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第1話 つんつるお股からこんにちは

2024年9月16日。


 今日は、誰かの誕生日だ。

 薄曇りの空から、天使の梯子が地上へ降りている。


 ザッ。ザッ。ザッ。


 一定のリズムで、鍬が土を削る。

 天気はなんとか持ちそうだ。

 だが、九月も半ば。日に日に夕暮れが早くなっている。


 そう思うと、自然と鍬を握る手も速くなる————



 ————私の師匠は、二十年以上この方法で大根を育ててきた。

 まず、草ボーボーの畝を刈る。

 この畝そのものも、二十年前にスコップと平鍬を駆使し、三日ほどかけて立てたものだ。

 草を刈り終えたら、さまざまな雑草の種が落ちている表土を、平鍬で五センチほど薄く、真っすぐ削っていく。


 すると、畝の上に一本の細長い道ができる。


 そこへ、大根の種をばらまく。


 それだけだ。


 師匠は三十年以上、無農薬・無肥料で野菜を育ててきた。


 そのの畑は【妙なる畑】と呼ばれ、種は万倍【わら1本の革命】を、自分の身体と時間、そのすべてを使って表現し続けてきた人だった。


 ヨーロッパをはじめ、アジア、アフリカへと渡り、この農法を伝えてきた。

 海外では日本人農業家として名を知られ、功労者として扱われることすらある。


 ところが、日本での知名度は驚くほど低い。


 農業をやっている人間でさえ、名前を知らない者のほうが多いだろう。

 私にとって師匠は、間違いなく近代最後の革命家だった。

 そして、志半ばで倒れていった同志でもある————



     *



 なんとか暗くなる前に、一本の畝を仕上げた。

 鍬にこびりついた泥を、その辺に落ちていた木の棒でこそげ落とし、手袋を外す。

 作業用手袋は、ショーワグローブと決めている。


 泥に強い、鎌を扱っていても、多少の切り傷なら防いでくれる。

 ただし、これはどんな作業用手袋にも言えることなのだが、なぜか手首から土が侵入する。

 しかも侵入した土は、どういう原理なのか最終的に指先へ集結する。


 結果、手袋をしていたにもかかわらず、


「俺、素手で畑やってたっけ?」


 というくらい爪の間が真っ黒になる。

 今がまさに、それだった。



「ふう……」



 私は自分を落ち着かせるように、深く息を吐き、空を見上げる。


 雲は厚い。

 沈みかけた太陽の光が、その隙間から黄色や緑色の閃光となって差し込んでいた。

 日没の直前、ごくまれに空の一部が緑色に見えることがある。


 空気が澄み、光の波長がうまく届いたとき、赤と青の狭間にある緑色が一瞬だけ顔を出す。

 太陽の光は地球の大気を巨大なプリズムに変え、いつ何時でも、空を七色に染めている。



 私は幼い頃から、自分が水の底にいるような気がしていた。

 だから、よく空を見た。


 夏のどこまでも続く積乱雲でも。

 冬の気持ちが下がるような曇り空でも。


 畑の真ん中で鍬を止め、口を半開きにして、ぼーっと空を眺める。

 近所の人から見れば、農家というより、宇宙の電波を受信している人だっただろう。


 自分だけが、何キロもの水の底に沈んでいる。

 底で泥にまみれながら蠢いている、小さなウジ虫。


 そんな気持ちになることがある。


 いつか、この水面まで浮かび上がれるんじゃないか————


「とぉ……ちゃん……来たよ」


 私は水底へ視線を戻した。

「父ちゃん!迎えに来たよ」

 そこに、娘が立っていた。

 亜麻色の髪が風に揺れている。


『ああ……そうだ。私には娘がいたのだ』


 水底にいようとも、私は繁殖活動に成功し、DNAに刻まれた生物としての使命を一つクリアしている。

 これはなかなか大したことであるのだが、、、

 種というのは実際に土の中に降ろして発芽させてみなければわからない


 昨日、我が家は修羅場だった。

 血を流しながら泣き叫ぶ娘。

 涙ながらに騒ぐ妻。

 その中心で、なすすべなく立ち尽くす私。

 床に叩きつけられたスマートフォン。

 テーブルの上でひっくり返った夕飯。


 ひとえにこれは地獄絵図である————



「マキコちゃんところの、まーちゃんじゃない。迎えに来てくれたんだねぇ」

 私は娘を見る。

「ところで君、パンツを履いているのかね?」


「履いてないよぉ!」ニパァ


「履いてないのぉ!?」ドン!


