恋をしているだけでしょう
イリス・テミス
声明文はオーランドが皇帝家の血を引いていないことを指摘していて、その文面は、当然オーランドの目にも触れたはずだ。
これは宣戦布告だった。
ミア・クリステルの手が大いに入った声明文であるとは言え、ディマはオーランドに、正面切って喧嘩を売ったのだ。
諸外国からディマ宛ての手紙は後を絶たず、皆が、この状況をどう利用するか、考えを巡らせているようだった。
この数週間、フォーマルハウト家もリオンテール家も無反応だった。神託がイリスからアリアへと変わるのを、待っているのかもしれない。
しかし肝心の教皇庁もまた、未だ沈黙を貫いていた。だから現時点で、公には聖女はわたしのままだ。
けれど、小説の通りなら、教皇となったアグスフェロ・ヘイブンがアリアが聖女だと預言を授けるはずだ。だから時間の問題なのだと思う。裏付けるように、わたしの魔力は、完全に失せていた。
イリス・テミスが正式に聖女じゃなくなれば、今はわたし達に味方するつもりでいる人たちも、離れていくかもしれない。
窮地には違いない。だけど、わたしの心は穏やかだった。
朝食の後、クリステル家の屋敷の屋上から、広大な庭を見下ろしていた。
庭の一角、青い芝生の上に、ディマとお父様が、剣の手合わせをしている姿があった。
側では一人の男性が見守っている。あれがカイル・ナツィオーネだ。白髪頭で、皺も多いけれど、その体躯は大きく、ミアが嫁いでからずっと、クリステル家の私兵達を束ねている人だった。
ディマの左手には、魔法陣が彫り込まれた義手が取り付けられている。体に流れる魔力を利用し、動かすのだ。
義手を試す意味合いも込めて、二人は手合わせしているらしかった。と、ディマが剣を取り落とす。
「義手はもう少し調整が必要だけれど、ディミトリオスの体に巡る魔力は高いですから、いずれは元の体と遜色なく馴染むでしょう」
いつの間にかミアが隣に出てきて、わたしにそう話しかけてきた。
ディマに再び視線を戻す。彼の左腕が、ぎこちなく剣を拾い上げようとした。
「……わたし、ディマの手が無いのが嬉しいんです」
ミアの目が薄くわたしを窺う。
「彼が、わたしを守ってくれた、証のように思うから。ディマが傷口を見る度に、わたしを思い出すんだと考えたら、わたし、とても満たされたような気分になるんです。彼が、わたしのことをもっともっと考えればいいのに。わたしで心が満たされたらいいのに――」
「あなたは案外、わたくしに似ているかもしれませんね。でもねイリス。これ以上あなたのことを考えたら、彼はきっと死んでしまうわ」
傍らの彼女を見上げると、いつになく優しく微笑んでいた。反逆と混沌の道を突き進む彼女なのに、慈悲深い笑みのように思えた。
「ディマとあなたの娘を結婚させると聞いて、わたし、あなたを殺してしまうかと思いました」
腰高の塀を両手で握りしめた。あの時、ミアの娘の一人をディマが選ぶと考えただけで、自分の中に激しく燃えた炎に、まだ戸惑っている。
「わたし、子供の頃、考えていたんです。ディミトリオスのいない世界でなら、イリスは幸せになれるだろうって」
言ってから、小さな笑みが漏れた。どうしてそんな風に考えられたのか、今では少しも分からない。
「彼のいない世界で、わたし、どうやって生きていくつもりだったんだろう。彼がいない世界で、幸せになんてなれるはずないのに。
彼を誰にも渡したくありません。彼はわたしだけの人ですから。ねえミア様、こんな感情、おかしいんでしょうか? わたし、頭がおかしくなってしまったの?」
ディマとお父様が、再び剣を合わせ始めた。ディマの左の義手の動きは、まだ固い。
「オーランド様が、わたし達を殺せと言わなければ――。領地に戻って、誰にも邪魔されず生きるはずだったのに。本当だったら、ここまで大きな話にならなかったはずなんです」
ミアは黙って聞いている。
オーランドがわたしに向ける憎悪は、小説よりも遥かに強い。決別も、七年ではなく五年だった。
「彼は優しかったんです。わたしが思っていたよりも遥かに。絆があったと思っていました。迷わず殺せと言われるとは、思いもしませんでした」
庭では、再びディマが剣を落とす。見かねたらしいカイルがディマに寄り、剣の指南をし始めた。
わたしの真剣な告白を、ミアはくっくと笑い飛ばす。
「あなたって、本当に可愛らしいお嬢さんね? 世間知らずとも言うのかしら。あまり人を知らないのね。
可愛さ余って憎さ百倍というでしょう? オーランドはあなたが思っていたよりも遥かに、あなたを愛し、信頼していたということよ。転じて憎むほどに、深く愛したというだけね」
困惑のまま、わたしは答えた。
「わたしが聖女であるから、彼は優しいだけだと思っていました」
ミアの見事な金髪が、風になびく。結われていない髪を手で抑えながら、彼女は言った。
「だとしたら、あまりに人の心の機微に疎いわね。人間の感情は、あなたが思うより、もうちょっと複雑なのよ。
オーランドは冷徹無慈悲な皇帝であり、弱く孤独で繊細な、一人の少年だったというだけの話よ。そうして聖女としてあなたを利用しようと思いつつ、同時にあなたという少女を愛したのでしょう。人は多面的なものよ。あなたはまだ勉強中ということかしら」
