子供のために棺を置いたのに。
愛が死んだのは、七歳の春だった。
近所の誰もが「いい子だった」と口をそろえ、担任は涙を流す。
同級生たちは折り紙で作った花を棺に入れた。
交通事故だった。
青信号を渡っていた愛に、居眠り運転のトラックが突っ込んだ。
即死だったという。
しかし父親の健一は、その言葉をどうしても信じられなかった。
「即死だから苦しくなかった」
何人にもそう言われた。
だが、苦しくなかったはずがない。
七歳の娘が死んだのだ。
苦しくなかったなどと、大人が勝手に決めつけているだけだ。
葬儀の日、 棺の中に眠る愛は、まるで眠っているようだった。
健一は震える手で、ぬいぐるみを入れた。
誕生日に買ってあげたウサギのぬいぐるみだよ。
「パパと離れても、寂しくないように」
そう言うと、妻の美奈が嗚咽した。
棺の蓋が閉じられ最後の別れ。
そして火葬される。
その日から、健一たち夫婦の時間は止まった。
家の中には愛の気配だけが残った。
ランドセル。勉強机。好きだったアニメの人形。小さな歯ブラシ。
どれも片付けられない。
片付けてしまったら、本当に愛がいなくなってしまう気がした。
だから、そのままにした。
毎晩、愛の部屋に入る。
机を撫でる。それから写真を見て泣く事が日課になった。
愛が死んでから三か月後の夜だった。
健一は奇妙な音で目を覚ました。
「コン。コン。コン。」
何かを叩く音。時計を見る。
午前三時十一分。家中が静まり返っている。
また音がした。
「コン。コン。コン。」
今度ははっきり聞こえた。愛の部屋からだ。
健一は飛び起きた。
もしかしたら泥棒かもしれない。
そう思いながら部屋へ向かう。
扉を開けたが誰もいない。
窓も閉まっている。
だが音だけが聞こえる。
「コン。コン。コン。」
机の下だった。
健一は恐る恐る覗き込んだ。
そこには何もなかった。
だが耳を近づけた瞬間、音が止まった。
翌朝。
「気のせいじゃない?」と美奈はそう言った。
確かにそうかもしれない。疲れているのだ。
そう自分に言い聞かせた。
しかし翌晩も、同じ時間に音がした。
そして次の日も。
毎晩三時十一分。
「コン。コン。コン。」
まるで誰かが内側から叩いているような音だった。
一週間経った頃。
健一は音の正体を探るため録音機を置いた。
翌朝、再生してみる。
最初は無音だった。
やがてコンコンという音が始まる。
そしてその後。かすかな声が混ざっていた。
健一は凍り付いた。
『パパ』
幼い少女の声だった。
『ここだよ』愛だった。
聞き間違いではない。何度聞いても愛の声だった。
美奈に聞かせる。
彼女は真っ青になった。
「やめて……やめてよ……」
「聞こえただろ?」
「聞こえた……」
二人とも、その夜は眠れなかった。
そして三時十一分。
音が始まった。
今度は声も聞こえた。
録音機越しではない。
確かに部屋のどこかから聞こえる。
『パパ』
コン。
『ママ』
コン。
『寒いよ』
その瞬間、美奈が悲鳴を上げた。
「やだ!」
健一も全身が総毛立った。
声は机の下からだった。
二人で机をどかし床を調べる。
何もない。
しかし声は続く。
『出して』
コン。
『出して』
コン。
『出して』
翌日、健一は寺へ相談に行った。
住職は録音を聞き、難しい顔をした。
「娘さんを火葬されたんですよね」
「はい」
「棺に何か入れましたか」
「ぬいぐるみを」
「それだけですか?」
「え?」
住職は黙った。
「火葬されたのなら、娘さん本人ではないでしょう」
「じゃあ何なんです!」
怒鳴る健一に、住職は静かに言った。
「呼ばれています」
「誰に?」
「わかりません」
その夜。
愛の部屋の壁に異変が起きた。
黒い染みが浮かんでいた。
