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ある老人の話

作者: 椎名正
掲載日:2026/04/03

 理由ですか?

 特に深い理由はないですよ。

 去年から、うちの学校でやっている職業体験で、あの老人ホームを外したのは、特別な理由はないです。

 なんとなくですかね。

 まあ、会議で決められているから、私だけじゃない他の先生達も納得と言うか、そのほうがいいんじゃないかなって感じで。

 いや、その老人ホームと何か問題があったとか、そんなんじゃないですよ。

 他の先生が口を濁しているのは、何か隠しているとかじゃなくて、説明が難しいと言うか、みなさんあの話に対してどう感じているかが自分でもよくわからないと思います。

 ええっとですね。

 一昨年なんですけど、私のクラスの生徒が、その老人ホームに職業体験に行ったんですよ。

 その生徒は、元々福祉の仕事を目指していたんですけど、その老人ホームに行って自分は福祉の仕事は向かないと進路を変更したんです。

 いいえ。職業体験をしてその職業が向かないとあきらめたことは何の問題もないです。

 と言うより、自分の適性を知ることが目的なので、それこそが職業体験をやる意義です。

 だから、何か問題があったとかじゃないんですよ。ないんですけど、何ていうのかな、

 あの話は、

 いえ、単に思い違いの話ってだけなんですけど。

 いろいろ深読みしてしまうと言うか、

 その生徒は、あの老人ホームで、いろいろな仕事を経験させてもらったそうですが、ある老人のつきそいをしたそうなんです。

 体調をくずして病院に行く老人のそばにいる。

 それで、その老人に頼まれたそうです。

 自分は腎臓が一つしかないから、医者の先生にそう伝えてくれないかと。

 その老人はその生徒に自分の身の上話をしたそうです。

 自分には病弱な弟がいたと。

 その弟のために、腎臓を一つ提供してくれないかと継母に頼まれたと。

 悩んだ末に、その頼みを承諾したと。

 その病弱な弟は、自分の腎臓を一つ移植し、本来一か月の寿命が三年ほど伸びたと。

 継母は自分に感謝し、とてもやさしくしてくれたと。

 腎臓が一つになった自分は、身体が弱くなりいろいろ苦労したと。

 継母がやさしくしてくれたのは嬉しかったが、自分は腎臓でそのやさしさを買ったのではないかとの罪悪感があったと。

 その複雑な想いも、いまでは思い出だと。

 そんな話をきいた後で、その生徒は医者に言われたそうです。

 あの老人は腎臓がちゃんと二つあるし、手術跡は一切ないと。


   おわり


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