

 要領の得ない話だったが、八重と五作の爺ちゃんと呼ばれる寝たきりの老人はどうも血が繋がっていないようだ。それどころか何か使用人と雇い主の娘といった関係を思わせる口振りであった。

 八重は杓子で鍋の中を掬うと味を確かめた。濁って青味がかった泥のような色をした汁であったが、八重は満足そうに頷いて椀にうつそうとした。

「爺様の食事か?」

 八重が訝しげに伊織を見上げた。

「そうだよ。味噌も残っていたから入れてみた。欲しかったら金を払え」

 何か文句があるのかという目で八重は睨みつけて来る。

「ならば、待て」

 伊織は八重から杓子を取り上げると、汁を味見した。見かけほど悪い味付けではなかった。伊織は荷を解いて竹籤で編まれた小さな籠を取り出してみせた。油紙に包まれたその籠の中には朝出掛けに旅籠で握らせた大きな握り飯が二個入っている。昼飯にしようと持っていたものだが激しくなった雨のせいで喰いそびれていたものだ。伊織は目を丸くして驚いている八重に笑い返しながら鍋の中にそのむすびを放り込んで杓子で解してみせた。

 弁当箱の中へ一緒に入れてくれた沢庵をわざと八重に見せびらかす様に口に頬張った伊織は、むすびについた塩も汁の味付けに塩梅がいいだろうと勝手に想像して鍋の煮立ち具合を眺めた。大きな音を立てて沢庵を噛み砕く伊織を恨めしそうに睨む八重の顔を見てやっと勝ちを拾った気分になれた。

「これで粥ができる。病人には少しでも滋養のあるものを喰ってもらわねばのう。余った分はおぬしが食しても構わぬぞ」

 最後に付け加えた一言は、指を銜えて悲しそうな目をする八重に少しだけ優しくなったためだろう。

「……米か? 施しする方が施しを受けちまった」

 八重の唾を飲み込む音が聞こえた。言うことは一々癪に障るが、伊織の前で初めて子供らしい顔を見せた。生意気な口をきくわりには笑うと無邪気さがでる。昨年死んだという母親は娘にどんな教育を施したのだろう。どうしたらこんな小憎らしい娘に育つのかと、不思議に思いながら伊織は八重に味見をさせると、八重は満面の笑みを浮かべた。

「うめぇ、これなら五作の爺ちゃんも元気が出る」

 何度も息を吹きかけて熱を冷ましながら八重は五作のもとへ雑炊粥を持って行った。食べさせているのだろう。しばらく戻っては来なかった。何か話声が聞こえてくるが囁く様に小さくて伊織の耳まで届かなかった。伊織にしても聞き耳を立てる気もなく、濡れた衣を着替えて鴨居にぶら下げていた。

(まだ生きているなら、坊主は必要ない……)

 そんな不謹慎な考えがふと頭を過ったのは、まだ伊織が蓮虎として仏門に帰依してから日が浅いせいかもしれない。つい最近まで二本差しの侍だったのだ。父は、小普請組で俸禄七十俵十五人扶持だったが腹違いの弟に家督を譲ることにして自分は出家した。たいした扶持米ではなかったが、弟に家督を譲るために出家したという方が正確かもしれない。いやもっと正しく言うのなら伊織の決心を泣いて止めようとした美しい義母を喜ばせたかったからかもしれない。

 自分の腹を痛めた子が家督を継ぐのだ。喜ばぬ親はいまい。伊織の勝手な思い込みであったが、家を出た理由の一つでもあった。

 優しい義母由岐とは歳が四つしか離れていない。腹違いの弟である鉄之助はまだ生まれたばかりである。父親が若い嫁を貰うのも考えものだと義母に対する想いを抑えて伊織は溜息を吐いた。

 屋敷にいても悶々とした日々を過ごし、剣術の道場仲間と一緒に岡場所にも通い続けたが、父があの女を毎晩抱いているのかと思うとどうしようもなく耐えられなかった。それに何人女郎を抱いても義母の美しさを再認識するばかりである。

 終いには通い続けた楼閣で腕を見込まれ用心棒のようなこともしたが、何も知らない義母が心配して泣きながら連れ戻しに来た。父親からは、御家人の身で何を考えておるのかと散々怒鳴らた。いくら剣の腕が立とうとも精神の修業が足りぬと言われたのを切っ掛けに、ならばと菩提寺である円光寺を頼って仏門に入ったのだが、いささか短慮過ぎたかもしれない。

 早速水戸から潮来にかけて托鉢行を言いつけられた。まだ満足に経も読めないというのにである。和尚は伊織の不純な動機を見透かしていたのかもしれない。そう出るならきっちりやってやろうじゃねぇかと心の中で啖呵を切って托鉢に出たのだ。

 義母を想う気持ちを忘れるためには都合がよかったが、やはり自分は坊主に向いていないということが今回の修業でよくよくわかったような気がする。

 それならば自分は何に向いているのかと聞かれても困る。二十年ちょっと生きて来たくらいでそんなものが判る筈がないと思った。ずっと小石川は牛天神下にある堀内道場で剣の腕を磨いていた。そこはかつて赤穂浪士の堀部安兵衛が四天王と呼ばれていた道場である。誰にも言っていないが単純に高田馬場十八人斬りで有名な堀部安兵衛に憧れて通った。免許皆伝の腕前である。しかし、剣がいくら強くても今の平和な世の中で何の役にも立ちはしないということが家を飛び出してみてよくわかった。

――とにかく戻ったら還俗しよう。いまさら坂本の家に戻れないし、しばらくは花野屋で用心棒でも続けながら、考えてみるのも悪くない。

 そんなことを考えながら鍋に残った粥をひと口啜った時だった。

 八重が、高飛車な態度で伊織のそばにやってきた。

「五作の爺ちゃんが話をしたいって……」

「礼には及ばぬ。無理をすることはない。安静にしておれ」

 だが、八重は首を振った。

「泊めてやるんだから礼なんかするか。金を取らないだけありがたく思え」

 伊織はカッと頭に血が上ったが、有無を言わせぬ力で八重に袖を引かれて仕方なく立ち上がった。


 次の日は、嘘のように雨が上がった。

 地面が水を含んでいるので穴を掘るのはそんなに難しいことではなかった。

「八重、おぬしも手伝え。おぬしの爺様ではないか」

 鍬を持つ手を休めて伊織は八重を睨んだ。だが手頃な石に腰かけて肘をついて顎を乗せている八重は伊織を睨み返した。

「穴を掘るのが上手じゃないか。いいお百姓さんになれるよ。人に恵んでもらわずに、自分で耕して食べなよ」

 伊織は一晩でだいたい理解できた八重の性格に、諦めてまた鍬を打ち下ろした。

「御釈迦様は仰せられた。信仰が種、修行は雨であると。智慧が人々の心を耕し、全ての苦悩からの解放を実らせるのだ。拙僧は托鉢をすることで、信仰の種を蒔き、耕している」

 托鉢行に出る前言われたことをそのまま八重に言い返したが、八重は首を傾げただけである。確かに八重の歳では難しい話だろうが、つい八重なら理解できるのではないかと勘違いした伊織が悪いのだろう。

「とにかく我等に金銭や食物を施すことは尊い行為なのだ。執着を越え、慾を少なくし、足るを知ることを我等は教えておる」

「よけいわからん」

 伊織は俄か講釈することを諦めた。仏行が何であるかまだ分かっていないうちに人に説教することなどおこがましいのだ。やはり、自分にはこの仕事は向いていない。伊織はそう思った。

 五作は伊織にあることを頼むと安心したのかその晩に息を引き取った。まるで伊織が来ることがわかっていたような死に際であった。五作にとって大事な八重の身の振り方を決めるまでは死んでも死にきれなかったに違いない。

「こんなもんだな。爺様を運んでくるか。弔いが終わったら出かけるからな」

 八重はプイと横を向いて、それでも五作を寝所から運ぶのを手伝った。

 伊織は、大仰にうろ覚えの般若心経を誤魔化して三度繰り返した。ちらりと八重を盗み見たが聞いている風はなかった。八重は母親の隣に並んだ五作の墓の両方を無言で見詰めたまま長い間手を合わせている。伊織の下手な経より八重の合掌している手の方が五作を成仏させてくれるかもしれないと思いながら、伊織はどこかで古着屋に寄らねばなるまいとおぼろげに考えた。旅の支度といっても八重が着ているものは一張羅を着殺しているようだった。それにきちんと髪も結ってやらねばなるまい。

 それが、昨夜の五作との約束であった。どうやって溜めたのかわからないが、二十両近くの金子も渡された。その金を見せられた時は思わず「これだけあれば医者にも見せることができただろうに……」と、口から出そうになるほどの憤りを感じた伊織であった。

 とんだ約束をしたものだ。できればこんな生意気な娘と関わり合いになりたくはないものである。雨が上がれば少しは娘の性格も変わるのではないかと期待したが、そんなことがあるはずもなかった。八重は相変わらず小憎らしいままである。

 だが、今わの際の五作の頼みなのだから仕方あるまい。八重を深川にいるという父親のもとに届けるだけのことだ。坊主としての最後の仕事だと思えば、これも修業のうちだろう。

 急ぐ旅でもない。伊織は八重の気が済むまで別れを惜しませることにした。空を見上げると夏が近づいているのがわかるが、まだ梅雨が終わっていないことも確かなことであった。



 法恩寺橋袂の太物屋藤河屋に賊が入ったのは、梅雨の合間の快晴が続いた二日目の夜だった。横川の流れは相変わらず水嵩も増えて濁っていた。

 翌朝、番屋で知らせを聞いた文吉は、下っ引き佐平と寅蔵を引き連れ、荒らされた藤河屋へ乗り込んだ。既に稲荷町の金治親分が到着しており、粗方の聞き込みが終わった後だった。文吉の死んだ親父と張り合っていた金治は岡っ引きの中では古参だが、まだ矍鑠としている。

「吾妻橋よぅ、遅ェじゃねえか」

 新米岡っ引き文吉は、頭を下げて笑うしかなかった。

「とんだ間抜けな盗人だぜ。盗んだのは反物と少しの金だ。反物は盗まれた物と同じ端切れを貰ったから売り捌こうとしてもすぐ足がつくぜ。金の方は六両と二分」

「六両二分?」

 涼しい顔で嘯く金治に文吉は思わず聞き返した。佐平が口を開けて固まっている横で寅蔵が鼻で短く笑う。不謹慎だが大急ぎで駆け付けた三人の体から一時に力が抜けたのは否めなかった。

 文吉は帳場に目をやった。先に来た金治が現場を弄るなと強く命じていたのでそのままになっていたが、それほど荒らされた様子が見えないのが不自然だった。

「たったのそれだけで獄門台に上がったんじゃ間尺に合わねぇぜ」

 嘯いて笑う金治の後ろから、役者のような若者が文吉に挨拶してきた。腰も低くしてそつがない。

「藤河屋の番頭をやっております卯三郎と申します」

 どこかで見覚えのある顔であった。文吉は自分の記憶を辿ったがすぐには思い出せなかった。

「吾妻橋の文吉親分でございますか。お久し振りでございます。相生屋の旦那様はお元気でございますか?」

 不意を突かれたような気分になり文吉は卯三郎の顔を改めて眺めた。文吉は岡っ引きであった父親の辰蔵が凶徒の刃に斃れた十九の歳までは、日本橋にある小間物問屋に奉公していたのだ。そして、文吉の女房お澄美は小間物問屋相生屋の一人娘である。

「……真さんかい?」

「はい、番頭になってからは卯三郎と名乗っておりますが、手代の頃は真吉と呼ばれておりました」

 卯三郎はにやりと人懐っこい笑顔を作った。言葉は交わしたことがないが、やはり相生屋にいた時分に会っている。文吉は、その当時の記憶がよみがえってきた。

 主人同士が幼馴染で仲が良く、相生屋の五兵衛と藤河屋の藤衛門の二人は、よく日本橋の料亭に通っていたのだ。確かに真吉とは何度か其々の主人のお供で顔を合わせたことがある。藤衛門は厳しいのが有名で、人が見ている前でも真吉を激しく折檻していた。その藤河屋藤衛門もすでに鬼籍に入っており、今は息子が後を継いでいるはずだ。

「立派におなりなすった。先代の目に狂いはなかったってことだな。だが、今はお役目の途中だ。昔話をしてぇとこだが、そいつぁ次の機会にさせてくんな。帳場に金がねぇっていうのはどういうことなんだい。番頭さん」

