一:源幽玄と御神彩羽と転生
六月も中旬に入り、東京は本格的な梅雨の季節を迎えていた。じめじめとした空気が肌にまとわりつき、だんだんと気温も上がって、むっとする蒸し暑さが日に日に増していく。
練馬区にある私立の早松高校のグラウンドでは、生徒たちが、汗まみれになりながら前のめりに喘ぎ、必死に走り続けていた。
教師が首から下げた笛を吹き鳴らすと、ようやく解放された生徒たちは一斉に膝に手をつき、肩を上下させながら荒い息を整えている。
「10分間休憩、その後集合だ」
教師の声に、生徒たちは日陰を求めて歩き出した。あちこちから弾けるような笑い声が聞こえてくる。
そんな中、御神彩羽だけは違っていた。同じく激しい運動を終えたはずなのに、彼女はわずか数回の深呼吸で平常心を取り戻していた。頬に浮かんだ僅かな汗の粒が陽の光を受けて、まるで琉璃のようにきらめき、少女の整った顔立ちを一層引き立てている。
周囲から投げかけられる視線など意に介さず、御神彩羽は心に浮かんだ疑問を胸に、端にある一本の樟へと歩みを進めた、歩くたびにポニーテールが軽やかに揺れ、少女の自信に満ちた雰囲気を際立たせる。
木の下から約十歩手前で足を止め、御神彩羽はそこに佇む男子生徒をじっと観察した。
源幽玄――その名の通り、幽玄な雰囲気を漂わせる少年だった。樟の木に背中を預け、175センチほどのすらりとした体躯。御神彩羽の視線を感じたのか、ゆっくりと顔を上げた。その深淵のような瞳には一切の感情の起伏が見られず、あたかも千年の時を経た仏像がこの世の全てを静かに見つめているようだった。
先ほどの長距離走でも、彼の呼吸は微塵も乱れていない。額に一滴の汗も浮かんでいないことに御神彩羽は改めて気づいた。確信を深めながら、彼の元へと歩み寄り、同じように樟の木に背中を預けた。
「源くん、あなた...未来から戻ってきたんでしょう?」
その言葉に、源幽玄は頭を振り向いた。振り向いた先には、ちょうど御神彩羽の霊気に満ちた大きな瞳と目が合った。
源幽玄の瞳に映る自分を見て、御神彩羽は初めて「この人の視界に入れた」という実感を得た。
「答えを知った問は無意味だわ。」
源幽玄の声はとても優しい響きだったが、まるで人工知能のように温度を感じさせない。その深淵のような目と相まって、すべてを掌握しているような感覚した。それなのに、御神彩羽は不合理にも、かすかな安堵を覚えていた。
(やはり彼も私の正体に気づいていたか。)
源幽玄の答えで全てが繋がった御神彩羽は、続けて問うた。
「いつから気づいてたの?」
「最初だ。直接会ったことはないが、名前は聞き及んでいた。」
源幽玄は淡々と語り続ける。
「御神彩羽——七大陰陽家系・御神家当代当主、御神修の一人娘。百年に一人の天才と謳われたが、十ヶ月後に発生する『妖災』において...」
ここで源幽玄はわずかに間を置いた。御神彩羽の右手がぎゅっと握り締められるのを見て取りながらも、話を止める気配はない。
「死んだ。」
「私の記憶では、君は一度も京都を離れなかった。それが今、妖災の発生源である東京にいる。理由は明白だろう。」
御神彩羽の推測通り、源幽玄がここまで看破できるなら、彼女の名前自体が最大のヒントだった。
あと十ヶ月もすれば、何の前触れもなく、無数の妖が東京に出現する。七大陰陽家系が即座に対策を講じたにもかかわらず、半日で東京は陥落。雷霆のごとく日本全土を席巻し、この未曾有の災害は「妖災」と名付けられた。
妖災発生から三日後、京都だけが最後の砦として抵抗を続けていた。七大陰陽家系の本拠地であるため、主力部隊が集中しており、妖も短時間に攻め込めなかった。しかし徐々に消耗し、ついに京都も陥落。御神彩羽はその戦場で命を落としたのである。
再び目を開けた時、彼女は一月前の時点に戻っていた。混乱と疑問を抱えながら調査を重ねるも、手がかりは得られない。妖災の真相を突き止め、未然に防ぐため——彩羽は発生源の東京へ向かうことを決意した。
そして、三日前。
「御神彩羽と申します、京都から参りました、よろしくお願いします。」
教壇で簡潔に自己紹介する彩羽の横で、担任教師が興味深そうに付け加えた。
「御神さんは源くんと同じく京都出身で、同じく標準語が上手ですね」
「えっ?」
御神彩羽は教師に視線を向け、瞳に疑問の色を宿した。
その困惑を受け、教師が教室の奥を指さした。
「あちらは二週間前に転入した源幽玄くん。実は御神さんと同じ京都のご出身です。正直、前は知り合いかと思いました。」
差し出された指先に視線を移すと、教室の最後列で、朝日の光が窓から差し込み、白磁のような肌が淡く光る少年がいた。
(仏像のような人だ…でも「源幽玄」? 源家の人が、名前聞いたことない。)
「そうですね、御神さんの席は源くんの隣でしましょうか。同じ転校生で京都同士ですから、助け合って新しい学校生活を過ごしていきましょう。」
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「集合だ!」
教師の号令に源幽玄が足を踏み出した。彼の背中を見ながら、孤軍奮闘と思った御神彩羽は、心の奥である感覚が湧き上がった。
(仲間…か?)




