ヒロイン
イリス・テミス
わたしたちは、機を待った。
必ず訪れるその時を、ただ、ひたすら。息を潜めながら、待っていた。
わたしは十四歳をとうにすぎ、もう少しで十五歳になる、そんな春の、ある日のことだった。
いつも通りの一日だった。夕食前に、ディマがわたしの部屋に駆け込んでくるまでは。
彼はひどく興奮した様子で部屋に入り鍵をかけると、わたしの肩を掴み抱きしめる。ぱっと離れたあとで、叫んだ。
「イリス、現れた!」
どういうつもりか、ディマが手に持つ籠からは見事な赤い花が覗いていて、強烈な匂いを放っていた。それから気付いたように、ディマは周囲を見渡した。わたし一人だけであると確認したようだ。
この一年で伸び束ねられた黒髪が、彼の動きに合わせて揺れる。
「イリスと二人きりになるとお母様が怒るんだけど……。いたしかたない」
ディマの興奮の理由に、一つだけ心当たりがあった。
「見つけたの?」
ただそれだけの問いかけに、ディマは頷いた。
「ああ、見つけた。いたよ――アリア・ルトゥムが、遂に現れた」
そう言って、ディマは話し始めた。
◇◆◇
それはディマが、オーランドに用事を言いつけられたことに始まる。この一年でオーランドの信頼を得るようになったディマは、船の制作の進行管理を任されるようになっていた。ヘルと本土を結ぶ、新たな船だ。
レリーフは一体誰の思いつきなんだか、聖女イリスの姿が彫り込まれている。……まあ、それは余談。
ともかくディマは、帝都の端にある港まで、馬車は使わず、馬で大通りを抜け向かおうとしていた。
その道すがら、街中でのことだ。
「や、やめてください!」
甲高い大声が聞こえたらしい。人々が、関わり合いになることを恐れるようにその声の付近から離れていく。目を向けると、少女を男たちが取り囲んでいるのが分かった。
少女の年は、わたしと同じくらい。とても困った様子で、今にも泣き出しそうだったから、彼女を助けに、ディマは向かった。
「いいからこっちに来い!」
男の一人が彼女の腕を掴もうとした瞬間、ディマは間に割って入った。
「嫌がっているじゃないか。やめとけよ」
「なんだあ、てめえ!」
突然の乱入者に怒った男がディマの顔を殴ったらしい。これなら正当防衛だと、ディマ魔法陣を複数出し、更に言った。
「体が切り刻まれたくなかったら、失せろ」
鼻先で光る攻撃魔法に恐れをなしたのか、慌てて彼らは去って行った。それを確認してから、魔法陣を引っ込めると、ディマは少女に向き直る。
「大丈夫? なんで絡まれてたんだ」
少女は大きな瞳でディマを見上げ、存外しっかりした声で言った。
「花を、売ろうと思っていたんです。そうしたら、変な誤解をされてしまって、金をやるから体を売れって……」
「よくあんな大人数に絡まれても堂々としていたね。立派だよ」
彼女の格好にさっと目を通す。着ている服も、金がありそうには見えない。彼女が手に持っている籠から、花を一本抜き取ると、ディマは金を握らせた。
「花を一本くれ。持ち合わせはこれしかないが、足りるか」
花の代金にしてはかなり多い金を、彼女に手渡した。彼女の表情は険しいものになる。
「施しならいりません」
ディマが驚いたのは確かだったという。同時に、確かに彼女を哀れみ、施しをあたえようとしていた自分に気が付いた。だが払ったものを今更戻されても困る。
「ならもう数本、貰っておくよ」
しかし彼女の表情は晴れない。
「……じゃあ、全部くれ。妹にあげるから」
そう言って、籠ごと取ると、ようやく彼女は納得したように頷いた。それから、ディマの頬に触れる。
「怪我しているわ」
先ほど男に殴られた場所だった。後で治癒魔法をかければいいだけで、実際そう言おうとしたが、言おうとしたときにはすでに、痛みは引いていた。
