彼のさいわい
ルシオ・フォルセティの母親は後妻だった。
ファブリシオは先妻に先立たれた後、二番目には魔法使いの妻を望み、ルシオが生まれた。息子の出来は、あまりよくはなかった。
三人いる兄とは、年も離れていたこともあり、馴染むことはできなかった。兄たちが身分の低いルシオの母を嘲笑していることは知っていた。彼らがすれ違う度、ルシオを殴るのは、選民思想から来るのだと、そう思っていた。
だからルシオも、彼らを見下すことに決めた。強くなろうと考えた。いつか兄と父を出し抜き、高みから見下ろすのがルシオの夢だった。
金と暴力が、その手段だと思っていた。そんな動機と手段では、真の強さが宿らないと、その頃は知らなかったからだ。
彼らを恨んではいけないのだと、父と兄を殺してやると口にした幼いルシオを、母は優しく窘めた。
誰も恨んではいけない、誰も悪くはないのだから。戦ってはいけない、歯向かってはいけないのだと、いつも母はそう言っていた。ルシオしか見舞わなかった、死の床でさえも――。
思い出を振り払うために、ルシオは小さく首を横に振った。
(今になって、お袋のことを思い出すとはな)
母が間違っていたとは思わない。だが、完全に世界を理解していたわけでもないだろう。
時には歯向かい、戦わなくては、なし得ないものもこの世にはある。だがルシオは、父や兄を恨んで歯向かうわけではなかった。
アリアが来たということは、ディミトリオスの奇襲も終わりが近いということだ。ならばその前に、こちらから終わらせてやろうとルシオは思っていた。
隊を引き連れて本陣テントへやってきたルシオを見て、外で戦況を見ていたファブリシオは驚愕の表情を浮かべ叫んだ。
「ルシオ、なぜこちらに来た!」
ルシオは剣をファブリシオ目掛けて振り下ろす。だが掠りもしない。
剣は長兄が受けた。側近等がファブリシオを守るために囲む。
「血迷ったかルシオ!」
兄の怒号は、聞こえていなかった。ルシオはただ、父親だけを見ていた。
「ファブリシオ・フォルセティ! お前はイリスを裏切り敵対することに、もっともらしい理由をこねていたが、そこに本当に正義はあったのか!」
ファブリシオは末の息子が喚くのを、不審そうに眉を顰めて見ただけだ。
「青臭い正義など、生きる上でなんの役に立つ?」
ファブリシオは、本気で疑問を投げかけただけのようだった。
父は幼いディミトリオスを哀れに思い、彼を救った。ヘルではイリスを守り、戦った。
だがそこにあったのは情ではなく醜い保身と欺瞞だと、ルシオは今、確信した。だから父はオーランドに従うのだ。本来、国を継ぐべきはディミトリオスであると知っているにもかかわらず。
「親父、あんたは間違ってる! 人間の幸いとは、高みに上り詰めることにはない! 人間の幸いとは、誇りを捨てず、愛と正義のために、勇気を持って戦うことだ! 貴様等にはそれが微塵もない!」
自分には、似つかわしくない台詞だと、自分が一番分かっていた。だが愛こそが、人を幸福たらしめるものだと、そう思えてならなかった。
ルシオはディミトリオスとイリスが好きだった。あれほど純粋で素直な愛を持っている者達はいない。だから助ける。彼らを愛しているから。それがルシオの正義だった。
「俺はディミトリオスの治世で生きたい! あいつのために死ぬなら、俺は全く構わない!」
「ディミトリオスに心酔している。殺してでも止めろ」
ルシオは、自分の目頭が熱くなったことに気が付いた。親子の間の、永遠に塞がらない溝を悲観したわけではない。ただ己の本心に従い生きることに、魂からの歓喜を感じたから涙を流した。
ルシオは思う。
ディミトリオス、あいつほど、正しいことを迷わずにやれる人間はいないのだと。
脱走兵に集落が襲われていた時、ルシオは恐ろしくて、建物の陰で震えていることしかできなかった。ヘルでさえも、人を殺すことはできなかった。ただ人を救うために、泥をかぶることを厭わないディミトリオスに従い、呆れた勇気だと斜に構え穿ち見ながらも、一方では強烈に憧れ、尊敬の念を募らせた。
だから、ひたすら思うのだ。
ただ、幸せになってくれと。
ルシオは剣を握ったまま、両手に魔法陣を出し、ファブリシオを囲う兵に向けて放った。隙ができ、兄の剣が馬上のルシオの脇腹を貫いた。だがそれでも、ルシオは攻撃を止めなかった。
(俺は傍観者をやめるぞ!)
