魔法、消え失せる
オーランドが襲撃された事件は、表沙汰にはならなかったものの、裏では大きな問題になった。
貴族たちの会議に、わたしは呼ばれなかったけれど、出席したディマの話では、なぜわたしが魔法で防がなかったのか、わたしが襲撃を指揮したからではないかとまで言われたらしい。
すぐにディマは反論して、意外にもオーランドもわたしを庇ってくれたようだ。
「イリス自身、死んでもおかしくない傷を受けながら戦おうとしていたのだ。あの場で私を守る機会さえなかった貴兄らに、言う筋合いはないだろう」
その静かな言葉以降、わたしを責めることは、誰も言わなかったという。
あの日、襲撃に参加したのは、非番や休暇で、訓練所にいなかった兵士たちだ。目覚めた時、誰も襲撃を覚えていなかったし、自分たちのしでかしたことに青ざめていた。彼らにかけられていた魔法は消え失せ、痕跡もない。
けれどオーランドも、兵士の目の奥に魔法陣を見たと言ったから、可哀想な兵士達は、罪に問われないだろう。
不可解なことはまだある。わたしの魔法は消え失せていた。
わたしから魔力がなくなった瞬間、兵士にかけていた守護魔法も強化魔法も、消えてしまったらしい。干ばつにあえぐ地方に降らせた雨も、嵐の多い海峡の凪も、終わってしまった。
だから、隠し通せるはずはなかった。上層部は、すぐに知る。わたしの魔力が消え去ったことを。
わたしの補填は、アリアが行った。わたしは表向きは聖女のまま、同じような生活を続けていたけれど、実際に魔力を行使するのはアリアだ。
アリアは、ルカや他の貴族たちに、重宝されるようになっていた。
時々、わずがながら魔法が手元に戻ることがあった。けれどそれはあまりに微弱すぎて、役には立たないし、以前の魔力が戻った時と同じようには、他の魔法は戻らなかった。
アリアが、何らかの方法で、わたしから聖女の力を奪ったということは確かだろう。彼女が気づいているのかいないのか、そこまでは分からないけれど。
ネルド=カスタは言っていた。
聖女などいくらでも作れるのだと。
そうして彼は廃城に、彼がもっとも大切にしている何かを詰め込んだ。その城を、誰かが焼いて――すべては有耶無耶、闇に消える。
わたしが大切にしていた物語は、イリスから見るとまるで様相が異なる。奪われ尽くされる少女の物語だ。
小説でも、オーランド襲撃の際、イリスは怯えて動けなかったのではなく、魔法が使えなくて、助けたくても助けられなかったのかもしれない。
襲撃事件はきっかけに過ぎないんだ。アリアが現れイリスはたちまち、存在感を失っていく――。
とはいえ悲しみはなかった。どんな陰謀か知らないけれど、アリアが聖女になりたいならば、ならせてあげればいい。聖女の力が欲しいのなら、どうぞどうぞと差し出せばいい。
お母様は心配して、ほとんど一日中、神様と聖女様にお祈りをしていたけれど。
「早く預言が代わればいいのに」
アリア・ルトゥムが聖女である。
教皇庁がそう言ってくれさえすれば、わたしは晴れて一般人。開放されるのに。この半端な状況は中々辛い。わたしに魔法が使えないと知っている、ごく一部の人間は、ひどく白い目で見てくるのだから。
アリアの宮廷での振る舞いの指南役には、ディマが指名されていた。彼もアリアを探るために、承諾していた。わたしは暇だった。
「出かけてみようかな」
だからそう思い立った。
聖女に会いたいという人は相変わらずいるけれど、魔法についての仕事はアリアが請け負っている。夕方になると時間ができた。
魔法が使えないわたしを心配して、ディマは一人で出歩くなと言っていたし、出かける時は必ず呼べと言っていたけど、ほんの少し、城の前の河辺を歩いて帰るつもりだった。今やわたしよりも忙しい彼を、わざわざ呼ぶほどのことではない。
魔法が使えないから、いつものように外見を変える変装はできない。
髪を結って、帽子を目深に被り、質素な服に着替え、侍女たちを追い払い、こっそりと城を出た。
川辺の草は青々と茂り、夕闇の中で夏の虫が鳴き始めていた。真夏が近い。
もうすぐわたしも、この世界で十五歳になるということだ。
歩きながら、ノートを開いた。オーランドを襲撃した兵士たちの目の奥の魔法陣を、記憶の限り、描き出した。複雑な術式であることが分かる。
催眠の魔法。支配の魔法。服従の魔法。意識喪失、自我の剥奪、痛みの鈍化。
この魔法陣は、兵士を奴隷に変えるものだ。いずれも、この世の摂理に反する、闇の魔術に属するものだった。
ある、仮説があった。試したことはないし、今となっては試せないけれど、状況からして、そうとしか考えられない、ことがある。
考えながら、川辺を歩いていた時だ。
突然バチャンと、水が跳ねる音がした。何か大きなものが、川に落ちたような音だ。
目を向けて、ぎょっとした。
子供が、川の中でもがいていたのだ。
――大変だわ! 溺れ死んでしまう!