目の前の少女が直したのだ。強い魔力だ。それに、魔法陣が出なかった。
困惑しながら、ディマは言った。
「それだけの魔力があるなら、さっきの男どもなんて蹴散らせたんじゃないのか」
少女は微笑む。
「あまり目立ちたくないんです。妹は魔法が使えないし、恨みをかってあの子になにかされたら嫌だもの」
そこで、やっとディマは気が付いたという。
わたしに聞いた、情報。彼女は帝都郊外で、妹と一緒に住んでいる。ディミトリオスとの出会いは、彼女を助けることに始まる――強い魔力を持つ少女。
「君――君の、名前は」
問いに、彼女はにっこり笑った。
「アリア・ルトゥムです」
◇◆◇
ディマは一本の花を手に取ると、くるくると回しながら言う。
「見た目はそうだな――。背はそんなに高くない。ピンクがかった茶髪をしていて、目は大きい。清純というか、笑うと清楚な雰囲気だよ。
人目を引く外見だった。派手ってわけじゃない、自然な感じなんだけど、整った外見に、なんとも落ち着いた声色をしていた。側にいると安らぐような、もっと話していたいような、そんな気分になるんだ。ああ、いい匂いがした気がする」
やけに詳細に彼女の魅力を語ってくれる。なんだか面白くなかった。
「ふうん?」
「なに、嫉妬?」
正直言って、嫉妬だった。
ディマは嬉しそうに笑った後で、誤魔化すように咳払いをした。
「で、僕は思ったんだ。彼女、何か魔法を使っているんじゃないかって。僕に自分を素敵だと思わせるようなさ。だって僕がイリス以外の女の子にそういう風に思うなんておかしいだろ」
「人の感情を変えるとか、そういう魔法は闇に属するものだわ。使ったら代償がある。ディマが彼女を素敵だと思ったんだったら、あなたがそう思っただけなんでしょ」
びっくりするほど冷たい言い方になってしまった。
「ごめん」
けれどディマに気分を害した様子はない。それどころか、感情を噛みしめるように目を閉じた。
「いやいいんだ。いや、そろどころかすごく嬉しい。イリスが僕に嫉妬してくれるってさ」
むう、と口を尖らせて反論を考えたけれど、ディマが本当に嬉しそうに笑うから、言えなくなってしまう。
「それに、他にもおかしなところがあるんだ。その後、アリアを家まで送っていったんだが、そこはお母様が何度も探したという場所だった。
おかしいだろ、これだけ探したアリアが、こんなにあっさり見つかるなんて有り得ない。そこに今までルトゥム家なんてなかったのに、今日行ってみたら、まるでずっと昔からそこに住んでいたようなんだ。近所の奴らも、アリアに親しげに声をかけていたし、彼女自身、祖父の代から住んでいるって言うんだよ」
「街ぐるみで嘘を吐いているか、お母様の勘違い――……そうじゃなければ、誰かが闇の魔術を使って周囲の記憶を改竄して、彼女という存在をそこに置いたということ?」
「僕はそうじゃないかって、思ってる。お母様がそこを探したなんて知らない奴が、アリアをそこに住まわせて、今日僕が船の様子を見に行くと知っていた奴が、僕と彼女を出会わせた。とりあえずは、また会う約束を取り付けたよ」
ディマは両手を握りしめた。
「間違っていなかったんだ。僕らの考えが、正しかった。――どうする」
答えは決まっている。
待ちに待った、瞬間だった。
アリアはイリスよりも、早く生まれていたんだろう。十五歳に、なっているに違いない。
迷いはもう、随分と昔に捨てていた。
「やろう、ディマ」
わたしの答えに、ディマは強く頷いた。
「ああ、僕らならやれる」
これから始まるのは、アリアの物語だ。
魔法あり、戦いあり、ロマンスありの、ローザリアの聖女の物語が、遂に幕を開けるのだ。そうして悪役は、テミス一家。皆、死ぬ、悪役一家だ。
けれど死ぬつもりなんてさらさらない。わたしたちは生きて、幸せにならなくてはならなかった。