「もしかして……また、その辺でおしっこして……」


「濡れちゃったから、脱いだのー」

娘は服をバタバタとさせる、つんつるのおまたが見え隠れする。


「おパンツだけでも履こう? ねぇ?」


「やっだよぉ。気持ち悪いんだもん!」


 感覚過敏というのだろうか。

 まぁちゃんは歩き始めた頃から、地面に手をつこうとしなかった。

 濡れたものも嫌い、手にまとわりつくような食べ物も嫌った。


 この辺りは見渡す限り畑なので、パンツを履いていようがいまいが、裸だろうが、私は別に気にしない。

 しかし、問題はそこではない。

 この状況を妻に発見された場合、怒られるのは私である。


    『しょうがねぇな』


 私は持ってきたタオルを、まぁちゃんの腰へ巻こうとした。


  「やだよぉだ」

  

逃走するまーちゃん


  「これ!待たんかい!」

  「きゃははh」



 尻を半分出した娘が、畑の中を走っていく。

 私はタオルを持って追いかける。

そのときだった。


「――米山さーん!」


 その声を聞いた瞬間、米山は、心の底からうんざりした。

 農道で停止して傾いた軽トラックから、大柄な男が降りてきた。

 年代物のサンバーが横に揺れる。


 佐々木弁蔵、五十八歳。


 先祖の代から付き合いのあるJA職員である。


「ちょうどよかったよ!」

 何がちょうどいいのか分からない。

 こちとら今から、パンツを履いていない娘にタオルを履かせるところだったのだ。


 弁蔵は嬉々としてこちらへ歩いてくると、まず娘に声をかけた。


「まーちゃん、こんにちは。いや、もうこんばんはかな? ……おや? まーちゃん、今日はパンツ履いてないんだねぇ」

「うん! だってね! さっきおしっこで濡れちゃったから!」ニパァ

「そうかそうか」ニヤリ。


 ……なぜ笑う。

 まぁちゃんは誰にでもよく懐き、愛想を振りまく、父親としては、陰ながら罪な女だと思っている。

 この笑顔で将来、何人の男が――

 いや、考えるのはやめておこう。


 私は苦笑いを浮かべた。


「それじゃあ、もう帰るところでしたので……。まぁちゃん、バイバイは?」

「ばいばーい!」

「いやぁ~、米山さん。この前の設備投資の話、お答え聞きたいんですよぉ~」


 逃げ道を塞がれた。


 話というのは、ビニールハウスと灌漑設備のことである。


 うちのビニールハウスは、中古でもらってからすでに二十年以上。

 ビニールは白く濁り、鉄骨はところどころ錆びている。

 もはや農業施設というより、遺跡に近い。


 さらに近年、別の問題も出てきた。


 自然農では、基本的に水を与えず、雨だけで作物を育てる。

 自然の循環へ作物を乗せていく考え方だ。

 ところが近年の気候変動で、それが難しくなってきた。


 雨が降らない。 暑すぎる。


 水を与えなければ、収量が目に見えて落ちる。

 そこで私は、ほんの出来心で灌漑設備の見積もりを頼んでしまった。

 ところが向こうは、なぜかもう導入が決定したものと思っている。

 こちらも強く断れない。

 そうして話は今日まで、ぬるぬると生き残っていた。


 ついでに言えば、この弁蔵という男。

 おそらくロリコンである。

 自慢ではないが、私の妻もジャンル分けするならば、かなり幼く見えるほうだ。

 そのせいなのか何なのか、弁蔵は旅行へ行けば土産を持ってくるし、余った種や肥料などもよく無償で持ってきてくれる。

 

 悪い男ではないのだが、押しが少々強いのが、私も妻も苦手なのである。

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