 作り笑顔を慌てて引っ込めた卯三郎は恐縮して頭を下げた。

「ええ、売上のほとんどは日本橋の両替商に預けておるのですが、今朝一番で大きな現金取引の商いがございまして、昨日までの売り上げを家に持って帰っていたのでございます。通いの番頭だったことが不幸中の幸いでございました」

「随分と信用されているもんだ」

 金治が皮肉を含ませて卯三郎を睨むと、老分格の番頭である政五郎が慌てて揉み手をしながら出しゃばって来た。

「卯三郎様は、旦那様の弟でございますから……。売上の管理から仕入れ、手代の教育まで一切合財店のことを受け持っていらっしゃいます」

 文吉は思わず卯三郎の顔を見た。

――弟? 先代の息子だったのか……。息子にしちゃあ凄まじい扱きだったな。あん時ァ、奉公先が相生屋でよかったって心底思ったもんだ。

 粗相して下駄で何度も殴られる血塗れの真吉を思い出した。

 先代から仕えているのであろう老分番頭が誰にともなく丁重に言い訳を始めた時だった。お供に薬箱を持たせた医者が奥から出て来た。

「旦那様は、掠り傷じゃった。大事ない」

「それは、それは安心いたしました。朝早くから御足労願いまして誠に申し訳ございませんでした」

 卯三郎から渡された診察代の包みを大層らしく拝謝して受け取る医師が文吉に気付いて笑った。

「源庵先生じゃねぇですかい。御苦労さんでございます」

「おお、文さんか。普通に殴られただけじゃというのに大袈裟に騒ぎおって、唾をつけても治るわい」

 榊原源庵は本所松倉町に居を構えている蘭方医である。酒が好きで文吉の死んだ父親とよく飲んでいた。検死の協力も何度かしてもらったことがあるが、約束で謝礼は全て酒で購われた。

 弟子の彦志郎は文吉と歳が近い。その彦志郎が師の言葉を継いだ。

「文さん、大分臆病な旦那様のようだ。やたらと恐がって往生したが、膏薬を貼ったら少しは落ち着いた。もう話を聞いても大丈夫だよ。賊の顔も見たんじゃないかね」

「すまねぇ、彦さん」

 文吉は卯三郎に目を合わせて促すと、うっすらと微笑を湛えた表情を変えずに腰を折り曲げて、こちらへどうぞと奥に向かって手を差し伸べた。文吉は下っ引きの佐平と寅蔵に現場の検分を任せると金治と一緒に卯三郎の後に従った。

 後ろで佐平と金治の下っ引きとが揉めているのが聞こえて来た。佐平が何か気付いて現場の見立てで言い争っているようだった。年嵩の寅蔵が間に入っているので問題は起きないだろう。島帰りの寅蔵の貫録は金治等その辺の岡っ引きでも敵わない。逆にちょっと目を離すとすぐに十手を嵩に金品を強請り取ろうとするのが玉に瑕である。

「こちらでございます」

 案内されてやっと奥座敷に辿りついた。先代がやり手だったお陰で、その代に店が急に大きくなり、屋敷に建て増しを繰り返した後がいたる所に見える。

「旦那様、稲荷町の金治親分と吾妻橋の文吉親分がお見えになりました」

 障子の外から声を掛ける卯三郎に対して、中から「会いたくないよ」とひどく心細い声が聞こえてきた。

「我が儘を言っては困ります。御用の筋でございますよ」

 卯三郎がぴしゃりと言い放って障子を開けた。その隙間から慌てて布団から飛び出し居住いを正す中年太りの男が覗けた。主人の吉衛門だった。額に絆創膏を貼られて落ち着かない目をしている。歳は卯三郎より一回り以上離れて見えるが、老分番頭は卯三郎のことを弟と言っていた。随分と歳の離れた兄弟に思えた。役者のような卯三郎とは顔つきも違う。吉衛門の垂れた目が泣いているようにも見えた。

 金治が十手を突き出してずかずかと中に入って行くと悲鳴を上げた吉衛門は震えて後退し始めた。

「若旦那、奉公人は誰ひとりとしちゃあ怪我もねぇって言うのにとんだ災難だったな。ところでおめぇさんを小突いた奴等の顔は見たのかい?」

 金治に威圧されて吉衛門は素早く首を横に振った。柱や壁にできたばかりと思われる刀傷が無数についている。

「何っ、見てねぇだと!」

「はい、皆さん頭巾を被っていましたから……」

 吉衛門がない首を竦めた。文吉は見かねて金治をひとまず座らせた。

「泥棒に向かって皆様はねぇだろう。え? 吉衛門さんよ。それじゃ顔は見てねぇんだったら何人いた?」

 吉衛門が目だけを天井に向けて指を折る。思い出しながら数えているのだろう。両手の指が順に折れた。

「八人もいたのかい。そいつぁ生きた心地もしなかっただろうよ。それで手元にあった財布を渡して命乞いしたってかよ。藤河屋の大旦那ってのに六両二分ったぁ安い命だぜ」

 昨夜の恐怖がよみがえったのか吉衛門は卯三郎を素早く手招いて縋る様に彼の両腕を掴んだ。

「卯三郎、藤河屋の身代をそっくりおまえさんに譲るよ。お前さんの方が商才もあるし、あたしゃ何にもできやしない。今でも寄合にはお前さんに行ってもらっているじゃないか! いいだろ? あたしゃ器じゃないんだよ。お父っつあんの子だというだけで、務まらないよ。大旦那っていうだけで、もうこんな思いをするのはごめんだよ」

「何を気の弱いこと仰るんです。親分さんが聞いていますよ。馬鹿なことを言っちゃあいけません。藤河屋と血の繋がらない私には、店を継ぐ資格がございません。店は私がちゃんと切り回しますから、兄さんはでんと構えていておくんなさい」

「確かに私で四代続いた藤河屋だか、そんなこと誰が決めたんだい? 力のあるお前さんが継いだって誰も文句は言わないよ。私が言わせないよ」

 卯三郎が文吉等に見られてみっともないと思ったのか、懸命に吉衛門の腕を振り解こうとしたが、駄々を捏ねる子供のように余計しがみつかれていた。

「いいんだよ。あたしゃお絹を捜すよ。もうお父っつあんもおっ母さんも死んじまったんだ。誰も反対する者なんかいなくなっているんだ。お絹はこの家を出る時子を孕んでいた。あたしゃ隠居して親子三人で静かに暮らしたいんだよ」

「義姉さんはもう何年も行方知れずじゃありませんか。どこをどうやって捜すんです? 盗賊が入って少しばかり気が弱くなっていらっしゃるんですよ」

「でもよう……」

 気短の金治が十手を振りかぶって畳を思いっきり引っ叩いた。座敷中に大きな乾いた音が響き渡り、吉衛門が息を飲んで体を縮めた。文吉もいい加減吉衛門の醜態に辟易してきた所だった。

「身代のどうのこうのはおいら達が帰った後でやってくれ」

 金治は立て膝をついて体を吉衛門の方へ乗り出して、迫り出した吉衛門の腹に十手を突き付けた。

「大旦那、どうなさいやす? 盗賊に入られやしたとお届けを出しやすかい? 怪我もねぇ。捕られた金も雀の涙だ。それでも届けを出すのならおいら達にもっと賊の特徴を詳しく話してもらいてぇもんだ」

 文吉は金治の口振りから盗賊を捕まえる気がないことに気付いた。このまま幾許かの金を貰って引き上げるつもりなのだろう。

 慌てた素振りを見せたのは卯三郎の方だった。たった今思い出したように懐から懐紙に包んだ心付けを取り出すと、金治の袂に押込んだ。重さを確かめた金治は冷笑して、頭を下げた。

「それじゃあ、いいんですね。これからは戸締りに用心してくださいましよ」

「はい、口入屋から腕に覚えのある用心棒を雇い入れるつもりでおります。ご安心を」

 卯三郎が慇懃に答えるのを聞いて金治は立ち上がった。

「帰るぜ、吾妻橋の」

 動かない文吉に金治はもう一度声を掛けた。

「訴えを起こさねぇってんだから、このヤマは終いだ。長居は無用、おいら先に帰ェるぜ」

 腰を上げた卯三郎に金治は見送りを断って座敷を出て行った。

 吉衛門は帰る素振りを見せぬ文吉を苛立って邪険に追い払おうとした。

「卯三郎、この若い下っ引きにもお捻りをくれておやり。早く帰ってもらいなさい。あたしゃひとりになりたいんだ」

「兄さん、失礼でございますよ。下っ引きじゃございません。吾妻橋の文吉親分です」

「あ、思い出した。相生屋の婿養子を蹴って辰蔵親分の後を継いだっていう変わり者の息子さんかい。どうやったらあんな大店を継がずに済んだんだい? あたしもできるものならあやかりたいもんだ」

 若い文吉を見て吉衛門は急に居丈高な物言いに変わった。

 それでも文吉は胡坐を組んだまま動じた気配を見せなかった。

「吉衛門の旦那、本当にいいんですかい? おいら、どうも合点がいかねぇ。そこいらの傷は昨夜つけられたものですかい?」

 吉衛門の後ろにある床の間に掛けられた高価な表装の掛け軸も切り裂かれて下半分がない。

「そうだよ。だからそれがどうしたというのだい? もう訴えないんだから帰っておくれよ」

「柱や壁には刃物の痕があるっていうのに慈悲深い盗賊だ。吉衛門の旦那には切り傷ひとつねぇ。それにいくら金が店になかったからといって、たったの六両で黙って帰るなんざぁ腑に落ちねぇ」

「無いものは仕方がないじゃないか!」

「それに帳場から旦那の休んでいるこの座敷まで賊はまっすぐ来たようだ。おいら一人で歩きゃ、建て増しで入り組んだ廊下だ。迷っちまう」

「遅くまで黄表紙読んでいたから、その灯りをたよりに来たんだろう。別に不思議じゃないよ」

 黙った文吉に勝ち誇った吉衛門が手をひらひらさせて帰れという素振りを見せた。

 釈然としないまま立ち上がった文吉の傍に卯三郎が腰を折って寄って来た。文吉の肩を抱く様にして渡り廊下に出ると後ろ手で障子を閉めた。

「御足労掛けました。これで下っ引きの方々にお昼でも……」

「昼飯代にしちゃ多すぎるぜ」

「酒でもつけてくださいまし。これをご縁に藤河屋のことをよろしくお願いいたします」

 丁寧な物腰の卯三郎であったが、店を守る優秀な番頭らしく人との距離をそれなりに開けて隙を見せなかった。

 どこから現れたのかきつい目をした白髪混じりの女が出てきて、卯三郎と一緒に文吉を見送ってくれた。藤河屋の女将のようで背筋をぴんと張って歩くその姿に、すれ違う奉公人は皆一様に低く頭を垂れて畏怖を潜めた挨拶で小走りに通り過ぎた。


 文吉は、佐平と寅蔵を法恩寺橋から少し下った清水河岸の一膳飯屋で労った。いつの間にか昼を過ぎていた。

 山盛りの飯をヤケ食いしながら文吉と幼馴染の佐平は機嫌が悪かった。

「文吉兄ィ、あの押込みは騙りじゃねぇのかい! 絶対解せねぇ」

 盗賊が出たと番屋に駆け込んで来たのは、吉衛門に言いつけられた店の小僧である。だが、表から調べた佐平に言わせると中からの手引きがなければ店の中に入れないほど戸締りは厳重にしてあったようだ。雨戸をこじ開けた様子もない。

「住み込みの奉公人達が気づいて騒ぎだした時にァ、賊はもう逃げ出した後だって言うじゃねぇか」

 佐平は賊の存在そのものを疑っているようだ。考え事をしているせいか親の敵のように飯を掻き込んでいる。

「佐平、ゆっくり噛んでから呑みこまねぇと腹ァこわすぜ。奥で会ったが、吉衛門のあのビクつき様は尋常じゃなかった。誰かが押し入ったことには違いねぇと思う」

 文吉は二人に吉衛門の様子を話して聞かせた。話しながら気分が悪くなって行くのが自分でも分かった。相生屋で手代として仕込まれながらいろんな店の旦那衆を見て来た文吉であったが、吉衛門のような軟弱な男は見たことがない。

