新たな戦い
ディミトリオス・テミス
額に、冷たい手のひらを感じ、ディマは目を開けた。
柔らかな声が耳に届く。
「起きた?」
体を起こすと、手に濡れたタオルを持ったイリスが、こちらを見て微笑んでいた。
周囲を見る。カーテンは開かれ、朝の日差しが入っていた。大きなベッドの上に、ディマはいた。クリステル家の屋敷の一室のようだ。
「どのくらい寝てた?」
「一日と一晩」
「お父様とお母様は」
「無事よ、再会してから、ずっと二人で話しているわ」
彼女は答えた。
「覚えてる? お風呂から出たら、ディマ、熱を出して倒れてしまったのよ。今までずっと、耐えてくれていたんだわ。それから、ひたすらに眠っていたの。もう熱は下がったから大丈夫だって、お医者様は言っていたけど――」
彼女の視線が、失われた左腕を彷徨い、再び顔に戻る。
「何かして欲しいこと、ある?」
イリスの体を引き寄せて、顔を見つめた。簡素な白い服に、彼女は着替えていた。それが陽の光に当たり、まるで彼女そのものを輝かせているように、ディマは感じた。
「キスがしたい」
言うと、少しだけ彼女は笑う。
「冗談」
「冗談じゃないよ」
その頬に触れる。
「目が覚めて、イリスが隣にいたら、どれほど幸せだろうって、いつも思っていた。空想とは少し違うけど、これはこれでいい気分だ」
彼女の体を片腕で抱きしめて、白い首筋に唇を這わせた。
そのまま、唇にもキスをしようとした間際だ。開いていた部屋の扉から、声が飛んできた。
「心配していたけれど、そんなに元気なら大丈夫ね?」
見るとミア・クリステルがこちらを見据えている。
「可愛い聖女ちゃん。大好きなお兄ちゃんが起きて良かったわね? けれど彼に話があるの。続きは後にしてちょうだい」
イリスの頬に赤みが差し、彼女はぱっと、ディマから離れた。ミアは部屋の中に堂々と入ってくると、ディマがいるベッドの端に腰掛け、親しげに笑いかけてきた。
「ディミトリオス。あなたの瞳はとても美しいわ。わたくし達三人姉弟の中で、セオドアが最も黄金色の瞳を色濃く受け継いでいた。あなたの目は、弟の目、そのものだわ」
複雑な心境だ。父親譲りの目の色を、母は憎んでいた。だが今、この目によって救われている。
ミアは続ける。
「約束を果たしてもらいにきたわ。わたくしがルカにあなたの正体を伝え、その上、アレン・テミスを匿ってあげたお礼を、当然、忘れてはいないでしょうね」
「あなたの命令を、二つ、聞くと」
忘れてはいなかった。
自分の血統を皇帝側に、とりわけルカ・リオンテールに気付かせることが重要なのだとディマは考えていた。おそらくはイリスの言う小説の中のディミトリオスも、同じようなことをしたのではないか。ディミトリオスが皇帝家の血を引いているという事実を隠蔽するために、ルカはアリアを真の聖女として連れてきた。
これは未だに証拠を掴めていないが、彼がネルド=カスタから盗んだ、聖女を作るという方法を、アリアに適応させたのだろう。
だが小説の中だと、ネルド=カスタは存命している。その上で、アリアが現れたという点にも、注意を払って置かないとならない。ネルド=カスタとルカに親交があったか、まだ見えていない何かがあるかだ。
彼らの動きを加速させるために、ディマは、獄中の当主の見舞いに帝都を訪れたミアに近づいた。ミアは、ディマへの協力を約束した。
そのような状況の中で、植民地の戦いが勃発した。ディマの頭に浮かんだのは、アレン・テミスの身柄の安全の確保だった。ミアは自らの忠臣、カイル・ナツィオーネを戦場へ派遣し、アレンを保護した。
二つの協力の見返りは、ミアの下す二つの命令に従うということだった。
ディマが頷くと、ミアは満足そうに目を細めた。狡猾な豹のようだと、ディマは思う。
「さて、愛おしい甥っ子。一つ目の命令よ。あなたが皇帝になりなさい、黒薔薇を背負って立つのよ」
「だめよ!」
必死なイリスの声に、ミアは大きく笑った。
「イリス、これはお願いじゃないの。あなたの兄に、命令しているのよ」
「オーランド様の血筋の無効はわたし達が証言する。戦いになったら、当然協力するわ。けれど帝位はあなたが継げばいい。ディマはわたしと故郷で暮らすの」
イリスはなおも言うが、ミアは首を横に振る。
「約束を反故にするつもり? わたくしは一度、反乱に失敗しておりますもの。悔しいけれど、わたくしの人望は、オーランドを打ち砕くには足らなかったの。わたくしも子供も女ですしね。女の持つ地位は未だに低いわ。聖女でもない限り」
ちらりと彼女はイリスに目を向け、再びディミトリオスに戻した。
「世界の果てで幸せを掴んで何になるの? 持って生まれた宿命からは、誰も逃れられない。ローザリアの現状を見てみなさい。大きな帝国ですが、聖女がいなくては戦いにさえ勝てない。これではこの先の百年、千年、どうするの。
中央政府は腐敗しています。皇帝の影響力が落ちているのです。賄賂が横行し、金を積んだ者から出世していく。皇帝家の血を引く者は帝位におらず、その上実権は、リオンテール家が握っています。これが正しい国ですか?
