大切な婚約者様
他の人間が立ち入らない場所が安全だと考えて、わたしはオーランドと一緒に図書室へと向かった。回廊に差し掛かったところで、ばったりとディマとアリアに会ってしまった。
ディマとアリアが、同時に頭を下げた。二人はどこかで話でもして、これから帰るところなのだろう。
ディマの腕にアリアの手が乗っている。宮廷での習わしだ。別にどうというわけではないのだけれど、先日ディマはアリアの魅力を語っていたから、胸がざわざわしてしまう。
わたしの腰にはオーランドの手が添えられているし、それぞれがそれぞれの役割を演じているだけだとは分かっているのに。
彼らの横を、わたしとオーランドは通り過ぎようとした。いつもはディマは、声なんてかけない。けれどこの時、ディマは言った。
「イリス。彼女を送ってくる。送ったら、すぐに戻るから、待っていてくれ」
振り返り、わたしは頷きで返事をした。ディマも今日、もしかしたら兵士がオーランドを襲うかもしれないことを、知っているのだ。
庭を抜け、オーランドと二人図書室に入る。この二年近くで、本の量も格段に増えていた。わたしの本、オーランドの本が、それぞれの場所に集められている。時に互いの本を読むこともあったし、ばったりとここで会うこともあった。
けれど二人で改めてこの場所に入るのは、初めてのことだった。
高い天窓から室内に集められた陽の光は、高い棚に阻まれて、いくつもの光の筋に分かれていた。わたしはオーランドとともに、中央に設置されたテーブルまで行き、椅子に腰掛けた。
「この場所、気に入ってくれたか」
穏やかにオーランドは言う。
「はい、もちろんです」
彼はいつもの笑みを浮かべ、本棚を見回した。
「実を言うと、イリスにここを贈った時、喜んでくれるかどうか不安だったんだ。だからルカを経由して、回りくどくもあなたに渡した。思えば、まるで素直ではなかったな。随分とかわいげのない婚約者だったと思う」
それから彼は、真っ直ぐにわたしを見る。
「あの頃は、形ばかり整えられた中身のない皇帝でしかなかった。あなたが何を考えているのか、少しも分からず恐ろしかったんだ。気を抜けば離れていくのではないかと、そんなことばかり考えていた」
「わたしが心を開いていなかったんですもの、オーランド様がそう思うのも当然です」
それは本心だった。
わたしが十三歳になってから続いた怒涛の戦いの中で、わたしとオーランドは時に衝突し、協力し、乗り越えた。怪我の功名というものか、以前よりも打ち解けているように思う。
思い出すのは、ヘルでのオーランドの態度だ。彼はわたしを心配し、弱音を吐き、そうして受け入れてくれた。オーランドはやっぱり、小説で夢見たヒーローに、よく似ている。
わたしの顔を、オーランドはじっと見つめた。光の筋の一本が彼の顔を照らし、埃が白くきらめいた。
無言が続く。何か、変な答えを言ってしまっただろうか。そう思っていると、彼は言った。
「ディミトリオスが戻り、あなたは以前よりも柔らかく笑うようになったと思う」
「そうでしょうか」
「私より、彼が好きなんだろうね」
「――っ。そんなことありませんわ」
どきりとしたけれど、表情には出ていないはずだ。
わたしはディマが好きだった。とてもとても好きだった。わたしの中にいるイリスがそうさせているんじゃない。生まれてから今日までこの世界を生き抜いて来た、わたし自身が好きだった。
故郷で彼と過ごした輝く日々と、帝都でわたしを救ってくれようとしたことと、ヘルでわたしを信じてくれていたことと、ネルド=カスタから救い出してくれたことと、そうして情けなさと哀れさを覚えるくらい、自分の感情さえも統制できずに、必死でわたしを好きでいてくれる彼の不器用さと真心の、そのすべてが愛おしくてたまらなかった。彼がわたしのことを考える度に幸せが満ちたし、もっともっとわたしで埋め尽くしてしまいたいと思うくらいには、当たり前に、彼を愛していた。
彼といると、今まで怒ったこともないところで怒ってしまうし、笑ったこともないところで、笑っていた。不思議なほどに心は安らいで、同時に知らない熱が産まれるのだ。
与えてくれた以上に与えてあげたい。いつまでも幸せに笑っていて欲しいと、強く願う。
けれどそんな心の内を、誰にも言ったことはない。
「あなたは、嘘を吐くのが本当に下手だな」
何を思ったか、オーランドはそう言って、また笑っただけだ。
「ファブリシオおじさまは、上手くなったとおっしゃってくださいます。それに、家族と婚約者はどちらも大事です。比べようがありません」
この返事が適切かどうかは分からないけど、そう答えた。
「オーランド様のことを、大切な方だと思っています。でも、もしわたしの他に愛する方ができたのなら、どうか遠慮などしないでくださいませ。わたし、それで仕事を放棄することなんてありませんもの」
オーランドは目を伏せた。
「ああ。もしそうなったら、遠慮はしないでおくよ」
それから再びわたしを見る。
「それはそうと、そろそろ結婚式の準備に取り掛からなくてはね。イリスが十六歳になるまで、もう一年になったのだから。前も言ったが、誕生日の当日に結婚式にしようと思うんだが、いいだろうか。着たいドレスがあるなら、今のうちにデザインを伝えてくれ。他にも要望があれば言うといい」
「はい。考えておきます」
オーランドは微笑むと、わたしの唇にキスをした。
まるで自分が、裏切り者になった気分だった。
オーランドのことは、ディマとはまた別のところで、好意を抱いてはいた。ともにローザリア帝国のために戦う戦友のようなものだったし、生まれた時から窮屈で、生き方を定められていたという点に、友情や共感のようなものを、抱いていた。
だけど、わたしはオーランドとは結婚しない。オーランドはわたしがそんな思いでいることを、当然知らない。彼が未来の話をする度に、心の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。オーランドはわたしを信頼してくれている。もしかすると、今は、本気で好きでいてくれるのかもしれない。
彼との会話に、彼とのキスに、これほどの罪悪感を抱かなくていい日が、もうすぐやってくるはずだ。オーランドはアリアに恋をして、アリアが聖女になって、わたしとディマは、故郷に帰る。
そんな日は、きっと、すぐ、そこにあるはずだった。
二人して、時に話しながら、時にそれぞれの本を読みながら、過ごしていた時だった。ふいに人の気配が、外でした。
太陽は西に傾いてはいたけれど、夕刻にはまだ早い。そんな時だ。
バリンと、大きな音を立て、突如として図書室の窓がすべて割れた。
天窓からガラス片が降り注ぐ。
襲撃だと、すぐに気がつく。
夕方ではない。
だけど、始まったんだ。