「寅の父っつあんよぅ、どう思う? 今までの押込みで似たようなのがあったかい? ありえねぇよなぁ」

「佐の字、俺はおめぇの父っつあんになったつもりはねぇぜ」

――ありゃあ押込みじゃねぇ。

 寅蔵は何の躊躇いもなく言い切った。

「押込みじゃねぇなら何だよ。寅蔵さん」

 媚びた佐平の物言いに寅蔵は鼻で笑って、銚釐から手酌で酒を飲んだ。店に入ってすぐ何を食うかと聞いたが寅蔵は酒と菜漬けだけでいいと答えていた。

「押込みなんかじゃねぇ。ありゃあ脅しって言うんだ。何が狙いかわからねぇがな」

「誰が、何のために脅かしかけるんだよぅ」

「だから何が狙いかわからねぇって言っただろうが! 何にしても金になりそうな臭いがするぜ」

「何だ、第六感ってやつかい。おいらつき合わねぇぜ。そんな裏付けのねぇ話」

 佐平の言うことも尤もだった。何の根拠もない寅蔵の勘である。

「それじゃあ金になるかどうかはわからねぇが、後は寅蔵さんの好きにしていいぜ。おいら、石原町の御隠居さんの所へ寄ってくる」

 昼飯の勘定をする文吉に佐平が首を傾げた。

「去年婆さんが死んで、独り身の松衛門爺さんかい? 何かあったんです? 兄貴」

「ああ、藤河屋の小僧が来る前に財布を盗まれたって番屋に訴えて来やがった」

「それこそ騙りですぜ。話し相手が欲しいだけでさ」

 笑って出て行った文吉を追いかけるように佐平が蜆汁と一緒に飯を喉に流し込んで飛び出した。だが、文吉は立ち止って藤河屋の方向を眺めていた。佐平も訝しげに文吉の視線の先を辿ってみた。

 藤河屋の前で凄まじい剣幕の手代が子連れの托鉢僧を追い立てていた。だが、坊主も負けていない。何か大声で叫んでいるようであったが、文吉のいる所までは何を喚いているのかまでは分らなかった。かなり揉めているようだ。

「珍しいね。あんな気前のいい藤河屋がお布施をケチったのかねぇ? それにしても新手の物乞いかい。あんな餓鬼連れて……」

 最近大店の前に刃物をちらつかせて「死んでやる」と座り込む新手の強請りが流行っている。面倒を起こしたくない店は幾らかの金を渡して立ち退いてもらっていた。

 佐平が道端の小石を蹴飛ばしながら腰から十手を引き抜いた。

「餓鬼連れの托鉢なんざぁ聞いたことがねぇや。昼飯代貰ったお礼にちょいと薄汚ねぇ偽坊主を追っ払ってやりやすか?」

「そうだな……」

 歩き始めた時、藤河屋の暖簾を跳ねて卯三郎が飛び出してくるのが見えた。さっきとは打って変わったような厳しい表情をしている。いきなり托鉢僧の襟を掴むと強い力で突き押した。しかし、腰の据わった托鉢僧は微動だにしない。反対に錫状をひとふりして卯三郎を振り払った。

 しかし、大声を上げて佐平が十手を振り上げて駆けて行くのに気づいたその僧は、娘の手を引いて足早にその場を離れて行った。

 文吉が到着した時にはもう卯三郎は、愛想のよい商いの顔に戻っていた。

「お布施が少ないと強請りのような言いがかりをつけられまして、帰ろうとしないものですから困っていた所です。こんなことは今迄になかったことですが、早速口入屋に用心棒を頼んでまいりましょう」

 聞かれる前に卯三郎は口早な繰り言を吐き捨てると、托鉢僧とは逆に大横川沿いを下って行った。卯三郎が見えなくなったのを確認した文吉が、石原町は後回しだと佐平に言った。

「へい、ガッテンだ。また次の店で暴れやがるかもしれねぇですからね。追いかけやしょう」

 着かず離れず一定の距離を保って文吉等は托鉢僧と娘を尾行した。しかし、その怪しい二人組は藤河屋以外で托鉢する様子もなく、川沿いを歩き続けて大横川から源森川、そして、文吉の住んでいる達磨横丁の長屋近くの吾妻橋を渡った。藤河屋からこの吾妻橋まで川に沿って歩いて来るのは、遠回りである。最短距離を通らなかったということはこの辺の地理に疎いのかもしれない。

「何やかんや言っても、あの切れ者の番頭のするこった。そっと袖の下に大枚を忍ばせたのかもしれやせんね。今日の仕事は終わりだってんで塒に帰ってるんじゃねぇですかい?」

「それならそれで、ちゃんと宿を突き止めて話を聞いてやらなきゃあな」

 だが、人手の多い浅草寺の境内を通り抜けた幸竜寺近くの火除地で托鉢僧は、やくざ者十数人に囲まれた。やくざ者の一人が何か確かめたようだったが、托鉢僧に向かっていきなり匕首を抜いて全員で斬りかかっていった。

「行くぜ! 佐平っ」

 文吉は十手を引き抜いてその輪の中に向かって掛けて行った。

 しかし、錫杖を剣のように構えた托鉢僧はひるまず娘を庇いながら縦横にやくざ者を打ち据えている。既に半数が地面に這いつくばって呻いていた。

「やめねぇか! 言うこときかねぇ奴等は片っぱしからしょっ引くぜ」

 文吉と佐平は目に留まった端から匕首を十手で叩き落としていった。

「邪魔が入りやがった。引き上げだ!」

 兄貴分らしい男が舌打ちをして合図を出すとやくざ者は捨て台詞も吐かず、蜘蛛の子を散らす様に引き上げて行った。

「兄貴、ありゃあ繁蔵一家の若ェ者だぜ」

 佐平がやくざ者の中に見知っている顔を何人かみつけていた。

 繁蔵は仙台掘りの繁蔵と呼ばれる西平野町に一家を構える博打打ちである。

 文吉は素知らぬ顔で立ち去ろうとする托鉢僧に声を掛けた。

「どうしたい? このまま行かせるわけにゃいかねぇな」

 振り向いた托鉢僧の笠が斬られていて隙間から顔が覗けた。僧は顎の紐を解いて笠を外すとまだ若い男の顔が出て来た。あれほどの動きの後でも一向に息も上がった様子もなく、汗もかいていない。坊主じゃないかもしれないと文吉は疑った。強すぎる。手にしているものが錫杖でなく刀であれば襲った繁蔵一家の若い衆はみんな殺されていたかもしれない。それにしても綺麗に澄んだ目をしている男だと文吉は思った。

「こっちは襲われた方だ。理由もわからん。突然のことに驚いておるぐらいじゃ。詮議される覚えはない。理由を聞きたいのだったら奴等を追いかけて行け」

「喧嘩腰になるんじゃねぇよ。誰もおめぇさんをしょっ引こうなんて考えちゃいねぇ。どうして藤河屋に顔を出したのか教えてくれたら帰してやるよ」

 歳が近いせいか文吉の言葉が些かぞんざいになっている。男の腕前を見たせいで余計に気合いが入っているのかもしれない。

 突然小さな娘が文吉と托鉢僧の間に入って来て僧を守る様に文吉を睨んだ。口を真一文字に引き結んで通せんぼの様に両手を広げている。

 文吉は腰を落として、娘の顔まで降りて行った。

「安心しな。お父っつあんを苛めたりしねぇよ」

 頭を撫ぜようとした文吉の手が娘から邪険に払われた。

「お父っつあんじゃない」

 怒ったように叫ぶ娘に驚いた文吉は、一瞬腰が引けた。

 托鉢僧がやれやれといった表情で娘に手を掛けるとそのまま連れて行こうとした。

「どこへ行くんだい?」

 文吉のかけた声にその僧は首を傾げて立ち止り、文吉へ振り向いた。

「どこに行こう?」

 男の幾分途方に暮れた顔つきに文吉は戸惑いながらも笑ってしまった。


 文吉は吾妻橋の傍らにある自分の住む長屋へ二人を連れて来た。嫌がる佐平を松衛門の爺さんの家へ行かせて、長屋の入り口にある手蹟指南所に顔を出した。文吉の棟の隣である。

「数さん、すまねえが昼からこの部屋を借りたいんだけど、いいかい?」

 指南所の師匠である藤堂数馬は自分の机で子供たちの課題に朱を入れていた。数馬の婚約者である楓が子供たちの机を一つ一つ丁寧に拭いている。

「上がんなよ。昼から使う常磐津のお師匠さんも明後日まで休みだから午後は誰もいねぇよ」

 文吉の女房のお澄美が人数分の茶の用意をして入って来た。八重のためにお菓子も用意している。

「おっ母さんはお父っつあんとお伊勢参りに行ってるからね。明後日になったって帰ってこないんじゃないの」

 昼から使うという常磐津の師匠とはお澄美の母親であった。元日本橋の芸者で自称一番の売れっ妓だったと自慢している。相生屋の主人五兵衛が三日と開けず通い続けて一緒になったらしい。文吉が相生屋に奉公している時は、行儀作法に厳しく煩い女将さんであった。娘が文吉に嫁いでからこの長屋に口実を設けて乗り込んできている。

「ところでここを使いたいのは、後ろのお坊さんかい?」

 伊織はこくんと屈託なく頭を下げ、挨拶をさせようと隣にいる八重の頭を押した。しかし、八重はその手を払いのけると框に跳びあがり壁に貼られた子供たちの習字を食い入るように見詰め始めた。

「おい、おい、汚い足で上がるんじゃない」

 慌てて八重を追った伊織に数馬は笑って八重を許した。

「あなたも書いてみますか?」

 伊織から押さえつけられて足を拭かれている八重に楓が優しく問いかけた。吃驚したように目を丸く開いた八重はしばらく楓の顔を見詰めていたが声を出さずに頷いた。

 頬笑みを湛えた楓が八重の前に小机を用意した。楓は指南所に来る子供達から女先生と呼ばれて評判がいい。

「娘さんは楓殿に任せて、座布団もねぇが、さ、座ってくれ。何だか事件の臭いがするぜ」

「考えすぎだよ、おいらもまだ何にも聞いちゃいねぇ。これからなんだ」

 数馬は野次馬のように文吉の捕物に協力してくれるが、剣の腕が尋常ではない数馬に文吉は何度も助けられている。

「お名前は?」

 楓が八重に優しく問いかけた。

「……八重」

「それでは、自分の名前を書いてみましょうか」

 だが、八重は筆を持ったまま俯いた。時々伊織に助けを求めるような目を向けた。先ほどのやくざ者との立ち回りを見て少しは伊織を見る八重の目が変わったようだが、伊織には八重の訴えたいことがわからなかった。

 楓が八重の心を先回りした。

「私がお手本を書いてあげましょう。いいですか? あなたの名前はこう書くのです。や……ゑ……。ゑが少し難しいですね」

 まるで穴が開くくらい八重は、楓の書いた手本を見詰めた。文字をまだ書けない八重を気遣うように楓が、頬笑みを浮かべたまま後ろに回り八重の右手に手を添えた。

「いいですか? 肩の力を抜くのですよ」

 楓が八重と一緒に白い半紙にやゑと書いた。

「今度は一人で書いてみましょう。はい、背筋を伸ばして……」

 八重が素直に言うことを聞いている。伊織は初めて見る八重の殊勝な面持ちに戸惑いと楓に対する軽い嫉妬を覚えた。一緒にここまで来て三日が経った。古着屋で着物も買ってやった。風呂にも入れたし、髪も髪結い床で結わせてやった。粗末な雑炊を喜んでいたので山盛りの飯や団子も食わせてやった。しかし、ずっと不貞腐れた生意気な態度は変わらず、いい加減一緒にいることが嫌になっていたのだ。それがたった今会ったばかりの娘のような女の言うことを素直に聞いている。

「はい、上手ですよ。八重さんの字は、とっても素直でよい字です」

 褒められた八重の顔が嬉しそうに笑っている。伊織が笑顔を見るのは即席の雑炊を食べさせた時以来である。

「さすが女先生は教え上手だ。子供達が増えるはずだぜ。ねぇ数馬さん」

 文吉が楓を褒めるのを数馬は照れているのか、それには答えず目を細めてお澄美の入れた茶を口に運んだ。

「それじゃあ、お八重ちゃんの手習いは女先生に任せてっと、……。お坊さん、名は何て言うんだい?」

 文吉が伊織に向き直った。

「何だ? まだ名前も聞いていなかったのかい」

 数馬が呆れたような顔をして伊織と文吉の顔を見比べながら、それでも子供たちが提出した課題に朱を入れ終えた。

 伊織も文吉と数馬を目の前にして何故か心が解き放たれるような爽快感を覚えた。不思議な爽やかさを持った二人だと思った。歳もあまり違わないだろうに、二人とも義母に負けないくらいのいい女と連れ添っている。まして岡っ引きと寺子屋の師匠だ。今抱えている厄介事の相談に乗ってくれるかもしれないと思った。それほど伊織の手が詰まっていたといえるかもしれない。