いずれ民は露頭に迷い、飢えを凌ぐため人を襲うようになる。彼らを率い、勇気づけ、夢を見させる人間が必要です。人を強烈に魅了し、惹きつけ離さないような強い者が」
ディマの脳裏に、大陸での出来事が蘇った。人を守るはずの兵士が民を襲う姿だ。
反吐が出る外道というものはいる――侮蔑を含んだクロードの声が、今も思い出せる。
あれが、このローザリア本土でもいずれ起こるとミアは言うのだ。だから指導者が必要だと。
「僕がそうだと言いたいのですか」
「ヘルでのあなたの姿はそうだったと、タイラー・ガンは言っていたわ。それに、あなたの存在はすぐに国中が知ることになる。皆があなたに希望を見る。望もうとも、望まざるとも、生き方は、決まってしまうものよ」
ミアはディマに覆いかぶさるように、ベッドに身を乗り出した。
「正しい血筋の者が、ローザリアを正しく戻してやらなくては。リオンテール家に支配された国では、誰も呼吸さえままならない」
「……考えさせてください」
いいでしょう、とミアは引き下がった。ディマの答えは一つしかないと、知っているのだ。
「二つ目を言うわ。あなた、わたくしの娘と結婚なさい」
「はあ? 嫌ですよ!」
皇帝になれと言われた時より早く反応した。側で固まっているイリスを引き寄せると、右腕に抱く。
「僕はこの子と結婚の約束をしているんだ!」
しかしミアは余裕の表情で言う。
「わたくしの娘と結婚し、間に子供を設けてくれるなら、あなたがイリスと事実上の結婚をしても構わないわ。どうぞ好きなだけ、愛し合いなさい。
わたくしの娘達には、その黄金の瞳は受け継がれなかった。わたくしは、その目が欲しいのです」
とんでもない暴論に、反論をする間もなく、ミアは扉の外に呼びかけた。
「レジーナ、シンディ、パトリシア。三人とも、入ってらっしゃい」
すると綺麗なドレスを着込み、髪も飾り付けられた美しい娘たちが部屋の中に入ってくる。しかしその表情はどこか不服そうだ。ミアは楽しそうに言う。
「好きな娘を選びなさい。レジーナは二十一、結婚をしていますが、あなたが望めば別れさせます。シンディは十七、あなたと同じ年で、気も合うでしょう。パトリシアは十歳。子供を作るには早いですが、姉妹の中で一番美しいわ」
イリスを抱える腕に力が入った。
「え、選べるわけないじゃないですか」
「美貌が気に食わないなら、あなたの魔法で娘の顔をイリスそっくりに変えてもいいわよ」
ディマは青ざめた。
「そういうことじゃありません! 僕は無理です。他のことならなんでも言うことを聞きます、でも、これは無理だ!」
言った瞬間だ。レジーナと紹介を受けた長女が、恐ろしい形相を浮かべ歩み寄ってきた。怒られるものかと思ったが、彼女の怒りは母親に向いた。
「お母様、もうよして! 彼、とても困っているわ。わたし達だって困るわ! わたしには夫がいるし、シンディにも恋人がいる。パトリシアにいたっては、まだ子供なのよ!」
「おだまりなさい。これは色恋ではないのよ、政治です。あなた達だって、さっきまであれほど乗り気だったじゃないの」
ミアが娘を睨むが、彼女は少しも怯まなかった。
「シンディ、パトリシア! お母様をこの部屋から連れ出すのよ!」
分かったわ! と彼女の妹たちは明るく返事をし、ミアを力付くで部屋の外へと連れ出していく。
はあ、とレジーナはため息を吐くと、ディマとイリスに向き直り、苦笑いを浮かべた。
「あなた達、ごめんなさい。母は権力を前にすると、なりふり構わず欲しくなるのよ。それが彼女の強さなんだけど、納得していない人を無理矢理動かすのは違うわね」
