赤毛の馬の、素直じゃない方
アグスフェロ・ヘイブンが教皇に選出されたのは、それからすぐのことだった。
前の教皇は高齢に加え、スタンダリア王国のネルド=カスタ聖密卿による騒ぎについての一件が落ち着きを見せたことによる勇退だというのが大方の見方だ。
「まずいわね」とミアは言う。
「ヘイブン家はリオンテール家に近い家だわ。ヘイブンがローザリアの聖密卿になれたのも、リオンテール家の後押しがあったからよ。二つの家は繋がっている。
その彼が教皇になったのだから、アリア・ルトゥムが聖女だと言うでしょう。その正誤に関わらず――」
ミアの危惧は尤もだ。
小説ではアリアが聖女であるとヘイブン教皇は言っていたし、わたしも違和感は抱かなかった。でもこの世界に来て分かる。一度聖女をイリスと認めた彼らが、それを取り消すということは、それなりの覚悟や理由があったはずだ。
聖職者といえど国民の一人だ。
アグスフェロ・ヘイブンは、リオンテール家の後ろ盾を失うわけにはいかなかったのだろう。だから、彼は、小説の中で聖女をアリアと言ったのかもしれない。
きっと同じことが起こるはずだと、わたしたちは身構えていた。……けれど、しかしヘイブンは何も言わなかった。
彼が世界中の信仰の頂点に立って、一週間、二週間と、時間ばかりが過ぎていく。
肩透かしを食らったわたしは、ある日の夜、ディマにそのことを話した。夕食を食べた後、二人で彼の部屋にいた時だ。
ソファーに座り、義手を外し、手入れをしていた彼はこう言った。
「ヘイブンは、小説の中の彼とは考えが異なるのかもしれない。イリスと近い場所にいたから、絆されたのかもな」
向かいに椅子を引っ張って来て座っていたわたしは、首を横に振る。
「そう楽観的にはなれないわ。時間の問題なのかもしれない。事実、小説でアリアが聖女になって、イリスが処刑されたのは十七歳の時だったもの。時間が経てば、聖女はアリアとされるはずよ」
「どうかな。ヘイブンは一度、僕の命を救ってくれたこともある。覚えているか、アリアとライラを送っていった帰り、僕は襲われただろう。その時、襲撃者を殺したのはヘイブンだった。偶然通りかかったのかもしれないし、僕をその前から見ていたのかもしれない。少なくとも敵とは思わなかった。全面的な味方とも感じなかったけど」
「え? どうして今まで言わなかったの」
ディマはちらりとわたしを見た。
「問いただす前に、彼はエンデ国へ戻ってしまったから、いたずらにイリスを不安にさせたくなかったんだよ」
「その時、彼は何か言っていた?」
「特別なことは何も」
「ねえディマ。他に隠していることはないでしょうね? 不安なことはなんだって話してよ。わたしだってあなたが不安なの、嫌だもの」
「……ないよ、何も」
ディマは再び、義手に視線を落とした。片手では手入れが難しいのか、細部の汚れが落ちていない。
「貸して、手伝うわ」
手を伸ばしかけたところで、ディマが先に魔法陣を出して義手を綺麗に掃除した。どうやらただ手を動かしていたかっただけらしい。
わたしの視線を躱わすように、ディマは言った。
「いずれにせよ、ヘイブンが何も言わないうちに、この反乱をちゃっちゃっと終わらせてしまおう」
まるで家事を終わらせるだけのような口調だ。
「聖女がイリスのままなら、僕らにとって好都合ではあるだろう。人が集まってくるぞ。
それに、教皇庁が認めようとも認めざるとも、今、聖女の力を持っているのはアリアだ。だから実際、聖女はアリアだ」
ディマが笑ったことに気が付いた。
どうしてディマは、アリアが聖女の力を持っていると嬉しいのだろう。
