日々は過ぎていく
その日から、穏やかに、ディミトリオスはテミス家に溶け込んでいった。
彼とわたしは一日のほとんどの時間を一緒に過ごすようになった。
はじめの頃こそ、大人の前で子供ぶるわたしのことを、まるで珍獣でも見るかのような目つきで見ていたディミトリオスだけど、次第にこの妹はこういうものだと、諦めの境地に達したらしい。
今では開き直って、わたしよりも要領よく、大人の信頼を勝ち取っていた。
両親に子供らしく甘えて欲しい物をもらい、お腹が空けば使用人達からお菓子をもらう。結果、すこしだけずる賢い子になってしまったのはわたしのせいだろう。だけど許容範囲でしょう、多少の打算は、生きていく上で必要だもの。
閉じこもりがちな彼を誘い、太陽の光を浴びさせるため敷地の庭で遊んだし、雨の日には絵本だって読み聞かせた。時々、ふいに彼の瞳が虚になることがあった。その度に、わたしの胸は、なぜだか無性に締め付けられる。だから、笑いかけ、話しかけ、必要があればお菓子をこっそり与えたりもした。
彼がテミス家に馴染むことができた一端は、このわたしが担ったと言っても、誰も文句はないだろう。徐々に彼は、笑みを浮かべることも多くなっていった。
だからわたしたちは、仲の良い兄妹になれたのだと思う。
彼の呼び方も、両親がそう呼ぶように、ディミトリオスからディマに変わっていた。小説の中のイリスも、親愛を込める際には兄をそう呼んでいたように。
ディミトリオスは賢い兄だった。子供の可愛らしさもあった。しかも演技のわたしとは違って、純粋に、彼の生来のものとしてそうなのだ。だから今のところ、みんなに好かれたし、悪役の片鱗さえ感じられない。小説では長かった黒髪も、短いままだ。
そんな生活の中でも、情報を得るために図書室へ通うことは止めなかった。多くはディミトリオスも一緒だった。
図書室なんてつまんないでしょ、付き合わなくていいと言ったこともあったけど、
「イリスはぼくに家族を守って欲しいんでしょう? だったらぼくも、たくさんのことを知っておかなくちゃ。だから勉強するんだよ」
と真剣な顔で言われては、それ以上断れなかった。
そんないつもの日のことだった。
図書室で、カモフラージュのために連れてこられた、ねこのぬいぐるみミーシャはディマが抱えていて、わたしは相変わらず歴史書と魔導書を読む。
歴史書の七巻目を読み終わりぱたりと閉じたとき、ディマが内容が分かっているのか分からないけど、いつも読んでいる魔導書から顔を上げた。
「どこまで読んだの? ロゼ=グラスの戦いは終わった?」
「……読んだことあるの?」
その戦の名はたった今読み終わった巻に出てきていたところだ。
わたしは間抜けな顔をしていたことだろう。必死に読んでいた本の内容を、五歳児に言い当てられたのだから。
「前の――家にあったから」
前のお母さまが持っていたとはディマは言わなかった。彼はミランダが母になってから、前の母親のことを決して口にしない。
「ぜんぶ読んだよ。なんかいも読んだから、だいたい覚えちゃった」
「まさか」疑ってしまうのは仕方ないでしょ?
「ほんとだよ」
「じゃあ、フォーマルハウト皇帝家の歴代皇帝を、現代から順に遡って答えてみてよ」
巻末に掲載された家系図を開きながら言うと、ディマは頷いた。
「フォーマルハウトはもう五百年続く皇帝家で、現皇帝はオーランド、今は六歳。
一代前はリオン。だけど即位してすぐに病気で死んじゃったから、赤ん坊のオーランドが継ぐことになったんだ。リオンの妻は生きていて、今は上皇后になっている」
それはまだ歴史書に書かれていない部分だけど、合っている。
「その前は――リオンの兄セオドア。在位期間は長くて、六歳から四十二年間だ。そのときにローザリアは他国を併合して帝国になったから、実質皇帝はセオドアからってことになる。
四十八歳まで生きたけど、やっぱり病死で死んじゃった。子供を持たなかったと言われている」
実際にそうだ。だから弟が跡を継いだ。
「その前はセオドアの父リーヴァイ。二十六歳で死んでいる。戦死だ。
その前はリーヴァイの父、名前はやっぱりセオドア、八十七歳で亡くなっている。その前は……」
それからも、彼の口からは歴代皇帝の名がすらすらと出てくる。皇帝家の家系図を遡り、わたしも名前を追った。全て合ってる。途中で止めなかったら、原始人まで遡りそうな勢いだった。
「ディマって、もしかして天才なの?」
「ふつうだよ、ぼく」
ほんの少し頬を染めて彼は言う。
「その魔導書も、もしかすると意味が分かって読んでるの?」
「当たり前だよ。じゃなきゃ、読んでる意味ないじゃない」
真面目な顔して返される。
それはそうなんだけど……。だけど大人が読む本だ。あなた、五歳児でしょう?
わたしの疑念を感じたのか、「見ててよ!」と言うとディマはその両手に魔法陣を出現させる。本に書かれていた通りの魔法だ。
魔法陣を出すには理論を理解し、練習を積む必要がある。わたしも隠れて練習しているけど、ディマもそうだったんだろうか。
だけど精神は大人のわたしと、心からの子供の彼だ。力量の差はあってもいいと思うけど、彼が出現させたその魔法陣は完璧だった。
「ちょっと離れて!」
言われたとおり離れると、魔力が込められた。薄暗い図書室に、一瞬の閃光があり、眩しさに思わず目を閉じた。
間を置かず、風がふわりと吹いて、いい香りに包まれる。
「はい!」
得意げな声とともに、目の前に差し出されたのは、青い小花の花束だった。
「うわあ! すごい! きれい!」
本心だった。わたしの反応を見て、嬉しそうにディマは言う。
「庭で咲いていた花だよ。イリスにあげる」
確かに綺麗だ。くれるなんて嬉しい。
だけどどうやって手に入れたの?
「瞬間移動、したの?」
花を受け取れないまま、困惑するわたしに、ディマは花の一本を抜き取りわたしの髪に差し込むと、満足そうにさらに笑う。
瞬間移動っていうのは、よほど魔力の高い者にしかできないのだ。わたしも怖くてまだ試していなかった。
「瞬間移動とは、ちょっとちがう。図書室と庭の空間をつないだんだ。空間をつなぐだけなら、多くの魔法使いができると思うよ、イリスにだってできるよ……なんで隠してるのか分からないけど、ぼくよりずっと魔力が高いんだから。お母さまは、もしかしたら無理かもしれないけど。
まだ、短い距離で、少しの時間で、すぐ近くのものしか取れないけどさ、いつかもっと長い距離、できるようにしてみせるよ」
魔導書を覗くと、それでもランクは上級水準の魔法だった。空間を繋ぐ穴が塞がれたら、その瞬間に穴の上を通っていたものは、双方の空間に取り残されるらしい。つまり一歩間違えていたら、ディマの片手の先は庭に落ちていたかもしれないのだ。
わたしにはできないと思う。
少なくとも、今すぐには。
それもこんなに、ぱっと読んだだけでは。
やっぱりディマは、天才なのかもしれない。
それから二人の遊びに、魔法の訓練も加わることになって、両親の知らない場所で、わたしたちの魔術は成長していった。