「蓮虎と申す。が、また坂本伊織に戻ろうと思っておる。拙者には僧職は務まらぬようじゃ。以後伊織と呼んでくだされ」

「やっぱり元はお武家さんかい。どうりでヤットウが上手ェと思ったぜ」

 文吉は、さっき見た錫杖捌きを数馬に話して聞かせた。少し伊織の自負心が満たされる思いがして、つい口が軽くなった。

「へぇ、堀内道場の目録持ちかい? そいつぁ強ェはずだ。坊主にしとくにゃ惜しいぜ」

「いくら強くても今の世では何の役にもたたぬ。拙者のことを勘当した父が精神の修養が足りぬと申したので、ならば坊主になってやると飛び出したものの、そんな不純な動機を住職に見破られたのかもしれぬ。八重のことが終わればこんな衣は脱ぎ棄てるつもりでおったのだ」

 托鉢行脚で知り合った八重のことを伊織は話した。

「ちょっと待ってくれよ。お八重ちゃんは、藤河屋の旦那の娘だって言うのかい?」

 文吉は思わず隅にいる八重に目をやったが、藤河屋の娘と言われた八重は、楓の指導で一心不乱にいろはの練習をしている。楓の指導だけでなく、なかなか理解が早い様だ。

「死んだ五作殿からそう聞いた。五作殿は八重の母親の下男だったそうだ。せっかく店を見つけて先ほど訪ねたのに、そんな娘は知らぬと言われ、ならば旦那に合わせろというと出かけているからと追い出された。あれは番頭のようだったが……。拙者が胡散臭く見えたのかのう」

「旦那が、いないって言われたのかい?」

 文吉が吉衛門と奥の座敷で別れてからそんなに時は経っていないはずだ。それに盗賊に襲われて気が弱くなっている吉衛門が外を出歩くとは考えづらい。

「だから、拙者のことを怪しい人物だと思ったんだろうよ」

 伊織が自嘲気味に繰り返した。

 八重を送り届ければ簡単に済むことだと考えていた伊織は、はっきり言って途方に暮れていた。八重を連れて寺へ戻るわけにもいかぬであろうと考えながら、それでも当てがないので根岸の円光寺に向かって歩いていたのだ。住職への言い訳を思い悩んでいる時に襲われた。

「そうだ。これが証拠の書付だ。離縁した妻女に渡した藤河屋の手によるものだ」

 伊織は懐から一通の書付けを取り出すと、文吉の前に広げた。

 あらましは、必ず迎えに行くので一緒に暮らしたいということであった。月々の生活費も送ると最後に付け加えてある。吉衛門の体に似ず気の弱そうな細い字であった。

「これを藤河屋の番頭にも見せたのかい?」

「ああ、見せたとも、これが何よりの証だからな。……そう言えば、あのやくざ者は、拙者が藤河屋に立ち寄ったことを確かめると、懐の中のものを出せと申したので、てっきり金のことかと思ったが、今考えると、これが欲しかったのかも知れぬな」

 伊織の推量で確証のない話ではあったが、そうとしか考えられない暴漢の行動であった。

 文吉は何となくうろ覚えの吉衛門と卯三郎の会話を思い出した。押込みの件と関係のない吉衛門の繰り言だと思っていたので聞き流していたものだ。

――いいんだよ。あたしゃお絹を捜すよ

――義姉さんはもう何年も行方知れずじゃありませんか

 確かにそう言っていた。文吉は手習いに夢中の八重へ遠慮がちに声をかけた。

「お八重ちゃん、おっ母さんの名前は何て言うんだい?」

 八重は答える代りに母親の名前を半紙に書いて文吉にみせた。伊織にはまだミミズが這ったような字にしか見えなかったが、数馬はやさしい面持ちで八重を褒めた。

「お、随分と上達したじゃないか。真っ直ぐの線が上手だ。お八重ちゃんは筋がいいぞ。こりゃぁすぐに本も読めるようになるぜ。本が読めるともっと楽しいぞ」

 八重が心の底から嬉しそうに笑った。

「あたいもっと勉強したい」

 元気よく答えた八重はまた小机に向かって楓に言われるまま筆を動かした。

 伊織が初めて見る素直な八重の姿であった。

 なるほどそうやって褒めれば子供がやる気をみせるのかと数馬の指導法に伊織は感心した。剣術の道場でも存外教え方を褒められたものだ。その応用だ。伊織も真似してやってみたい欲求に駆られた。

 そんなことを考えている横で、文吉がはたと膝を打った。

「間違いねぇ。藤河屋の吉衛門の別れたかみさんはお絹さんっていうんだ」

 文吉は八重の半紙に書かれた母親の名を読んで、藤河屋の奥座敷で聞いた話を披露した。

「それじゃあ、お絹さんって人が死んだってことを藤河屋さんは知らないのね」

 黙って話を聞いていた文吉の女房お澄美が深い溜息をついて、八重の背中を悲しそうな目で見詰めた。

「でも吉衛門は三人で暮らしたいと言ったんだろ? てぇことはお八重ちゃんに会いたくねェわけはないわな」

 数馬が吉衛門と八重が会うことに問題はないと熱い口調で力説した。

「どうも吉衛門とお八重ちゃんの間で、誰かが邪魔している様な気がするぜ」

 文吉が頭を捻ったが、藤河屋と卯三郎、吉衛門に関する情報が少なすぎた。昔の経緯からどうも調べなければなるまい。ひょっとして先代と懇意だった相生屋の義父が何か知っているかもしれないと文吉は思ったが、五兵衛は今、旅の雨空だった。

「何とかその吉衛門と言う八重の親に会う手立てはないものか? 藤河屋に届けるというのが拙者と五作殿の約束だ。その約定を果たすまでは拙者の責任だ」

「このままじゃ、お八重ちゃんが本当に幸せになれるかどうかわからねぇ。それがはっきりしなけりゃ伊織さんも責任を果たしたとはいえねぇだろ? 伊織さん、おいら少しばかり藤河屋を調べてみるぜ。しばらくここでゆっくりしてな」

「それがいい。伊織さんは子供がどうも苦手なようだから、うちの女先生がしばらく面倒みてやるぜ」

 八重にも数馬の声が聞こえたらしい。顔が俄かに輝いた。

「ああ……乗りかかった舟だしな」

 伊織は、「それはありがたい」と言う言葉を呑み込んだ。

 八重の面倒を見てもらえるという申し出は内心嬉しかったが、八重一人言うことを聞かせられない自分が情けなくて何か癪に障る。

 むしゃくしゃした伊織が、五分ほどまでに伸びた自分の毬栗頭を掻いた時だった。かまびすしく相生屋の女将お佳代が入って来た。

「今日は賑やかじゃないか。生臭坊主まで一緒になって、誰かの葬式かい?」

 生臭坊主と言われてもお佳代の迫力に負けて伊織は言い返せなかった。初めて目にする類の女であった。

 お佳代は、「よっこらしょ」と框に腰掛け、背の荷物をおろして荷解きを始めた。

「おっ母さん、もう帰って来たの? 早いじゃない。ひとり? お父っつあんは?」

 腰を浮かすほど驚いたお澄美が不思議そうに自分の母親を見た。

「何だい、なんだい。鳩が豆鉄砲喰らったような顔してさ。早く帰って来ちゃいけないのかい?」

 面食らった思いをしているのは伊織も同じだった。気忙しく入って来た女と岡っ引きの妻女が母子だという事実に伊織は意表を突かれた。言われて見ればどことなく面立ちが似ている。

「お土産だよ。御利益があるよ。何てたってお伊勢さんだからね。神代餅も美味しかったんだけど日持ちが心配だからさ。途中で喰っちまったんだよ。ごめんね」

 お佳代がそう言って数馬と文吉に伊勢神宮の御札と天照大神の大掛け軸にお守りを手渡した。

「商売繁盛、ちゃんとお願いしてきたからね」

「お手先が商売繁盛でもなぁ……」

 それでも文吉が恭しく御札を受け取った。義理の息子だというのにしては、主従関係を思わせるほどひどく緊張している文吉が伊織には可笑しかった。いくらお澄美のように気立てのよい器量良しの嫁でもこれほど高圧的な義母がついてくるとなると願い下げだなと心の中で思った。

 八重さえも筆を構えたまま、得体の知れないものを見る目でお佳代を見詰めている。いや、八重はお佳代が入って来た時からずっと手を止めて見入っていた。まるで捜し求めていた者に邂逅したような八重の面持ちを伊織は不審に思った。珍しい生き物が入って来たとでも思ったのだろうか。

「御札はともかく、これは安産のお守りではござらぬか、まだ拙者には……」

 押しつけがましいお佳代の口振りに文吉も数馬も辟易とした顔を見合わせ言葉尻が消えそうな小さな声で礼を言った。

「おっ母さんっ! そんな大きな掛け軸、どこに掛けんのさ? それに帰りは明後日じゃなかったの?」

「ああ、五兵衛がさ、雨が降って鬱陶しいだの腰が痛いだのと、煩く泣きごとばかり言うもんだから予定を早めて帰って来たよ」

「当たり前じゃない。だいたい、梅雨にお蔭参りなんかするかなぁ。二人とも考えなしなんだから」

 新しい茶を淹れながらお澄美が平気でお佳代に食ってかかる。どうやらお佳代に勝てるのは血のつながった実の娘だけらしい。

「出かける時は晴れてたんだよぅ」

 お佳代が鼻に掛かった声でお澄美に甘えたが、お澄美は取り付く島を与えなかった。

「それでお父っつあんは?」

「家に帰って寝てるさ」

 文吉の顔が俄かに明るくなった。藤河屋の先代と仲の良かった相生屋の五兵衛にすぐにでも聞きたいことがいくつかある。

「そいつはよかった。ちょうど旦那様に聞きてぇことがあったんだ」

「文吉っ、お義父っつあんだろ! いつまでも手代気分が抜けないねぇ。お義父っつあんって言ってあげなきゃ、いくらお上のご用だって、臍、曲げるよ。で、何だい? 聞きたいことってぇのは。あたしのわかることかい?」

 怒られて頭を掻く文吉は掻い摘んで藤河屋のことを話した。

「そうかい。その子は、お絹さんの子供かい。そう言われりゃ目元なんかそっくりだね」

「おっ母さん、知ってるの?」

 その場に居合わせた皆が一様に驚いてお佳代に膝をすすめた。八重は腰を浮かせたまま、口を半開きにして茫然としている。

「お絹は貞吉っていって深川の芸者だったんだよ。そりゃあ若いに似合わず気風のいい妓だったさ。ちょっと気が強すぎるのが難点だったけどね。もっともあちき等意地が着物着ているようなもんさ。それを太物屋が絹の着物着てどうすんだって先代の後添いが追い出しやがった。うちの五兵衛が何度か意見しに藤河屋へ乗り込んだんだけどねぇ。でも売り言葉に買い言葉、辰巳芸者は吐いた唾は呑みこまないだろ」

「おっ母さん……」

 お澄美がそっと気遣うように八重を指さした。

 自分の母親の話をしていることが分かって八重が俯いている。

「悪口じゃないよ、貞吉の心意気を褒めてんだ。わちきよりずっと若いくせに気に入らねぇと喧嘩売ってくるのも度々だったよ。日本橋一のこの梅弥姐さんにだよ。この娘も気の強い顔してるよ。母親ゆずりだね。あんな腑抜けな父親に似なくてよかった」

 口では悪態を吐きながらもお佳代は傍によって八重を抱きしめた。いつの間にかお佳代は颯爽と肩で風を切って歩く情に厚い羽織芸者の梅弥に戻っていた。何故か八重も大人しく包まれるようにお佳代の膝の上に乗った。きっと母親と同じ匂いがしたのかもしれない。うっすらと涙も滲んでいる。八重は手を伸ばして小机の上の半紙を掴んでお佳代に見せた。

「おお、上手だねぇ。や……ゑ……き……ぬ……、ちゃんと書けてるじゃないか。お八重ちゃんはきっと江戸一のいい女になるよ。おっ母さん以上さ。よく今迄元気でいてくれたねぇ」