わたしの思いに気が付いたのか、ディマは視線を合わせた。
「僕はもう二度と、イリスが血を吐いて倒れる姿を見たくないだけだ」
それから、こうも言った。
「なあイリス。髪の毛を切ってくれないか。宮廷で人目を引くために伸ばしていたんだけど、もう、必要ないからさ」
ディマの長い髪に触れた。この、つやつやの髪を切ってしまうのはもったいない気がするけれど、本人がそう言うなら仕方ない。
「うん、いいよ――」
頷いた瞬間だった。部屋の扉が、勢いよく開かれる。
「ディマ! ヘイブン法皇からローザリアへ言葉があったぞ!」
それはお父様で、ひどく興奮したようだった。慌ててディマから手を離すわたしを見て、頭をかいている。
「おっと邪魔したか」
「いいえ、至極真面目な話をしていましたから」
一々律儀なディマは、そう言って立ち上がる。
「それよりも彼はなんて?」
「ただ、一言だけだ。――“国の諍いには不介入とする”……だとさ」
「本当! じゃあ教皇庁は、わたしをまだ聖女としているの?」
わたしも立ち上がった。
どうやらそのようだと、お父様は言う。と、お父様の背後から、強い口調が聞こえてきた。
「どんな目的があってのことかは分からんぞ。ヘイブンという男は信用ならない人間だ。貴様がクロード・ヴァリに宛てた手紙を、あの男がこの私に渡したのだ。司祭宛ての手紙を見る権限は、聖密卿にはあるからな」
「え――?」
わたしとディマが驚愕したのは、したのは――。
「なんであんたがここにいるんだ! エルアリンド‼︎」
エルアリンド・テミスが、お父様の背後に立っていたからだ。
「ディマ、よせ、よせ! 攻撃魔法を出すんじゃない!」
空中に出現した魔法陣を見たお父様が慌ててディマを諌める。けれどディマは敵意を隠そうとしなかった。
「なぜこの男がいるんです。分かるように説明してください」
「では間抜けどもにも分かるように説明してやろう。私の能力を見込んだミア・クリステル直々に、この屋敷に招待されたのだ。通商連合の窓口役としてな」
そう言って、エルアリンドは手に持っていたグラスを飲み干し、床に放り投げた。強烈な蒸留酒の匂いがする。
「通商連合? 商人達の自治団体の?」
ローザリアの民間組織で、最も巨大なものだ。主には貿易商たちの集まりで、自衛のために武装しており、一部は海賊と呼ばれている。
お父様は頷いた。
「城を追放された後、エルアリンドがどこにいたと思う? 持てるだけの資金を持って、海沿いへと逃げて、商売を始めたんだ。それで、通商連合の一員になった。一部の貴族にはまだ顔も効くしな。転んでもただじゃ起きないテミス家の血のなせる業だ」
今になって、ミアの言っていた赤毛の馬の意味を悟る。でもまさかエルアリンドを匿っていたなんて思わなかった。
「ミア様はテミス家がお好みのようだな、五人も集まってしまったよ」
「ふん。それも落ちぶれかけの方のテミス家をな」
状況を飲み込めず唖然とするわたしたちをよそに、愉快そうにお父様は笑い、エルアリンドの背を思い切り叩く。衝撃で酔いが回ったのか、エルアリンドは廊下に嘔吐した。
「海賊と手を組むつもりはありません」
ディマは嫌悪感を露わにした。体を起こしたエルアリンドが鼻で笑う。
「勘違いをするなよ、小僧。誰が手を組んでやると言った?」
「違うの?」
わたしの問いに、エルアリンドは目を細める。
「交渉だ、お嬢さん。ただで手を貸すつもりはない。
我々通商連合に利があれば力を貸す。海の荒くれどもはそれはよい兵になるだろう。資金も豊富だ。自由貿易の承認と関税の撤廃が、我々の求めることだ。さあ、当然認めてくれるだろう? ディミトリオス皇帝陛下?」