人の手形のような形。
それも一つではない。十以上あった。
まるで大勢が壁の向こうから押し付けているようだった。
そして三時十一分。
染みが動いた。
手形がゆっくり伸びる。
壁を這う。
美奈が失神した。
健一も足が震えていた。
その時だった。
部屋中に愛の声が響く。
『助けて』
『助けて』
『暗いよ』
『苦しいよ』
健一は泣きながら叫んだ。
「愛!」
『パパ!』
「どこなんだ!」
すると声が答えた。
『棺の中』
健一の呼吸が止まった。
火葬したはずだ。
棺など残っていない。
しかし愛は繰り返した。
『棺の中』
『出して』
『まだ生きてる』
その日から健一は狂ったように調べ始めた。
火葬場。
葬儀会社。
病院。
事故記録。
だが何もおかしな点はない。
全て正常だった。
それでも声は止まらない。
日に日に大きくなる。
そしてある夜。
愛の声ではないものが混じった。
『開けろ』
低い男の声。
「コン。コン。コン。」
『開けろ』
さらに別の声。
『出して』
『返せ』
『寒い』
何十人もの声。
壁一面の手形。
天井にも。床にも。家全体が軋んだ。
まるで何かが押し寄せてくるようだった。
住職を呼んだ。
住職は部屋を見るなり顔色を失った。
「これはまずい」
「何なんですか!」
「娘さんじゃない」
「え?」
「最初から娘さんではない」
部屋の空気が凍った。
「どういう意味ですか」
住職は震えながら言った。
「悲しみの強い家には寄ってくるものがあります」
「寄ってくる?」
「死者のふりをするものです」
健一は全身の血が引いた。
「じゃあ愛は……」
「声を利用されたのでしょう」
その瞬間。
部屋の壁が弾けた。
黒い手が飛び出した。
何十本も。何百本も。
人間の腕ではない。
異様に長く、関節が逆に曲がっていた。
住職が経を唱える。
黒い手がのたうち回る。
だがその奥から。
愛の声が聞こえた。
『パパ』
健一は涙を流した。
「愛!」
『こっち』
黒い闇の奥だった。住職が叫ぶ。
「行ってはいけない!」
しかし健一は止まれなかった。
娘の声だった。
ずっと会いたかった。抱きしめたかった。
一歩。また一歩。闇へ近づく。
すると奥に棺が見えた。真っ白な棺。蓋が小さく揺れている。
中から叩く音。
「コン。コン。コン。」
『パパ』
健一は棺に手を掛けた。
開ければ愛がいる。
そう信じた。
だが蓋を少し開いた瞬間。
中から無数の目が覗いた。
真っ黒な顔。
裂けた口。
腐った歯。
そして数え切れないほどの人間の顔。
全員が笑っていた。
『やっと開いた』
棺から黒い影が溢れ出した。
住職の絶叫が聞こえる。
美奈の悲鳴も。
しかし健一は動けなかった。
影の奥で、本当の愛の声が聞こえた。
とても遠くから。
『パパ、だめ』
その声は涙で震えていた。
『それ、わたしじゃない』
健一はようやく理解した。
最初から。
全部。
偽物だった。
愛を餌にしていたのだ。
棺を開けさせるために。
そして影が笑った。
『ありがとう』
家全体が闇に飲み込まれた。
翌朝。
近所の人々は異変に気付いた。
健一一家の家が消えていた。
更地になっていたのである。
警察が調べても何も出てこない。
家族の行方は不明。
住職も消えていた。
ただ一つだけ。
更地の中央に小さな木箱が置かれていた。
中にはウサギのぬいぐるみ。
そして幼い字で書かれた紙。
『ありがとう』
その下に、さらに小さく書かれていた。
『こんどは、べつのだれかのおとうさんをさがすね』
それを読んだ警察官は不気味に思っただけだった。
だが、その夜。
木箱は消えた。
代わりに別の町で。
子供を亡くした家族のもとに。
三時十一分。
コン。
コン。
コン。
という音が響き始めた。