「レジーナさん、ありがとうございます」
イリスの礼に、彼女は笑う。
「本当言うと、わたし達、ディミトリオスだったら結婚して子供を作ってもいいと思っていたわ。ディミトリオスは格好いいし、皇妃なんて、素晴らしい地位だし。でも二人を見て、とてもそういう雰囲気じゃないって分かったから、引き下がりましょうって、廊下で囁き合ったのよ」
じゃあね、とレジーナは去っていき、バタリと扉が閉められた後は、再びの静寂が訪れた。
まるで嵐のようだった。
イリスと顔を見合わせる。
体を密着させていたことに気付いたのか、彼女は少し、体を離した。
それからディマの、左腕があった場所の空気に触れる。
「腕、痛くない?」
「痛くないよ」
それは嘘だった。もう失ったはずにも関わらず、痛みは度々あったのだ。
イリスの視線が、悲しげに染まる。しかし彼女は何も言わずに、再びディマの顔を見た。
「本気で、皇帝になるの?」
「なるよ。僕らが生き残るためには、それしか道はない。味方を増やすには、僕の血を利用するのが一番良い」
言ってから、理由はそれだけではないことに気が付いた。
「ミアに言われたからじゃない。ずっと、考えていたんだ。もしかしたら、いずれ僕は、父親に向き合わなくてはならない時が来るんじゃないかって。自分の血筋に、従う時が、いつか訪れるんじゃないかって、思っていたんだ」
言ってから、納得した思いだった。心はずっと、自分の願望を知っていたように思う。
幼い頃のことを思い出す。生みの母は病んでいない時、度々ディマに語りかけた。
お前こそが皇帝になるのだと。何度も何度も繰り返し、暗い声でそう言われた。母の悲願を、思いがけず果たすのだ。
イリスは、小さく頷いた。
「そう。じゃあ、一緒に行く」
来るなと言うべきだ。
だがディマは、言えなかった。イリスが側を離れるなんてあり得ない。
暗く悍ましい戦いになるだろう。今まで友好を結んだ者たちと、戦うことになるかもしれない。
だが人としての信念や価値観なんてどうでもいい。イリスが生きて、笑っていてくれれば、それだけでいい。
「聖女シューメルナの生まれ変わりは、結局いなかったのね」
ぽつりと、イリスはそう言った。
アリアのことを言っているのだろう。それに、自分自身のことかもしれなかった。アリアが作られた聖女だということならば、イリスもまた、そうなのだろうか。
イリスは、微かに笑う。
「ねえディマ。シューメルナって、どういう意味か知ってる? シューム・エ・ルナ。輝く石っていう意味なんだって」
背筋が、冷えた思いだった。動揺を悟られないように、努めて普通の声色を出す。
「偶然だろ。シューメルナは人名さ、意味なんてない」
ディマの答えに、イリスはにこりと、微笑んだだけだった。
◇◆◇
速やかに、ディミトリオス・フォーマルハウトの名で、声明を出した。クリステル家領地を拠点とし、新政府を樹立する。
呼応するように、ローザリア帝国貴族は、二手に分かれた。
「意外な結果になったな」
報告を聞いたディマは、一人そう呟いた。
リオンテール家はもとより、ファブリシオ・フォルセティもオーランド側に付いた。ということはルシオもそうだ。
司祭たちは未だ沈黙を貫いている。教皇庁として、聖女は現時点で、イリス・テミスのままだった。故に、ディミトリオスを支持する者も多かった。
クリステル家やガモット家がその代表だった。
国を二分する戦いが、始まろうとしていた。




