ディミトリオスの影
アリアが使うのは、ウォーゴット公爵家の紋章の入った、ルカ・リオンテールの馬車だった。それだけで、あの男のアリアに対する寵愛が窺える。
ディマの正面には、ルトゥム家の仲睦まじい可憐な姉妹がいて、時折こちらに話しかけてくる。それに興味のあるふりをしながら、頭の中では別のことを考えていた。
(クロード先生なら、アリアが闇の魔術を使っているかどうか、分かるだろうか。聖女の魔力が、なぜ推移したのかも、教えてくれるだろうか)
彼と議論をしたかった。教皇庁では何かを掴んでいるだろうか。
だがもし、テミス家の兄妹に何かが起こっていると知ったら、あの彼ならば、連絡くらいはくれそうなものだ。だから未だ、司祭たちも知らないのだろう。
スタンダリアのジュリアン王の死後、まだ幼い彼の息子が王になったが、未だ国内の混乱は収まっていない。クロードはローザリア西部司祭長の任を解かれ、スタンダリアの副聖密卿として、教会組織を立て直すために尽力している。
恐ろしいまでの出世だが、小説にはなかったことだとイリスは言う。ジュリアン王の死も、クロードのスタンダリアでの職務も。
だとしたら、小説にはなかった事実を作り上げた、イリスによって引き起こされたものである可能性が高いが、なぜスタンダリア王の死がイリスに関連するのか分からない。
小説と現実は違う以上、単なる偶然と片付けるべきものか。
「――でしょう、ディミトリオス様」
しまったと思い顔を上げる。
考えに没頭しすぎて、話をまるで聞いていなかった。アリアが首を傾げる。
「……聞いておりますか?」
「ええ、もちろん。そうですね。それがいいと私も思います」
適当な相槌を打つと、アリアの顔は輝いた。
「本当ですか! 良かったわね、ライラ」
アリアの幼い妹は、暗がりでも分かるくらい、顔を真っ赤に染めて頷いた。話の方向が全く追えない。
「あの、なんのことでしょうか」
「やっぱり聞いていなかったんじゃないですか!」
アリアがクスクスと笑う。
「ライラがディミトリオス様がすごく格好いいって言うんです。お出かけしたいんですって。わたしも一緒に、三人で」
はは、と乾いた笑いが口を出た。
「でもぉ、ライラには釣り合わないよ……。だって、婚約の話がいくつか出てるって、聞いたもん」
「ええ、まあ……」
母親からでなくとも、婚約の話は腐るほど来ていた。出世の道を行くディマとの縁を作りたい人間は多いのだ。実に煩わしく、その全てを、ディマは断っていた。
「ですが私も、お二人のことをもっとよく知りたいと思っていますよ」
ライラはさらに顔を赤くするが、知りたいのはアリアのことだけだ。
「アリアさんのその魔法は、生まれつきのものですか?」
アリアは頷いた。
「はい、生まれてからずっとです。隠してきましたけど」
ならば、イリスが魔力を喪失したのは関連がないということだ。彼女の話を信じるとしたら、だが。
「立派な才能ですね。ルカ様は、今はイリスよりもあなたを信頼しています。彼だけじゃない、今や宮廷中があなたに夢中です。もちろん、私も」
付け足すと、アリアは微笑む。
「恐れ多いことです」
魅了の魔法などなくとも、相応に器量の良い娘だと、ディマは思った。
「アリアさん、あなたはとても不思議です。まるで突然現れたように思える。
実は私の母は散策が好きで、あなた方の家の近くも通ったことがあるそうですよ。でもルトゥム家があったという記憶はないそうです」
「見落としてしまったのでしょう。小さな家ですから」
「ええ、きっと、そうなのでしょう。今までなかったものがそこに出現するなんて、この世の理に反する魔法でも使わなくては、不可能でしょうから」
ディマの言葉に、アリアはやはり、微笑んだだけだった。
彼女らを家に送り届け、一人ディマは帰路に着いた。
仲の良い姉妹だった。アリアはライラと今日過ごし、侍女として明日にでも宮廷に上げるつもりらしい。
(アリアが聖女になって、テミス家が地方に戻り、二度と干渉しないと伝えれば、ルカは引き下がるだろうか)
このまま上手くいけばいいが、あのルカ・リオンテールが簡単に引き下がるだろうか。
(いずれにせよ、切り札はこちらにある。立ち塞がるというのなら、僕らもやり返すだけだ)
その時こそ血みどろの歴史は繰り返されるだろう。だが、それでもなお、譲れないものがある。