 八重がお佳代の腕の中で何度も目を擦って懸命に涙を堪えていた。お佳代に母親と同じ羽織芸者の心意気を嗅ぎ取ったのだろう。ひとりぼっちになった八重の心の中へいっぺんに母親の思い出が入り込んで溢れたに違いない。それでも泣くのを我慢しているようだった。

「おっ母さんが女は泣くなって……。嫌なことはぐっと呑み込んで笑えって言った。おっ母さんはいつもあたいに笑ってみせたのに……。でもあたい……おっ母さんが死んでから、笑えなかった」

「おまえさんは、いい娘だねぇ。でも誰もいないときは泣いていいんだよ。おっ母さんも誰もいない時ァ泣いてたんだ。おばさんが誰からも見えないようにお八重ちゃんを隠しといてあげるからさ。今は、おっ母さんを思い出して存分に泣きな」

 何時までも泣きやまぬ八重の頭を慈しむようにお佳代は強く抱き締めた。

 お澄美と楓が堪らず目頭を押さえて外へ飛び出していくのを目で追いながら、伊織は三日間も八重の心にまるで気づかず連れ回したことに唇を噛んで自分を責めた。



 けりがつくまでとお佳代が八重を相生屋に連れ帰ってから二日が経った。伊織は根岸の円光寺に戻り還俗した後、数馬の手蹟指南所に居候している。五分刈りの変な先生が増えたと子供達から子供嫌いな伊織が面白がられていた。

 佐平がずぶぬれで文吉の長屋に駆け込んで来たのは、また梅雨に後戻りした鬱陶しい朝だった。

「藤河屋の……老分番頭が辻斬りに……徳衛門河岸ですぜ」

 すぐに飛び出した文吉の後から伊織が走ってくる。

「男先生は指南所があるから代わりに行ってくれと頼まれた」

 伊織の手に数馬愛用の木刀が握られていた。錫杖は寺に返したので手元に戻った刀を差そうとしたところを数馬から止められたらしい。

「こりゃあ目録持ちの伊織さんなら願ってもねぇ。太刀筋を見てもらえると助かりやすぜ」

 伊織が承知したと頷いた。藤河屋の番頭と聞いて浅からぬ縁を感じている様子だった。

 堅川に架かる三ッ目之橋を渡って徳衛門河岸へ走った。

 佐平が野次馬を分けて文吉等を藤河屋の番頭政五郎の死骸が寝かされている柳の木の根元に導いた。文吉が被せられた筵をはぐると目を剥いた老分番頭の顔が出て来た。

「これは、一人の仕業ではないな。鱠にされているが、肩から胸までの斬り口と腹や腰の刺し傷で刃型が違う。少なくとも三人以上だ。惨い殺し方だ。何度も突き立てている」

 伊織の検分に間違いはなさそうだった。日の浅い岡っ引きの文吉にもそのように見えた。

「老分さん、老分さんじゃないか! 一体どうしたっていうんだい。こんな姿になっちまって……」

 雨だというのに傘もささず、物見高い大勢の見物人を掻き分け飛び込んで来たのは卯三郎だった。老分番頭に縋りつくと泣き喚きながら何度も揺り動かした。続いて髪を振り乱した政五郎の妻子が駆け込んだ。初老の妻とやはり藤河屋に奉公している三十がらみの手代であった。

 卯三郎の激しい嘆き方に、もっと悲しいはずの殺された政五郎の身内の方が冷静になって卯三郎を気遣うほどであった。

「私が急な用事で山本屋さんへの掛け取りを頼んだばっかりに、こんなことになって……、老分さんは私が殺したようなものだ。許して下さいよ、お菊さん、長吉!」

「いえいえ、番頭さんのせいじゃございません。あまり気をつめないでくださいやし」

 政五郎の息子長吉が泣き崩れる卯三郎の肩へ遠慮がちに手を掛けた。

「すまないねぇ。長吉からそう言ってもらえると心が軽くなるよ。でも老分さんは藤河屋の仕事で命を落とされたんだ。しっかりお葬式を出させてもらいますよ。ねぇ、文吉親分、もう老分さんを連れて帰ってもようござんすかい」

 残された老分番頭の親子と卯三郎の遣り取りを横目で見ながら、文吉の検分も終わりに近づいていた。何かを銜えこんでいるように頬が膨らんでいることに気付いた文吉は、合掌して死体に敬意を払い、しっかり閉じた口を十手でこじ開けた。口の中から噛み千切った耳朶が飛び出した。番頭も必死で抵抗したに違いない。改めて指先を調べると、爪の中にも肉片のようなものが挟まっている。物取りの方も、かなり手傷を負っていることが想像できた。すぐに佐平を昨夜傷の手当てをした医者がいないかを調べに走らせた。

「卯三郎さん、山本屋さんの掛け取りはいくらあったのかい?」

 文吉は傍に落ちていた空の財布を拾った。

「はい、二十五両と三分でございました」

「そうかい。老分さんが藤河屋へ出かけたのは?」

「ふいに思わぬ寄り合いの連絡があったのが夕の七つでございます。山本屋さんの掛け取りにいくお約束が五つでしたので老分さんに代わってもらいました。その後山本屋さんの奥で宴席が用意されておりましたので、山本屋の若旦那に話をお聞きになれば老分さんが何刻に帰られたかわかるのではないかと思いますが……」

「菊川町の山本屋だな。わかった、そっちに廻ってみるぜ。番頭さんを連れて行きな」

 文吉の承諾を得た卯三郎は長吉に命じて大八車を用意させ、仏を運んで行った。

「文吉親分、必ず老分さんの仇を取ってくださいましよ。お願いですよ」

 卯三郎は何度も振り返って文吉に呼びかけた。

「拙者の時とは打って変わったような態度だな。今だけ見ておるといい番頭さんじゃないか」

 伊織は卯三郎の嘆きようときちんとした手配りに少し見直したようだ。感心した面持ちで大八車を見送っていた。

「伊織さんのこと、わからなかったみたいですね」

「ま、托鉢姿じゃないからな」

「菊川町はここからそんなに遠くねぇ。聞き込みが終わったら着替えのついでに、風呂にでも行きましょうや。走って来たから着物が泥だらけだ」

 伊織も着流しの裾を紮げていたが、油紙の合羽が古かったせいか破けてほぼ全身濡れ鼠になっていた。

 

 老分番頭の政五郎が店を出たのは、四つになってすぐだという山本屋の番頭に嘘はなさそうだった。店に戻って帳場に金を預けてから帰るのだと話していたらしい。ただ山本屋は、献残屋である。献残屋とは文字通り、献上物の残りを買い取って再び市場へ流出させる商売であった。贈答品で多い太刀から昆布、熨斗鮑といった日持ちのするものまでの献上品が、献残屋によって江戸の町で再生利用されている。

 だが、太物屋の藤河屋と直接の商いはない。そのことを文吉は山本屋の番頭に問い質した。

「うちの旦那様と卯三郎さんが小さい頃、手習指南所で机を並べた仲だったとかで、ずっと前から懇意にしていらっしゃいます」

 藤河屋の老分番頭が殺されたことを知った山本屋の番頭は暗い面持ちで借金の経緯を語り始めた。

 主人が、ある武家屋敷に呼ばれた時、思いの外立派な献上品に買い取りの持ち合せが足らず、金を取りに帰る途中で偶然外回りをしていた卯三郎と会ったらしい。そこで卯三郎が持っていた店の金を利息なしで貸してくれる代りに食事に招待しようという話になっていた。山本屋の主人にしてみればそれを口実に昔話でもしたかったようだ。

「卯三郎さんがお越しできなかったことを旦那様は残念がっておりましたが、うちの帰りに老分番頭さんが辻斬りに遭って殺されたことを思えば、何と申してよいのか……」

 文吉は山本屋を出ると、藤河屋への最短距離の道を戻りながら、聞き込みをして歩いた。だが、昨日の夕刻から降り出した雨に誰もその時刻外を出歩いていた者や怪しい物音、悲鳴などを聞いた者は一人も見つけることができなかった。

 その日のうちに殺された政五郎の通夜が藤河屋で始まった。

 顔を出した文吉は、参列していた義父から声をかけられた。

「文吉も来ていたのかい?」

 五兵衛は文吉が政五郎の身内や吉衛門、卯三郎等に挨拶をすませるのを待ってすぐに外へ連れ出し、縄暖簾へ入った。

 着ている喪服を見て店の女将が藤河屋さんの帰りですかと聞いてきた。

「粗宴でありやすが、これから御斎でござんす」

「どうせうちは粗宴でござんすよ。おまえさん、精進料理一丁ご注文だよ」

 店の女将との掛け合いに、五兵衛はおどけて酒と飛魚の干し焼きを注文したが、すぐに暗い面持ちになった。芸者衆の間からは幇間と間違われるほどの剽軽さが身に染みついている商売人の五兵衛である。そんな五兵衛を文吉は今迄に見たことがなかった。心配な半面、心を許してくれた義父に頭が下がる思いだった。

「故人を偲んで今から飲むから、おめぇさんもつき合ってくんな」

 義父には藤河屋のことですぐにでも聞きたいことがあるが、憚れるほど五兵衛が心落ちしている。文吉は五兵衛に注がれた酒で口を湿した。

「これでもう藤河屋にぁ、俺の知っている奴ァ誰もいなくなっちまった」

 寂しそうに酒を啜る五兵衛は遠くを見るような目で嘆息した。藤河屋の先代は、藤衛門といった。五兵衛は藤衛門のことを思い出しているのであろうか。

「お義父っつあん。誰もって、吉衛門さんや卯三郎がまだいるじゃないですか」

「何言ってやがる。あいつらまだほんの餓鬼だったじゃねえか。まともに口なんぞきいたこともありゃしねぇ。年始にお年玉くれてやったぐれぇのことよ」

「でも女将さんから聞きましたぜ。吉衛門さんが夫婦別れする時に藤河屋へ乗り込んだっていうじゃありやせんか?」

 五兵衛が盃を持ったまましばらく考え事をしているように手を停めた。

「あのお八重はいい娘だねぇ。お佳代が一時も手放さねぇよ。どっかから商売往来なんぞを買ってきやがって、手習いを教えているよ。薄っ気味が悪いほどにこにこしながら教えてやがる。お澄美を教えていた時もあんな顔みせたことはねぇ。俺は、考えた。あんなにお佳代が生き生きしてるなら、お八重を相生屋が引き取ってもいいぜ。お澄美がいなくなってから……、おっと、すまねぇ。そんな意味じゃねぇんだがな」

 五兵衛は文吉の問いに答えず八重を引き取りたいと言った。

「お八重ちゃんを可愛がる女将さんの気持ちはこっちにも伝わってきやす。あっしも力になりてぇんですが、まだ父親も生きていることだし、父親の吉衛門もお絹さんが死んだことを知らずに三人で一緒に暮らしてぇってこぼしていましたぜ」

「いい加減にしな。女将さんじゃねぇだろ! おっ義母さんって呼ばなきゃ臍曲げちまうぜ。それに吉衛門は、駄目だ……あんな薄情な野郎に八重は渡せねぇ」

 五兵衛はほとんど空の銚釐を逆さにして最後の一滴まで盃に受けると追加の酒を注文した。それから五兵衛は吉衛門とお絹の馴れ初めから話し始めた。文吉の聞きたかったことのひとつだ。

 遊びも甲斐性だと藤河屋の先代も吉衛門の芸者遊びには寛容だったが、三日と空けず吉衛門が貞吉に入れ上げ、嫁にしたいと言い出した時にはさすがに反対したらしい。だが手切れをさせるためにこっそりと貞吉を宴席に呼び出した藤衛門だったが、辰巳芸者一と噂される貞吉の気風に惚れてしまった。それに懇意な相生屋の女将のこともよく知っている。女将としてちゃんと切り盛りしているお佳代こと梅弥は、相生屋五兵衛と藤河屋藤衛門が財を尽くして張り合った女だ。だからと言って貞吉に息子を差しおいて惚れるようなことはなかったが、貞吉に若い頃の梅弥の面影を重ねた藤衛門は、お佳代のように店の奥を切り盛りしてくれるのではないかと期待した。

 どれほど貞吉が吉衛門のことに惚れていたか不明だが、貞吉も熱心な藤河屋藤衛門に乞われてその気になったようだ。そしてお絹と名を改めた貞吉は、吉衛門と祝言を上げ、藤河屋の奥を期待に違わずまとめ上げた。半玉を育てるように厳しいお絹だったが、そんな女将を慕う女中も増えていった。