攻撃魔法は兵らを殺傷し、空いた穴にルシオの隊の者が入り込んだ。ルシオの体に、兄の剣が再び突き刺さる。気を失いかける痛みに耐えながら、ルシオは叫んだ。
「行け! ファブリシオを倒した者には、ディミトリオス皇帝陛下が、褒美を取らせる!」
血が口から出て、咳き込みそうになるのを堪えた。
勝手な言葉だが、ルシオとディミトリオスが繋がっていると確信したらしい兵らは、血気盛んに攻め込んだ。
そうして、遂に、その声がした。
「ルシオ様! 獲りました! ファブリシオ・フォルセティを、私が殺しました!」
地面には、魂の抜けた父の体が横たわる。
瞬間、ルシオは雄叫びを上げた。両目から涙が溢れるのを、抑えようがなかった。虚無と絶望と歓喜が、嵐のように、同時に押し寄せていた。
怒号と戦闘の音が、近くで炸裂した。ファブリシオを殺したと言った男が、別の兵士に殺されるのを、ルシオは見た。
三度、体に剣が刺さった。胸の真ん中に、兄の剣がある。
ルシオは兄の手ごと剣を掴むと、自ら握っていた剣を、兄に向けて突き立てた。兄はよろめき、血を流しながら、地面に倒れ、ルシオの部下にとどめを刺された。
まだ夢を見ることを許された子供の頃、いつか自分にも、運命の人が現れるのだと思っていた。
運命の人は、ルシオにも確かに現れた。その人のためなら死んでもいいと思えるほどの、激しい情を、抱いた。
それは異性ではなかったし、恋人でもなかった。ただの友人だ。友情の間に生じた思慕が、まさしくルシオの運命だった。
ディマを知らないままだったら、ルシオの人生は暗黒のままだっただろう。そんな人生、無価値だとルシオは思った。
(きっと人間は、死の淵で、ようやく天命を悟るに違いない)
ルシオは治癒魔法を、自らの体にかけながら、馬を、ともかくこの場から動かそうと考え、手綱を握った。馬の向きをこの場とは、反対にした時だ。動きを止めた。
「……ここが俺の死か」
――アリア・ルトゥムが立っていた。
その顔は憎悪に歪み、殺気がみなぎる。
「ルシオ・フォルセティ! あなたはいつも、余計なことばかりする……!」
彼女は魔法陣を使わない。ルシオの魔力が、彼女に及ぶはずがなかった。
治癒魔法など無駄だったと瞬時に悟るほどの、膨大な質量を持った攻撃魔法が、放たれたことも気付かぬうちに、ルシオの腹に大きな穴を空けた。
これが自分の最期なら、随分呆気のない死だと、ルシオは思った。
いつか聞いた話が蘇る。あれはまだ争いが起こる前のヘルだ。到着した、その日だったか――。
(クロード・ヴァリは言っていた。誰も生き方と生まれを選べないのだと。だがそれは間違っていたのだと思う。生まれは確かに選べない。でも生き方なんて、無限に選び取ることができる)
ルシオの中に、後悔はなかった。代わりに満ち足りた幸福があった。
(そうでないなら、なあディマ、俺は。よほどの幸運に恵まれたということだ)
遂に体勢を保っていられず、ルシオの体は馬から滑り落ちた。しかし体が地面に叩きつけられる寸前で、ルシオは柔らかく受け止められた。
「ルシオ!!」
ありえない再会のはずだった。二度と会えないと思い、文字通り決死の覚悟で父に歯向かった。その思いを、ディミトリオスはついぞ知らないまま終わるのだと、そう思っていた。
だが目の前にはディミトリオスがいて、ルシオの体を抱えていた。熱いほどの体温が、ルシオを包んでいた。
ディマの瞳は、迷子の子供のように揺れている。彼の頬には、涙が伝う。
(なんて面だ。そんな情けない顔で、本当に帝国を背負って立てるのか?)
ルシオはディマに手を伸ばそうとしたが、体が動かないことに気が付いた。苦笑しようとしたが、それさえもままならなかった。にも関わらず、目だけはディマを、映すことを止めなかった。
(髪を切ったのか。イリスに切ってもらったのか――? よく似合ってる)
そう言おうとしたが、思考はすでに言葉にはならなかった。
なぜここに、ディマがいるのか、どうやって来たのか、ルシオには分からない。分からないが、ただただ、嬉しかった。
(勝てよ、ディマ。俺と親父と、ついでに兄貴の死を、無駄にするな。そうじゃなきゃ、俺は単なる最低の裏切りを働いた卑怯者だ)
――希望を捨てるな。お前ならできるさ。
そう口に出して言ったつもりだったが、声になったかは、もう確かめようが無かった。
(きっと地獄で、親父にコテンパンに怒られるんだろうな)
絶命の寸前、ルシオはそんなことを考えて、微かに口から笑みが漏れた。