馬車で一人、そんな事を考え込んでいた時だ。
突然、馬車が止まった。
「どうしましたか」
御者に声をかけるが返事がない。異変を感じ外に出て、御者の姿が見えないことに気がついた。
(なんだ? どこへ行った)
外は闇、おまけに濃い霧が出ていた。
瞬間、風を切る鋭い気配を感じた。
反射的に広範囲に盾の魔法をかけると、ディマのすぐ先で、矢が魔法に当たり、折れる。
驚いた馬が、いななき逃げていく。
急ぎ、建物の陰に隠れる。しかしすぐさま攻撃魔法が追ってくる。防ぎきれなかった魔法が、肩に当たり、血が噴き出した。
(狙いは僕か! くそっ)
敵の数は見えないが、敵はこちらを視認している。既に囲まれ、近づいてきているはずだ。
ならば、隠れるのは無意味だ。ディマは守護の魔法陣で、周囲を固めた。橙色の火花が、闇を照らす。
「何者だ! 出てこい卑怯者どもめ!」
何故狙われなくてはならない。
静寂の街に、ディマの声だけが響いた。返事はない。だが確実に、接近してくるはずだ。遠距離で矢を放ったということは、それほど飛ぶ魔法を持っていないということだ。仕留めるなら確実な距離までやって来るはずだ。
予想通り、数人が霧に包まれながら姿を現した。
いずれも黒いローブを身につけ、姿は分からない。
「誰に雇われた。なぜ僕を狙う!」
やはり答えはない。その者たちは、両手に魔法陣を出現させた。攻撃魔法だ。それも、最大出力の。
彼らがディマを殺す気でいるのは確実だ。
「来るなら来い、殺してやる」
背中に冷たい汗が伝う。間髪入れず放った攻撃魔法は防御され、逆に殺意のこもった魔法が大量に放たれる。防ぎきれなかった攻撃が、自分の首元目掛けて飛んできた。
ギリギリで躱わす。刹那だった。
炎が爆発するかのような爆音が聞こえ、衝撃でディマは尻餅をつく。
(新手か!)
すぐさま体勢を立て直すが、倒れたのはむしろ敵の方だ。彼らの体が、見る間に燃え上がる。肉の焼ける匂いと断末魔を啞然と見ていると、カラカラと、車輪の音のようなものが聞こえた。
目を向けると、霧の中から、黒い塊が出現した。
防御の魔法をかけ、攻撃の魔法陣を構えるが、その黒い物体が近づくにつれ、困惑しながらも、警戒を緩めた。
黒い車椅子に乗った、黒い司祭服を着た、男だった。見覚えがある。
「ヘイブン聖密卿か……?」
まさしく彼はそうだった。基本、大聖堂から出ない彼が、どういう訳かこんな夜にここにいて、ディマを助けてくれたらしい。
ゆっくりと、ディマは彼の側まで行く。
「ありがとうございます。僕を助けてくださったのですね」
その言葉には返事をせずに、驚くことに彼は立ち上がり、ローブのフードをめくり、普段隠している顔を露わにした。
初めて、ディマは彼の顔を見る。
思わず、立ち止まってしまった。
火傷の痕か、顔は赤く爛れて引き攣り、人相など分からない。頭皮には、わずかに白い髪の毛が残されている。
白く濁った瞳が、やけに爛々と光っていた。
「新たな聖女が現れるように、自分の正体をルカ・リオンテールに気付かせたか」
初めて聞くヘイブンの声に、ディマは違和感を覚えた。どこかで聞いたような気がするが、誰の声か思い出せない。
彼の外見と凄みも相まって、ディマは言葉を紡げない。
ヘイブンはさらに続けた。
「ディミトリオス・テミス。貴様は余りにも浅はかで愚かだ。ルカ・リオンテールが何も手を打たないとでも思っていたのか?」
彼が喉を奇妙に鳴らす。それが笑いなのだということに、遅れて気がついた。しかし、ほとんど話したことのない相手に、愚か呼ばわりされる謂れはない。
やっとの思いで、ディマは答えた。
「イリスが、あなたは話せないと言っていたが、存外、きちんと発声ができるんですね」
しっかりとした自分の声を確認し、更に言った。
「助けていただいたことには感謝しますが、あなたは見当違いをしてらっしゃる。僕の正体だなんて、何を言っているのかわからない」
ヘイブンは嘲笑のように口の端を歪めた。まるでこちらの考えなど、全て知っているかのような笑みに、ディマには思えた。
「貴様の愚行を見ているぞ。今度こそ彼女が望みを叶えるその瞬間まで、せいぜい生き延びることだ――」
再び魔法陣が出現し、彼の姿を飲み込んだ。空間転移か瞬間移動か、後には無言の霧が残るのみだった。