「俺もお佳代も吉衛門の祝言には呼ばれたが、藤河屋の奥座敷の、その宴席で白無垢の花嫁がお佳代に喧嘩売りやがった。傍目にはお互いににこやか笑って旧交を温め合っているようにしか見えなかったが、俺は隣にいて冷や汗が出たぜ。藤河屋の先代からも散々聞かされたんじゃねえのかい? 相生屋の女将を見習いなってな。そんなお佳代へ喧嘩を吹っ掛けたんだろうな。ま、お佳代は、お絹の心の中でどっちが女将としてちゃんとやれるかと勝手に敵にされたってなわけだ。そんな時のお佳代も負けちゃあいねぇ。互いになみなみと注がれた盃をぐっと飲み干し、賽は投げられたってなもんよ。その飲みっぷりの良さといったら、お佳代もお絹も惚れ惚れしたぜ」

 だが、先代が後添えをもらってから順風満帆に見えた藤河屋の奥に風が起こった。

 後添いの女は同じ太物屋の後家であった。主が死んで潰れかけていたその店が藤河屋に吸収されることによって救われた。最初は殊勝にしていた後添いの女も先代の信頼を勝ち取ると、奥に二人の女将が姿を見せることになった。

「後添いの女も元は商家の出で、ずっと店の奥を見て育った貫録みてぇなもんを供えていた。後はおまえさんでもどうなったか想像がつくだろう? 両雄並び立たずってやつさ。卯三郎ってぇのはそいつの連れ子だ」

「連れ子? 直吉は、それであんなに先代から苛められていたのか」

 藤河屋の先代に殴りつけられる子供の頃の卯三郎を、文吉は思い出した。そんな文吉を五兵衛が恐い目で睨んだ。表層をちょっと見たぐらいで本質がわかったようなことを言うなという戒めだった。

「そいつぁ違ェぜ、文吉。先代は憎くて卯三郎を苛めていたんじゃねぇ。先代は、吉衛門を自分の跡取りとして、そして卯三郎は吉衛門を補佐する右腕になるようにと鍛え上げようとしたようだ。藤衛門さんに似ず盆暗な吉衛門は、川柳でも茶でも船遊びでもして他の旦那衆とよろしくやっていればいい。俺を見てりゃわかるだろ? 旦那業ってなそんなもんだ。店のことは番頭がしっかりしていればいいんだ。卯三郎に商才のあることを見抜いた藤衛門さんは徹底的に仕込んだ。おかげで藤河屋は先代が死んだ後でも大繁盛だ。しかし、辛ぇ思いをしたお八重のことを考えれば、……商売の先読みが得意だった藤衛門さんも奥のことまでは読み切れなかったってことだろうな」

「するってぇと卯三郎は藤河屋に組み入れられた店の息子だったんだ」

 五兵衛は驚く文吉を見て鼻で笑った。好物の飛魚の干し焼きにも手をつけず、手酌でもう随分と飲んでいた。

「そういうことになるが、昔の話だ。これも人の世ってもんだぜ」

 雨も降って来た。酔いつぶれた五兵衛を日本橋の相生屋まで送り届けるのを諦めた文吉は、自分の住む長屋に運び込んだ。お澄美が呆れて慌ただしく寝床を作ると五兵衛を着替えさせ、狭いからと文吉は伊織が居候している隣の手蹟指南所へ放り込まれた。


 藤河屋での通夜と葬式が終わった後、遺体は清水町にある政五郎の家に返され、今度はしめやかに本葬が執り行われた。喪主は長男で一人息子の長吉が取り仕切った。

 妻女のお菊は既に夫の死を受け入れて達観しているような落ち着きを取り戻していた。それでも最後の弔問客を送り出した後は、夫の遺体の前で長い間手を合わせて拝んでいた。

 文吉は、お菊から話を聞くのを諦め、ひと段落した長吉を呼んだ。

「見事にお務めなされました。こんな立派な息子さんを残されたんだ。老分さんも安心して旅立てるってもんだ」

 黒紋付を羽織った長吉は、やはり正装の喪服できた文吉の前で慇懃に頭を下げた。

「恐縮でございます。父も六十を三つも過ぎておりました。世間から見れば随分と長生きしたものでございます。藤河屋へ奉公して五十年、そろそろ引退しようかと申しておりました矢先でございました。先代にも随分と目を掛けられたようでございます。もう思い残すことはございますまい。手前共も父の寿命と思って諦めます」

「本当に申し訳ねぇ。情けねぇことだが、まだ老分さんを襲った奴等の手掛りは、何も掴んじゃいねぇ。最後まで抗って死んだ気丈なお父っつあんだ。下手人を上げるまでは、成仏できねぇに違ぇねぇ。奉行所上げて徳衛門河岸を虱潰しに当たっておりやす。おいら達を信じて待っていておくんなせぇ。絶対許さねぇ。きっと獄門台に送ってみせやす」

「恐れ入ります……。無理をなさらないでくださいまし。十分親父様とは一緒に生きてまいりました。私共にはもう心残りはございませんので」

 文吉は、挨拶を済ませて席を立とうとした。家族から話を聞くこともない。老分番頭は突然の雷に打たれたようなものだ。怨恨とは考えにくい。懐の金を狙われたと考えるのが大方の見方であった。

「心残りは、ございます……」

 ずっと文吉等に背を向けていたお菊が小さな肩をわずかに震わせた。その言葉の含んだ沈痛な響きが文吉を立ち止らせた。

「おっ母さん、何を言うんだい? そりゃあ殺されたんだ。正直に言やぁ、おいらだって心残りはあらぁ。でもよ、文吉さんの前だ。気をしっかり持ちねぇ!」

 ややうろたえながら長吉がずっと黙って夫の死に顔を見詰めている母親の肩に手を掛けた。突然襲われた思いがけない痛撃に、母親の心が病んだのではないかと長吉は心配したようだ。

「違うよ、長吉。おっ母さんの気は確かだよ。殺された前の晩、お父っつあんと話をしたんだ。あの大人しい人が、珍しく怒っていたんだよ」

 確かに振り向いたお菊の皺深い顔に、狂った様子は微塵も見られなかった。



 怪我人を治療したという医者も刀を研ぎに出した侍も、急に金遣いが荒くなった者達も文吉等の調べに上がって来なかった。吾妻橋の番屋で探索の見直しをするため北町同心の島岡慶吾に深川のお手先が集められた。

「北や辰巳で急に羽振りの良くなった野郎はいねぇっていうのかい!」

「へい、北の吉原にも、辰巳の岡場所にもそれらしい奴がいねぇんで」

 稲荷町の金治が代表して答えた。

 何の手掛りも見つけられないお手先連中に苛立って、島岡慶吾は飲んでいた湯呑みを壁に投げつけた。砕けた破片と番茶の飛沫が佐平の頭にかかり、顔色の変わった佐平だったが慶吾に睨まれると萎れて口を尖らせた。

「これだけ捜しても何にも見つからねぇんじゃ、もう江戸にァいねぇんじゃねぇですかい?」

 金治が慶吾に遠慮して独り言のように呟いた。その場にいた別の岡っ引きも何人かは金治に同意するように小さく頷いている。

「馬鹿野郎! それじゃあ包帯巻いた野郎が出て行ったっていう話を木戸番から聞いたのかい? 耳朶、咬み切られているんだぞ」

 慶吾が土間に座らされて岡っ引き達を睨み回した。

「寅はどこ行った? ちゃんと伝えたのか文吉!」

「へぇ、ちょっと別の調べがありまして……」

「勝手な動きをさせるんじゃねぇ。今日はみんなの調べを持ち寄ってこれからの目処を付けるってぇ大事な話し合いだと言っただろうが! ちゃんと来させねェでどうする?」

「すいやせん……」

「てめェは下っ引きひとり満足におさえられねぇのか!」

 その時、締め切っていた番屋の腰高障子が開いてお澄美が勢い良く飛び込んで来た。だが、すぐに中の重苦しい空気に戸惑って立ち竦んでいる。

「後にしてくれ、今大事な打ち合わせの最中だ」

 文吉はお澄美へ外に出るように目で合図を送るのを見た慶吾が、大声で文吉を叱った。

「何年、夫婦をやってるんだ。お澄美の顔が尋常じゃねぇってことぐらいわからねぇのか」

 まだ一緒になってから半年もならねぇことぐらい知ってるだろうと声には出さずに文吉は顔を上げたが、慶吾はお構いなしに優しくお澄美に声を掛けた。

「どうしたい? 遠慮しなくていいんだぜ。ちょっと休憩だ」

 休憩だという声に金治を先頭に何人かが背伸びをしながら表の空気を吸いに逃げ出した。番屋の中にも湿った冷たい空気が吹き込んで来た。

「お八重ちゃんが襲われたんだよ」

 慶吾の心遣いに安心したお澄美が早口で喋りはじめた。


 真新しい小机を店の小僧に持たせたお佳代が、ふいに数馬の指南所へ八重を連れて来たそうだ。一般に寺小屋へ通うために必要な備品は親が全て準備するのが常識であった。八重本人の希望もあったが、友達のいない八重への配慮も考えてのことである。数馬の所なら八重の信頼する女先生もいる。伊織が坊主先生と呼ばれて助教のようなことをしているのには八重もお佳代も驚いたようだが、八重はせっせと一番後ろに机を置いて硯と筆を用意した。傍らには商売往来の教本を置いてある。楓がどこまで自習したのか見ている横で、お佳代が子供達に挨拶の菓子を配っている時だった。十数人のやくざ者が数馬の指南所に押し掛けて来たのだ。四人ほど浪人姿の侍もいたようだ。

「藤河屋の娘だと騙りを言って金を強請ろうと企んだ八重って娘はどいつだ! 黙ってここに出しやがれ」

 荒々しく入って来た、見るからに強面の極道者が中を見渡した。

 十人近い子供達が脅えて一斉に数馬の後ろに逃げ込んだ。

「いい加減なことお言いでないよ! 八重をどうしようっていうんだい? ここはお前さん方の来る所じゃないよ。それとも手習いでも習おうっていうのかい!」

 お佳代が咄嗟に庇った娘を見て入って来た男がにやりと笑った。

「その娘かい? 婆は引っ込んでろ!」

 抵抗する間もなくお佳代は襟を掴まれ乱暴に引き倒された。伊織が血相を変えて立ち上がった時、八重の肩に手を掛けたやくざ者が悲鳴を上げて宙を飛んだ。静かに八重の傍まで移動した楓が男の腕を捻りあげ投げ飛ばしたのだ。男は長屋の真ん中を走る溝川の上まで転がっていった。

 伊織は一瞬目を疑った。数馬の一挙一刀足から並々ならぬ腕前だとは推測していたものの、可憐で清楚な楓にも武術の心得があるとは思ってもいなかったのだ。すぐに壁に掛かった木刀を取った伊織であったが外に出たのは数馬の方が早かった。


「数馬さんと伊織の旦那に立ち向かっていったのかい? 命知らずだねぇ、そいつ等」

 話を聞いていた佐平が慶吾に遠慮しながら口を押さえて笑った。

「誰なんでぇ? その八重っていう娘は」

 慶吾は一服煙管を吹かすと、雁首を火の入っていない火鉢に打ちつけた。

 文吉は、簡単に八重の素性を明かした。

「よくよく藤河屋とは縁があるじゃねぇか」

 慶吾と文吉の話している傍にぐるぐる巻きに縛られた男が投げ込まれた。

「藤河屋の番頭殺しにも縁がありそうだ」

 五分刈り頭の伊織がぬうっと番屋に入って来た。

 訝る文吉にその男を突き出した伊織は、そのまま男の両腕に捲かれた包帯を解いてみせた。

「こいつぁ……」

 強く引掻かれた傷痕が両腕に残っている。まだ新しい傷だった。膿が出始めているところもある。文吉と慶吾の緊張が同時に昂まった。

「繁蔵一家の若い衆のようだ。残りはまだ男先生と女先生が見張っている。早いとこ捕まえにきてくれ。頭に血の上った女将さんが木刀で隙を見ちゃあ小突いているもんだから怪我人が増えちまう」