数日前に降った雨のせいで、水量は多いし流れは早い。周囲に、人はいなかった。
魔法は使えない。だから、わたしは飛び込んだ。夏場なのに、川の水は冷たい。
無我夢中で子供のところまで泳ぎ、ドレスが水を含んだけど、必死で岸まで這っていった。
「大丈夫?」
その子に声をかけると、胡乱げにわたしを見上げる。十歳くらいの女の子だ。女の子は瞬きし、小さく頷いた。
「お父さんかお母さんは、いる?」
その子は首を横に振る。茶色い巻き毛が、濡れて彼女に纏わりついた。
「誰か、お家の人はいるのかしら。近くにいないなら、わたしの部屋で着替えましょう。風邪を引いてしまうわ」
二人ともびしょ濡れだったし、ともかく、着替えなくてはと思った。
大きな瞳がじっとわたしを見つめている。彼女を見て、不思議な思いになった。どこかで見たような覚えがあったのだ。
「……お姉ちゃんが、いる」
その子が聞き取るのがやっとの声量でそう言った瞬間だった。数人がこちらに走ってくるのが見えた。
アリアがいる。その後ろに、ディマもいた。アリアが叫ぶ。
「ライラ!」
少女がぱっと、駆け寄った。
「お姉ちゃん!」
そこでようやくわたしは気が付いた。
川で溺れていたのは、アリアの妹の、ライラ・ルトゥムだということに。一度二人の姿を遠目で見たことがある。ライラは帰宅したアリアを、嬉しそうに出迎えていた。
アリアは飛びついたライラを抱きしめて、問いかける。
「どうしてこんなところにいるの⁉︎」
「お姉ちゃんに会いたくて、来ちゃったの」
ディマがアリアの背後からわたしを見た。他にも数人、アリアの護衛や友人が、取り巻いていた。宮廷で重用されるようになってから、彼女の周りには人がいつもいるようになった。
アリアはライラの体に付いた水を魔法で乾かした後で、ゆっくりと、わたしに目を向けた。睨みつけるような視線だった。
「イリス様、この子に何をしたんです」
厳しい声だった。アリアの腕の中で、震えるライラに、ずぶ濡れのわたし。
「もしかして、わたしを疑っているんですか?」
驚いて問いかけてしまった。
「――……突き落としたの? この子が、わたしの、妹だから?」
これは仕込み?
それとも偶然を利用しただけ?
それとも――本当にわたしがこの子を害そうとしたと思っているの?
思いが頭を駆け巡る。
夕日が、アリアの背に当たり、わたしに向かって影を伸ばした。その場にいる人間たちが、驚愕の表情でわたしを見た。
誰もが知ってる。アリアの台頭と、反比例するように宮廷で影を薄くするわたしのことを。
「そんなこと、していません。溺れそうだったから、助けたんです」
アリアの後ろにいた一人が言った。
「ではなぜ、聖女様は魔法を使わなかったのですか」
答えられなかった。
疑惑の目が、わたしを見てくる。明らかな劣勢だ。何を言っても、言い訳だろう。ライラはわたしの方を見ようとさえしないし、庇うことも言ってはくれない。
「イリスは――」
ディマだけはわたしを庇うようなことを言いかけたけれど、わたしは小さく首を横に振って制した。
彼が得た信頼まで失うことをしてはいけない。まだアリアの側にいてもらわなくてはならないから。
「疑われるようなことをしてしまってごめんなさい。ですが本当に助けただけです。ライラさんが無事で、本当に良かったと思います」
そう言って、わたしはその場を後にした。




