夢幻泡影
只玻璃を通した光の中でうと/\し、偶にあれの相手をするだけであつた。それで好いのだと、あれが云つたのだ。
此処が何処であるのか、養生の為に越したあの田舎であるのかどうなのか、亨太郎は知らなかつた。其景色が、嘗て亨太郎が居た東京のものではないことはわかる。しかし、このやうな洋館が田舎に在るともおもはない。
問へばわかるのかも知れないが、問うたところで答へが返つて来るやうな確証も無い。あれの、亨太郎は未だに名前を知りはしないが、不興を買ふやうなことは避けたかつたのだ。抑亨太郎にとつて、此処が何処であるか、何時であるのかは、重要なことではなかつた。死を待つだけの身であつたのだ。今生きてゐるだけ好いのだと、或は死んだやうに凍えた身体でおもつた。
ふと人の居る感がして、亨太郎は醒覚して四辺を見廻した。あれの姿は見えない。何処に居るのかは知らないが。
まだ間に合ふか。
亨太郎は徐に立ち、そちらへと足を向けた。
偶然などとゐふことがあるものか。
わたしは呼ばれたのだ。誰にかも、何故かもわからないがね。だが、かうでなければ、何故わたしでなければならなかつたと云ふのか。否、違ふ。わたしは選ばれたと信じたいのだ。認めよう。此妙な経験が、わたしにとつての、生娘の一夜のやうなものなのだ。
その時わたしは勤めてゐただけだつた。さう、霊岸だよ。いつものやうにね。それでも、ふとした時にはあの場所に居た。
鬱茂として、水の流るる音が何処よりか聞くのみであつた。だが虫の一匹も居やしない。此時感ずれば好かつたが、或は仮にあの時躊躇つてゐたら、わたしは其儘死んでゐただらう。
草を搔きつつ進み、しかし何故か迷はなかつた。そこには古い鳥居があつた。触れれば壊れるであらう程に朽ちてゐた。
そこを行くと向かうに煉瓦造の洋館が見え、そこでわたしははじめて、これが常ならずと解した。
引き返さうとおもつたのだ。
「おや/\。」
さう男の声が聞えた。見ると、若い男がこちらを見、微笑してゐた。これといつて目に立つ姿ではなく、しかし目を惹く何かがあつた。或は其和らかなまなざしが、妥な声が、袖に隠れた手が、わたしを惑はせるのであつた。
魅入られたとおもつたのだ。この男が、人でない理由などないとゐふのに。
「迷つたか。」
あゝ、さうだ。この男の云ふやうに、わたしは迷つたのだ。しかし何故か声は出せずに、わたしは茫然として男を眺めるだけだつた。
男は暫くわたしを見てゐたが、男が咳をした時、それは顕れた。
わたしは、今度はそれが、人ならざるものだとすぐにわかつたのだ。白く長い髪に、高い背は八尺はあつただらう。色も白く、女のやうな顔立をしてゐたが、しかし、胸のふくらみも無かつた。
「亨太郎。」
さう、それは男の肩に手を置いて、男を呼んだ。それの白い髪が、恰も意の在るやうに男に絡み付いた。男は、しかしそれを、来るなと云つただらう、とあしらつた。細い指が白を纏つた。それは男の言もすることも意に介することの無い儘、冷然としてわたしを見た。
「珍らしいですね。人間の客人など。」
「そんな筈はあるか。迷つたらしい。」
少しの間わたしを見て黙つた後、東京の、霊岸島かと男が問うた。元居た場所を問はれているのだと、わたしは、やはりまだ声が出せなかつたので、頷くことで肯じた。
「そこには寺があつた筈でしよう。」
「いつの話だ。明歴の大火でたうに焼けてゐる。あゝ、だからか。」
さう、男はひとり妙を得たやうだつた。感心したやうに息を吐いたそれが、少し首を傾けた。そのさまを一瞥し、男はそれに「帰してやれないか。」と問うた。
「寺のあつたあたりで好いのですか。」
「せめて日本橋にしろ、重複があれば潰れるだらう。」
「えゝ。」
男に云はれ、それは男に向つて微笑んでから、わたしを見た。
「亨太郎の優しさに免じましよう。次は無いですよ。」
云つて、それは、わたしに向かつて手を伸した。届くやうな距離ではないといふのに、わたしの目睫の間には白い大きな手があつた。そしてわたしの顔を覆ふ直前に、男に接吻をしたのだ。
あゝ、間違いだつた。この男に魅入られたのではない、矧やわたしなどではない。それが、この男に魅入つたのだ。この男は、たうにそれに連れ去られたのだ。
だつて、トウケイではなくトウキヤウだらう。
あゝ、さうだ。以上が、わたしが隅田川に落ちてゐた理由だよ。気が狂つたとおもはれても構はないがね。落とされたのは、あの白いのの当てつけだらう。唯、いつの間にかわたしは水の中だつたのだ。
わたしが分かつてゐることはそれだけだ。わたしはもう二度と会うことは出来ないだらう。あの男にも、あれにもね。だがあんたは違うかも知れないな。次に人間が迷い込んだ時、どうなるかは知らないが。
人外さん
白い長髪人外さん。だいたい八尺様。姿は変えることができるが体積が変わらない。不老だが不死ではない。耐久性は高い。亨太郎が好き。
亨太郎
人外さんの眷属。元結核患者。不老だが不死ではない。体温がない。別に人外さんのことが好きというわけではない。
語り手
特に名前はない。船関連の仕事をしていたが、迷ったらしい。
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成瀬です。
やってみたかったことのテストです。参考文献が多く長文になってしまったため、ページを分けて公開します。
一度現代語で記述してから、その文体を変える、という形をとることで制作しました。現代語版や余談などをFANBOXに掲載しています。無料で読めますので、興味のある方は是非。
現代語版 https://rihito-naruse.fanbox.cc/posts/12773512
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