「まったく、おっ母さんたら……」

 お澄美が顔を赤くして恥ずかしそうに文吉の陰に隠れた。

 金治等が何事かと番屋に戻って来た時には、佐平が男に馬乗りになってぐいぐいと首を締め上げていた。

「徳衛門河岸の番頭殺しは、てめぇらか! この腕の引っ掻き傷が動かぬ証拠だ」

「……ち、違う! 転んだんだ。転んでついた怪我だ。 釘で引っ掻いた」

「トボケんじゃねぇ! 政五郎さんにつけられたもんだろうが!」

 佐平の雨霰のような拳骨にも男は歯を食いしばって耐えている。仮にそうだと言えば磔獄門は間違いない。男は恐怖に固く口を噤んでいる。

「顔に包帯をぐるぐる巻きにした男が繁蔵の家で寝ているらしいぜ。他の奴が喋った」

 伊織の飄々とした態度とは裏腹に慶吾の顔がみるみるうちに怒気で真っ赤になった。

「繁蔵のところへ乗り込むぜ。金治、文吉の長屋で叩きのめされた奴等を大番屋へしょっ引け!」

「でも乗り込むにゃあ手が足りませんぜ」

「指南所の先生がいるだろうが! おめぇ等百人いたって、藤堂の旦那の方が安心できる」

 慶吾が唾を飛ばして睨んだ。

 取り敢えず文吉の住む達磨横丁に全員で向かったが、数珠繋ぎにされたやくざ者十数人が棍棒を振りかざしたお佳代と長屋の住人らに見張られ、青息吐息の態で項垂れており、数馬は何事もなかったように指南所で子供たちの習字に朱を入れていた。

 突然現れた大勢の十手持ちに気が散った子供たちが外を見ようとするたびに、楓の叱責が飛んだ。

 しかし、八重を襲った繁蔵一家のやくざ者が多すぎて金治とその下っ引き三人では大番屋に運べないとわかり、一緒にいた吉祥院の親分や三囲稲荷の親分など文吉以外の親分衆が全員引っ立てて行くことになった。残ったのは、文吉と佐平である。

「先生、愛用の木刀持って出てきてくんな」

 慶吾が、大声で叫ぶと子供達から歓声が上がった。指南所が早仕舞になると勘違いしたのだろう。楓が大きな目で子供たちを睨んだ。楓の強さを目の当たりにした子供たちである。みんなそわそわとしながらも各々の教本に向かった。

「後で数馬さんの活躍を話して聞かせるからよ。楽しみに待ってな」

 框から身を乗り出して子供達に声をかける佐平の頭を軽く小突いて数馬が出て来た。

「先生、いつもすまねぇな。ちゃんとお奉行様にも話を通しておくからよ。謝礼の方は心配しねぇでくれ」

「島岡の旦那、よろしく頼む。近頃、手元不如意なのだ」

「任せときなって。乗り込むぜ」

 大声で笑い合う同心と数馬のやり取りに首を傾げる伊織に佐平が「しっかり働いて稼ぎな」と耳打ちした。

「一緒に連れて行ってくれ。せ、拙者も手元不如意でござる」

 慌てて申し出た伊織を、技量を知らぬ慶吾が胡散臭そうに睨んだ。

「腕の方は大丈夫なのかい? 竹刀で約束通りの攻めしかできねぇんじゃ、実践で鍛えられたゴロツキ共の長ドスはかわせねぇ。命懸けだぜ」

 一瞬、むっとした伊織であったが、すぐに後ろから子供達が囃したてた。

「お役人さん! 坊主先生は、強ェぜ。さっきも浪人者を二人やっつけたんだ」

 窓から身を乗り出した子供たちの真ん中で、八重が誇らしげに笑っていた。


 繁蔵一家のほとんどは達磨横丁で捕えられたために、西平野町の繁蔵の家は、ガランとして三下が数名留守番をしているだけだった。驚いた繁蔵が妾らしい女と帯も締めずにだらしない長襦袢姿で逃げようとして縁から落ち、腰を強く打って立てなくなった惨めな格好のまま引き立てられていった。老分番頭から耳朶を食い千切られた男も医者にも見せてもらえず苦しんでいるのが布団部屋で見つかった。二人ほど逃げ出そうとした若い衆を殴っただけで、伊織の気合いがそがれるほどあっけなく終ってしまった。それほど時も掛けず捕り方が大勢到着したせいもあるが、踏み込んだ途端、大音声で恫喝した同心のひと声で繁蔵一家の全員が恐れ入ってしまったようである。伊織は、持て余した力を発散するように木刀を素振りして昂っていた気を静めた。

「これにて、藤河屋番頭殺しは、一件落着か」

 主のいなくなった繁蔵の屋敷の座敷で、満足そうに朱房の十手で背中を掻く慶吾が大きな欠伸をした時、寅蔵がどこからともなく現れて文吉に耳打ちした。

「やっぱりそうかい。金にならなくてすまねぇが、父っつあんの勘が当たったみてぇだな」

 寅蔵の報告を聞いた文吉が、慶吾に向き直った。

「慶吾の旦那、もう一仕事ですぜ。番頭殺しに、それからお八重ちゃんを襲わせた張本人がわかりやした」

「張本人だと? 藤三郎殺しと娘の勾引は話が繋がっているのか」

 慶吾の大声に伊織は素振りの手を滑らせ、鴨居を強か打って体を痺れさせた。

「藤河屋の卯三郎が、繁蔵と密会している料理屋の仲居から聞きやした。人を殺して二十五両じゃ少なすぎると怒る繁蔵と、店を継いだら好きなだけ金をやるという卯三郎の話を偶然立ち聞きしたようでして……」

 寅蔵が上目使いに慶吾を見上げて、話を続けた。

「卯三郎は繁蔵とも寺子屋が一緒だったようで。子供の時は仲良く遊んだ仲だと聞いておりやす」

 さらに文吉は、政五郎の妻から聞いた政五郎と卯三郎の喧嘩の話を慶吾に披露した。

 藤河屋には、いつの頃からか代々血の繋がった者が店を継ぐという不文律が出来上がっていた。吉衛門の実の娘が現れたことを聞いて政五郎は手放しで喜んだらしい。その娘に婿を取らせ五代目藤河屋を継がせることを考えたようだ。それを政五郎に相談もなく、卯三郎が勝手に追い払ったと知って凄い剣幕で怒ったらしい。政五郎にしても後添いを迎えるでもなく頼りない吉衛門に藤河屋の先行きを心配していたようだ。埒の明かない卯三郎に業を煮やした政五郎は奥の吉衛門に娘が訪ねてきたことを報告しようとした矢先、山本屋への掛け取りを頼まれたらしい。「すぐに娘を呼び戻してくる。ちゃんと娘の身元を確かめて、吉衛門を交えて早急に話し合おう」と約束した卯三郎を政五郎は信じたようだ。

「その卯三郎ってぇのが藤河屋の跡目を狙っていたのかい?」

「番頭のままでいることに我慢が出来なくなったんでしょうかねぇ。繁蔵の子分に盗賊を装わせて吉衛門に脅かしをかけていた矢先、血の繋がった実の娘が出て来ちまった。死んだ政五郎さんのようにどっかの馬の骨ともつかねぇ奴を婿にされちゃあ今迄の計画が水の泡だと焦ったんじゃねぇですかい? ま、本人に聞いてみなくっちゃ本当の所は分りませんが……」

「卯三郎が、すぐに逃げ出すようなこともあるめぇ。繁蔵を締め上げてきっちり裏を取ってから藤河屋へ乗り込むぜ。二日も三日もかかりゃしねぇ。それまでしっかり見張っとけ!」

 慶吾は繁蔵に抱かせる石の数に思いをめぐらしながら、しょっ引かれて行く繁蔵を追いかけて飛び出した。


 いち早く嗅ぎつけた読売屋が藤河屋の老分番頭殺しが捕まったことを大々的に喧伝しはじめた翌日の昼下がり、文吉と慶吾は捕り方を引き連れて藤河屋の暖簾をかきあげた。

 繁蔵が捕まったことを知っている卯三郎は覚悟を決めたように、泰然と帳場に座っていた。

「観念しな。繁蔵が、みんな喋っちまったぜ。一緒に来てもらおうか」

「お待ちください。もうじき昨日の売上の計算が終わります。それまではご容赦くださいませ」

 慶吾の恫喝に近い声に動じた様子も見せず、卯三郎は慇懃に言葉を返した。

 覚悟を決めた卯三郎を前にして、慶吾は框に腰をおろすと、小僧が運んできた茶をゆっくりと飲み始めた。外は読売を読んだ野次馬が集まって黒山のような人だかりを作っている。

「さぁ、参りましょうか」

 算盤を置いた卯三郎が肩を揉みながら立ち上がろうとした時だった。奥から険のある目をして痩せた老婆が出てきて慶吾の前で手をついた。威厳のある風情にその場の温度が下がったような錯覚がして文吉は息を呑んだ。

「卯三郎の母でございます。この度のことはすべて私がしたこと。息子の預かり知らぬことでございます」

「息子の罪を被ろうっていうのかい?」

 いい加減にしろといった顔で慶吾は老婆を睨んだが、怯む様子はなかった。

「誰がこの店を支えていると思っているんです? 算盤勘定もできない吉衛門を誰が支えていたと思ってるんですよ。みんな卯三郎がしっかりと商いをしてきたせいじゃありませんか。卯三郎はちっとも悪くない。私がみんな指図したことでございますよ。さ、お白州でもどこでも連れて行っておくんなさいまし」

「おっ母さん、いいんだよ。おっ母さんが罪をひっ被ることはないよ。おっ母さんは何もしちゃあいない」

 卯三郎は、子供をあやす様に母親を諭した。

「藤河屋はお前の店だよ」

 胸に当てた手で憤りを抑える女将は歯噛みして押し黙った。

 女将の顔に表れた苦悶の表情には、実の息子が捕えられた悲しみよりももっと強い悔しさのようなものが色濃く出ている気がしたが、文吉にはそれが何なのか窺い知れなかった。

 奥から廊下をドタドタと音を立てて吉衛門が飛び出してきた時には卯三郎が慶吾に縄を打たれた後だった。

「……卯三郎」

「遅ぇじゃねぇか、やっと馬鹿旦那のお出ましかい? 次はおめぇさんの命が狙われていたっていうのに暢気なもんだぜ」

 慶吾の皮肉に体を震わせながらも卯三郎に取り縋ろうとして佐平から抱きとめられた。

「そんなことしなくても、お前さんにこの身上を渡すつもりだったんだよ。どうすんだい? お父っつあんから引き継いだ藤河屋は!」

 取り乱す吉衛門に卯三郎は冷たく笑った。言いたいことを呑み込んだ様子だった。

「兄さん、おっ母さんをお頼みいたします」

 卯三郎はそれだけ言うと、吉衛門に深く頭を下げて藤河屋を出ていった。



 お澄美が軒に植えていた紫陽花の色もだんだんと褪せてきたが、まだ雨が降ったり止んだりの日が続いていた。

 子供達が帰った後の指南所に三味線を抱えたお佳代が入ってきた。どことなく元気がないように見えるのは、八重が吉衛門に引き取られたからかもしれない。

「もうすぐ掃除も終わりますから、常磐津梅弥流の看板を掛けておきますね」

 楓が気遣うように声を掛けた。もっとも看板を掛けても通って来るのは、文吉と幼馴染で気まぐれな辰巳芸者の駒吉と居候の伊織、同じ長屋の大工の上さんぐらいなものである。八重もなかなか筋のよい弟子だった。

 やたらとらしくない溜息を吐くお佳代を伊織が気遣った。

「吉衛門さんと親子水入らずの道行だ。お絹さんの墓を藤河屋の菩提寺に移し終えたら、また元気な顔を見せますよ。小名木村なんか近いもんだ。日帰りだってできる。それにこの指南所に通わせて、昼からは女将さんの常磐津を習わせるのが八重ちゃんを引き取る時の条件だったんでしょう?」