オーランドのことを考えた。
彼の態度の豹変は、彼を傷つけた裏返しということなのだろうか。でも、わたしが彼の血筋の話をしたのは、彼が先に殺すと言ってきたからだ。
そう考えて、思った。
もし――。もし、あの闇の魔術避けのピアスが機能していなかったとしたら。彼はアリアに心を操られ、自分でも意図していないことまで口走ったということはあり得る? でも、闇の魔術といえども万能ではない。そこまで洗脳めいた技は使えない。彼自身が思っていないことは、表出しない。
操られていた兵士たちは魔法の紋が現れていたけれど、オーランドにそれはなかった。けれどそれでも、思っていたとしても表には出すまいと決めていた制御が外れたということは、あり得るかもしれない。
「……それでもわたしは、オーランド様と共に生きることはできませんでした」
「そうでしょうね」
ミアはまた愉快そうに笑った。
庭にお母様も出てきて、三人に話しかけている。何か冗談を言ったのか、皆が笑った声がした。
「ミア様。あなたには、感謝しています。わたし達家族を、こうして受け入れてくれていることをです」
言うと、ミアはわたしの頬に触れた。
「感謝など、してはだめよイリス。前に言ったでしょう? 見返りならあるの。ディミトリオスを皇帝にして、オーランドとルカ・リオンテールを奈落の底へと突き落とすことよ。わたくしにとって、これは私的な復讐ですから」
「復讐?」
初めて聞く話だった。問うと、ミアは頷いて、遠くを見るように目を細めた。
「ええ、些細なことですけれど。わたくし、ほんの子供の頃、大型犬を飼っていましたの。わたくしが彼女のところに行くと、いつも大喜びで飛びついて来て。親友だったのですよ。けれど弟達は狩りの練習と称して彼女を殺してしまいました。わたくしは報復に、弟達の背をそれぞれ二度ずつ刺しました。彼女は四本の矢で射られていましたから。父は激昂し、わたくしを処刑するとまで言いました。
今になって後悔するのは、なぜ首を狙わなかったのかということです。首を刺していれば、父がどう怒り狂ったところで、咲いている花はわたくしだけ。王は今頃、わたくしだったのに。
……機会はそうそう巡ってはきません。弟を殺せなかったわたくしは、王位争奪戦に参戦するのに、こうして何十年も待たなくてはならなくなりました。
わたくしは、どうしてもこの国に、わたくしの価値を認めさせてやらなくてはならない。わたくしが擁立するディミトリオスを皇帝の座に付かせた時、ようやく復讐は完了するのです」
「勝てる見込みはありますか」
「弱気ね? あなたが戦いに負けたことはないでしょう」
それはわたしが膨大な魔力を操れたからだ。今は、状況が異なる。
「オーランド様とファブリシオ様は、わたしの戦い方を間近で見ていました。アリア・ルトゥムも同じ方法で来るのなら、厳しい戦いになります。後に引くつもりは毛頭ありませんけれど、味方をもっと増やさなくてはなりません。皇帝家の兵士達の数の方が、断然多いのですから」
ミアは余裕とでも言いたげに、にっこりと笑った。
「もちろん。手段を選んではいられない。そのことにかけて、わたくしほど上手な人はいないわ。陰謀と策略こそ、わたくしの大好きなことですからね。皇帝家を恨み、皇帝家からも恨まれているのに、立ち回りが上手で、今も生きているでしょう?」
庭の四人が、屋敷の中に入ってくるのが見えた。休憩にでもするらしい。
ミアも呼応するように、わたしの隣を離れた。
「わたくしも中へ戻ります。義手職人と共にディミトリオスの腕の調子を見てやらなくては。あなたは?」
「わたしはもう少し外にいます」
そう、とミアは言い、去っていく。
けれど屋内へ続く扉に手をかける直前で、わたしを振り返った。
「イリス、あなたがおかしいとは少しも思わないわ。――単に、恋をしているというだけでしょう」
なんのことかと思ったけれど、先ほどのわたしの問いに対する答えなのだと気がついた。
ディミトリオス・フォーマルハウトの名前で出された声明文は、ローザリア帝国のみならず、列強諸国に衝撃を与えた。
彼は自身の身こそ皇帝家の血を引いているとした上で、信仰の自由を認めるとしたのだ。
つまり、聖女派も、創造主派も、自分の信仰を貫ける国を作ると宣言した。
他の人間がそんなことを言えば、聖女派から、反感を買うどころの騒ぎではないだろう。命だって狙われかねない。けれどディマの置かれた立場の特殊性から、そうはならなかった。
何せ彼は聖女の兄として育ったのだ。誰よりも聖女を信頼し、愛していることは、帝国中が知っていた。
おまけに、彼は対外的にもこう言った。
“聖女イリスが成人を迎えたら、妻にする”
だから聖女派も、彼を受け入れる土台があった。これは偶然の産物ではない。ディマとミアは、何度も話し合いを持ち、確実な予測を立て、あらゆるものを利用して、国中を巻き込もうとしていた。
この争いを、帝国民一人一人の問題に落とし込んでしまった。
ディマの言葉に勇気づけられた、隠れ住んでいた創造主派は、続々とクリステル家の領地に集まり始めた。追い風だった。
この状況を、オーランドがどう思っているのか、わたし達は知る由もない。