 お佳代にすっかり慣れた伊織が、楓を手伝いながら愛想笑いを浮かべた。

「八重と一緒に寝てると、寝ぼけてあの紅葉のような手であたいの胸をぎゅうっと掴んでくるんだよ。あたしゃそれが愛おしくてねぇ。吉衛門なんぞに渡すんじゃなかったよ」

「でも八重殿が自分で決めたんでしょうが。藤河屋に行くことに女将さんも承知したんでしょう?」

 伊織が言葉を選びながらお佳代を窺った。短い付き合いだが、下手に言葉尻を捉えられて機嫌を損なわれると大変なことになるのは何度も身を持って経験している。

「ああ、貞吉には本当に頭が下がるよ。お八重には吉衛門の悪口ひとつ聞かせちゃいなかったようだ。だから八重に父親を嫌う理由なんてあるものか」

 吉衛門は文吉に八重を引き取る相談を持ってきたが、文吉は態よく逃げて同心の島岡慶吾を紹介した。

「おいら、相生屋の女将は苦手なんだ。この借りはでけぇぜ、わかってるのかい? え! 文吉よぅ……」

 腰のなかなか上がらない慶吾を宥め賺して吉衛門に同行させた。お絹がすでに死んだことを知った吉衛門の落胆ぶりは見るも哀れだったが、八重を引き取りたいという気持ちに嘘はなかった。八重に婿を取る時には必ず相生屋に相談しろと約束させて、お佳代はやっと八重を引き渡した。

「ま、お父っつあんは、死んだことになっていたらしいがね。八重も馬鹿じゃないから、早々に吉衛門の太平楽に嫌気がさして愛想がつきるよ。そうだ! トットと藤河屋なんか、潰れっちまえばいいんだ。そしたらまた八重を引き取ってあげるよ」

「でも死んだ政五郎さんの息子さんが頑張っているらしいじゃないの。長吉さんを鍛えて育てたのが卯三郎だっていうのが皮肉だけどね」

 お澄美がお茶菓子を盆にのせて入って来た。その後の藤河屋の消息は夫の文吉から聞いたらしい。

「そう言ゃあ、文吉が藤河屋の女将もお縄にしたそうじゃないか」

「ほんと、びっくりさせるよねぇ。卯三郎や繁蔵に裏で指図していたのは女将さんだったんだって、うちの人が言ってた。母親思いの卯三郎がなんとか元の店を取り戻したい女将さんの夢を叶えようとしたらしいよ。でもそう思うなら母親を止めるのが本当の孝行なんでしょうけどね」

 卯三郎はずっと自分の母親のことを庇っていたようだが、繁蔵が鋭く追及されたお白州で全部白状したそうだ。盗人を装った繁蔵一家の若い衆を藤河屋の中へ手引きしたのも、女将だったようだ。

 お佳代が悔しそうに拳で自分の膝を叩いた。

「きっと藤河屋に後添いで入った時から、乗っ取りを企てていたんだろうよ。自分の店を助けてもらった恩も忘れて、よほど藤衛門さんが憎かったんだろうねぇ。お絹を追い出した時にそのことに気付いていりゃあ……。そうだよ、あの貞吉を追いだした女なんだ。大人しそうな顔しやがって、一筋縄じゃなかったんだね。見抜けなかったよ。あたしゃ本気口惜しいったらありゃしない」

 お佳代がお澄美の持ってきた羊羹を頬張りながら「羊羹より、酒が欲しいよ」と涙ぐんだ。

 町家には町家の苦労や悩みがあるものだと伊織は他人事のように手を休めて茶を啜った時だった。

「こちらに坂本伊織がお世話になっていると聞いてきたのですが……」

 訪ないを入れるか細い声に、伊織は紛れもなく義母の由岐だと気付いて振り向いた。

「義母上、かような所に何故?」

 声の上ずった伊織にみんなの驚いた視線が戸口に集まった。

「今、母上って言った?」

 伊織とそれほど歳が変わらないのではないかと思わせる若い武家の女は、出たばかりの読売を握りしめていた。藤河屋の顛末を刷ったその読売には、派手に坊主頭の侍が剣を振りかざした挿絵が載っている。快刀乱麻の活躍、坂本伊織という注釈がついていた。

 涙ぐんで立ちすくむ女の手から読売が落ちた。すぐに拾ったお澄美が少し目を通して笑いを堪えた。

「吾妻橋の指南所に居候する坂本伊織は、坊主先生と呼ばれて子供達に大人気だってさ」

 自分のことが書いてあるので、結構読売は買い漁ったが、それはまだ伊織も読んでいないものである。

 すぐにお佳代が読売を取り上げると目を細めて読み始めた。

「いくら本当のことでも、何もこんな裏長屋で居候なんて書かなくてもいいだろうに。でもこれで居場所がわかっちまったんだね。なぁんだ、お前さんもちゃんと帰る家があったんじゃないか」

 お佳代の何気なく言った家の話題から逃げるように伊織は読売に怒ってみせた。

「子供達に人気だなどと、どこのどいつが読売屋に話したのだ! いい加減なことを書きやがって。とっちめてやる」

 楓が掃除の手を休めた。

「誰が話したのか存じませぬが、伊織さんは大層子供達に人望がおありですよ。気づきませんでしたか? 第一、坊主先生と最初に呼んだのは魚屋の源太ですよ」

 周りの反応に気付かぬ伊織の不明を呆れるように、楓は涼しい声で子供たちの評判を教えた。

 源太は落ち着きがなくしょっちゅう伊織から拳骨をもらっていた。しかし、それが嬉しいのか源太はその後でいつも照れ笑いを見せる。伊織は、自分が好かれていることに気付かず、変な子供だと思っていた。

 楓は、同意を求めるように数馬へ優しい目を送った。

 ふいの来訪者に見惚れて観察していた数馬は慌てて頷いて見せた。その義母由岐のことを伊織が密かに慕っていることを、文吉を入れた三人で居酒屋へ飲みに行った時に数馬は聞いている。天真爛漫なお澄美、可憐だが芯の強い楓、口は悪いが情に厚く気風のいいお佳代と三人の女が目の前にいるが、伊織の義母はその内の誰にも似ていないと数馬は思った。確かに美形だが、伊織に聞かせられたほどの女ではないような気がした。

 騒がしい女たちの気勢に圧されてずっと黙っていた由岐が遠慮がちに口を開いた。

「伊織様、捜しましたよ。すぐに帰りましょう。お父上もお帰りを待っていらっしゃいます」

「私は、鉄之助に家督を譲った身。今更、屋敷に戻るわけにはまいりませぬ」

「そんなこと、私も父上も認めてはおりません。坂本家の跡取りは伊織様ではありませんか」

「義母上も自分の子が家督を継いでくれた方が嬉しいでしょう。だから私は家を出たのです」

「愚かなことを……。私がそのようなことを考えているとでも思ったのですか? 情けない。やはり私のことをお嫌いなのですね。母と認めてはくださらないのですね」

 つっけんどんに義母を突き放そうとする伊織の態度に、由岐はおろおろとしながらもなんとか伊織を連れて帰ろうと気を張っている。

「何だい? 坊主先生の家も藤河屋かい。やけに熱心に文吉の手伝いをするんで奉行所の謝礼を当てにしているんだと思ったら、わが身と重ね合わせていたわけだね」

 お佳代が一人合点して頷いた。

「それは断じてない。女将さん、一緒にしないでいただきたい。それに拙者と鉄之助は、母は違えど父とはしっかり繋がっておる。吉衛門と卯三郎の関係ではない。拙者は鉄之助に命など狙われておらぬ」

「あたりまえだろ! まだ生まれたばかりの赤ん坊だと申しておったではないか」

 堪らず数馬が口を挟んだ。

 表に深川芸者の駒吉がやって来て、指南所の様子を窺っている。常磐津を習いに来るというより、お佳代を相手に嫌な客の憂さを晴らしに来ていると言った方が当たっているのだが、三味線と一緒に読売も持っているので今日は、藤河屋の顛末で話の花を咲かせたいに違いない。

 駒吉に気付いた数馬が伊織を呼んで耳打ちした。叱っているような口調にも見える。

「師匠がそこまで言うのなら、一度屋敷に戻りますが……。拙者、家を継ぐつもりはありませんからね」

 伊織の声が由岐にも届いたようだ。少し顔がほっとしたのを見て、数馬が声を掛けた。

「義母上殿、伊織殿が家で皆様とよく話し合いたいと申しておりますので、一緒にお戻りください。伊織殿も自分の行く末を托鉢行で見つけたと申しております」

 伊織が驚いてみんなに聞こえないように「嘘を言っては困ります」と数馬を睨んだ。数馬も「ならば、家に戻る道すがら考えればよかろう」と小声で返した。

 数馬に背中を押されて伊織はしぶしぶ由岐と出ていった。わざとに違いないが、荷物は置いたままだった。

「以外と簡単に帰ったねぇ。先生、何て言ったんだい?」

 訝しげにお佳代が首を傾げた。

「伊織殿は、父上の後妻に惚れておる。初めて見たいい女が義母だったわけだ。だから堪らず家を出たんだとよ。煩悩を抑えるために坊主にもなったらしい」

 なるほどと駒吉も女たちの輪に入って頷いている。駒吉も伊織と一緒に常磐津を習う仲だ。無骨な伊織をいつもからかっていた。

「お坊さんになった動機が不純だけど、あんなに綺麗なお義母様と同じ屋根の下じゃ、若い伊織さんとしては堪らないでしょうからね」

 お澄美が由岐の面差しを思い浮かべながら溜息を吐いた。

「だから言ってやった。世の中は、広いぞと。外に出れば、お澄美殿や楓のような娘がたくさんおる。伊織殿もここで暮らしていい女を見る目が養われたはずだ。もっと外に目をむけて、義母上以上の女を見つけてみよと耳打ちしたのさ」

「ちょっと待ちない! お澄美と女先生だけかい? 誰かもう一人忘れているだろう!」

「もう一人って、わっちのことかい?」

 駒吉が当然のように自分の顔を指さした。

「ひよっこが何寝言、言ってんだい! 小便芸者のくせに」

 お佳代と駒吉の口喧嘩はとどまることを知らず、原因を作った数馬は楓と大川の土手の上まで這々の体で退散していった。



 伊織は一向に荷物を取りに姿を見せなかった。

 文吉が警固に駆り出された浅草の大きな祭りも終わって一気に夏らしくなってきた。青々とした葉を背景にしてミズキの白い花が眩しく陽を照り返している。

「お、噂をすれば、坊主先生だぜ」

 非番の文吉が遅い目覚めに顔を洗おうと、表に出た時だった。その素っ頓狂な声にお澄美も数馬も飛び出してきた。

 坊主頭で羽織袴の伊織であったが、無精髭だけは綺麗に剃っている。

「神田の雉子町に空き家が見つかった。拙者はそこで手蹟指南所の看板を上げることにした。いわば数馬師匠とは商売敵だ」

 やはり家督は鉄之助に継がせることを父親に承諾させたようだ。伊織の似合わない羽織姿を見て、その場にいた者はその決意に簡単に納得してしまった。

「まだまだ俺の所で修業した方がいいんじゃないか?」

 外の賑やかな様子に掃除の手を休めて出て来た楓が数馬の二の腕を抓った。

「大丈夫ですよ。短い間に随分褒め上手になりました。褒め上手は教え上手です」

 楓の世辞ともつかぬ称賛を受け、満更でもなさそうに頭を掻いて伊織が照れていると、数馬がまたからかった。

「それで義母上への気持ちには折り合いがついたのかい?」

「ああ、指南所に通って来る娘の中から、お澄美殿のような娘を見つけてじっくり育てた後、嫁にする」

「動機が不純だわ」

 伊織の照れ隠しにお澄美がプッと吹き出して笑った。

「八重は絶対お前さんなんかにゃ嫁にやらないよ」

 お昼ごはんを八重と一緒に近所の蕎麦屋で済ませて戻って来たお佳代が、伊織の背中越しに罵声を浴びせた。ずっと後ろに立っていたのを話に夢中になっていた伊織は気づかなかったようだ。

「そんな生意気な娘は、こっちから願い下げだ」

 途端、伊織は八重から木履で向う脛を思いっ切り蹴られた。

「ふらふら生きてる大人なんか嫌いだ!」

 八重の睨む目にたじろぐ伊織を見て、文吉が笑った。

「お八重ちゃんに嫌われないように、しっかり寺子を増やすんだぜ」

 脛を擦りながら伊織が文吉に頷いて、思い出したように言い添えた。

「それから、また捕り物があったら声を掛けてくれ。この度の奉行所からの謝礼は思いの外多かった」

「おいおい、これ以上、おいらの商売の邪魔をするのはやめてくれ」

 数馬が本気で怒るのをまた楓に窘められていた。それを見ながら楓のような女もいいなと思う伊織だった。




 

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[良い点] うまいですね。一挙に読めました。校正も十分なようで流石です。 [気になる点] 筆が止まっているのが気になります。シリーズにするつもりではなかったのですか。 [一言] このような才能がある方…
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